第181話 暁の世界④

 同刻。山岡辰彦は、ドーンタワーのエントランスホールにいた。

 受付も兼ねるこのエントランスホールは広く、一角には大きな喫茶店もある。

 山岡は、そこで紅茶を愉しんでいた。


(……ふむ)


 三席で囲われた丸いテーブル。一人、紅茶を口にする。


(なかなかの美味。流石は一流ホテルと言ったところか)


 感慨深くそう思う。

 山岡はここに来た時の宣言通り、今は休暇を貰っていた。

 服装こそ普段の執事服のままだが、今は完全にプライベート。

 優雅なティータイムである。

 だがしかし、その心までは休んでいる訳ではない。


(さて)


 カチャリ、と紅茶を置き、考える。


(旦那さまの命は『久遠真刃』なる人物を調べよであったが……)


 山岡が火緋神巌より受けた密命。

 それが、『久遠真刃』の内偵だった。


(ここまでの人格面には問題はない。良識人だ。しかし……)


 山岡は、眉をしかめた。

 それ以外の情報が、ほぼ掴めない。


(旦那さまは、彼が御前さまと何か縁のある人物ではないかと考えておられる)


 一族の至宝たる双姫を部外者に預ける今回の強権。

 調和を重んじる御前さまとしては、明らかにらしくない対応だ。

 孫娘のように可愛がっている燦たちを、一時的でも一族の因習から解放してやりたいという想いもあるのかも知れないが、それを踏まえても、極めて異例な強権だった。


 当然、強い反論は次々と挙がった。

 だが、それでも、御前さまは強行された。

 それは、恐らく『久遠真刃』なる人物を事前に知っていたからではないか。

 ――いや、もっと、具体的に言うのならば、『久遠真刃』とは、御前さまが燦たちを一族から解放するために雇った人間エージェントではないのだろうか。


 それが、火緋神巌の推測だった。


『俺とて、御前さまのことは信頼している』


 火緋神家の本邸。

 私室にて、巌は山岡に語った。


『だが、あの方はお優しすぎるお方でもある。今回の件は、月子や俺の娘の将来を案じた一計なのかもしれん。しかしだな』


 巌は、渋面を浮かべた。


『燦は俺の唯一の娘だ。それもあやが残してくれた子なんだ。仮に、あの男が御前さまの雇ったエージェントだったとしても、どうしてよく知らん男――しかも、二十代後半に入ってそうな男に娘を預けなければならんのだ? 分かるだろう? 先生』


 こうした私事の時だけは、昔のようなくだけた口調で自分を『先生』と呼ぶ主人に、山岡は苦笑を浮かべた。


『……火緋神君』


 山岡は、深々と嘆息して告げた。この時だけは、彼も執事ではない。


『そんなに燦君が大切なら、もう少し優しくしてはどうですか?』


『……引導師ボーダーの世界は過酷だ』


 巌は言う。


『蝶よ花よと育てては、ただ摘まれるだけだ。反感を抱かれても強く育てるべきだ。燦の魂力オドの量が一般人並みであるのならば、他にも道はあったのかもしれんが……』


 嘆息する。


『とにかくだ。先生。これはあんたにだからこそ頼むんだ。あの野郎が小学生に手を出すような変態野郎ならすぐに燦を連れ戻してくれ。もちろん、月子もだぞ』


 巌は身を乗り出して、山岡の両肩を掴んだ。


『月子はたけるの正妻にするつもりなんだ。猛の奴はどうにも惚れっぽく女に弱い馬鹿だが、それでも守ると決めたら必ず守り抜く馬鹿だ。あの子を不幸にはしないはずだ』


 巌は強く唇を噛んだ。


『この世界に来てしまった以上、系譜術クリフォトを持たないあの子の将来は、誰かの隷者ドナーになることだけだ。なら、その相手は俺の息子が良い。あの子が正式に俺の義娘になれば、未だしつこいあの蓬莱の叔父とかいう下衆や、火緋神一族の中からも守りやすくなるからな』


『……君は』


 山岡は、かぶりを振った。


『どうして素直に、その想いを伝えないのですか?』


『嫁さんを多く娶りすぎて娘にガチで嫌われてるからだよ』


 身も蓋もない台詞を返す巌。


『俺にも色々と言い分はあるさ。こういう家系だしな。だが、それが原因で娘に嫌われてるのは事実だ。そんな俺が今更何を言ったって燦が聞くはずもないだろう』


 嘆きと共にそう告げる巌に、山岡は溜息をついた。


『分かりました。月子君は私にとっては養女ですし、燦君は大切な「おひいさま」です。御前さまの真意は分かりませんが、かの人物のことは探ってみましょう』


『感謝するよ、先生。いつも世話になる』


 巌は、妻たちと山岡にしか見せない安堵の顔で笑った。


(……厄介な仕事だ)


 率直に言えば、そう思う。

 だが、山岡にとって、燦も月子も、本当に大切な子たちなのだ。

 月子は養女にして愛弟子。

 燦はかつての教え子たちの愛娘である。

 こればかりは、決して手を抜いてもいいような案件ではない。


(確かに、彼の性格は分かった。だが……)


 山岡は、再び紅茶に口を付けた。


(それ以外が分からない。徹底的に過去を消したエージェントなのか? 日本人に見えるが、国外の者なのか? ならば、いずれおひいさまたちを国外に連れ出す可能性も――)


 そう思考を巡らせた、その時だった。


「……え? あれ?」


 不意に、近くでそんな声が聞こえてきた。

 山岡がつられるように視線を向けると、そこには一人の人物がいた。

 二十代前半ぐらいの青年である。

 やや派手な衣服を着た大学生らしき人物だった。

 青年は、目を瞬かせた。


「……え? もしかして『山岡辰彦』?」


 唐突に、その名を呟いた。

 山岡は少し驚いた。


「確かに私は山岡ですが、どこかでお会いしましたかな?」


「うえッ!? マジで!?」


 青年は目を丸くした。


「……うわあ、老けたねェ。山岡さん」


 そんなことを言ってくる。

 山岡は眉をひそめた。


「どこかでお会いしましたか?」


 もう一度そう尋ねると、青年はパタパタと手を振った。


「うん。もう随分と前にね。引導師ボーダー関係でって言えばいいかな? 今のオイラの見た目もあの頃とは全く違うし、分からなくても仕方がないよ」


「それは失礼しました」


 山岡は立ち上がり、頭を垂れる。


「どなたかのご子息殿でしょうか?」


「う~ん、そういう訳じゃないけど……」


 青年は腕を組んだ。


「まあ、そんなに気にしないでよ。オイラ今、久々のオフ・・でさ。まさかと思って、つい声を掛けちゃっただけだしさ」


「いいえ。そうは参りません」


 山岡は言う。


「あなたはすぐに気付いてくださったというのに、私は未だ分からないなど失礼の極み。お詫びをかねて、お茶でもいかがでしょうか?」


「いやいやいや」


 青年は、さらに手を振って困った顔をした。


「本当に気にしなくてもいいよ。それにオイラ、実はこれからデートなんだ。それは山岡さんも同じなんでしょう?」


「……何ですと?」


 山岡は、不思議そうに眉をひそめた。

 青年がデートというのは分かる。

 年齢的にも場所的にも、それは自然なことだ。

 しかし、自分がデートというのはどういうことか……?


「え? 違うの?」


 すると、青年は目を瞬かせた。


「いや。だって、彼女、さっきからずっと待っているみたいだからさ」


 そう言って、彼は後ろに振り向いた。

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