第177話 想い、数多④

 各妃たちが、決意や準備を固める一方で。

 弐妃・杜ノ宮かなたは、フォスター邸のリビングにいた。

 服装は制服姿のまま。愛用の黒いカーディガンだけを脱ぎ捨てたかなたは、料理の下拵えを済ませた後、洗濯物を取り込んでいた。


 広いリビングで一人だけ。

 正座をして、無表情のまま、黙々と作業する。

 まずはタオルや、バスタオルを畳む。

 次いで、エルナ、かなた、刀歌の下着や私服。

 燦と月子の物も丁寧に畳んで、それぞれを分ける。

 新たなる同居人はもう一人いる。老紳士だ。

 けれど、彼の私服はここにはない。従者の鑑たる彼は、主人と衣服を混ぜる訳にいかないとして、自分自身で対応していた。


 だから、残る衣服は一人分だけだった。


「……………」


 かなたは、その大きなシャツを両手で取った。

 彼女の主人の白いシャツだ。

 手を前に、それを掲げて沈黙する。


「……………」


 かなたの沈黙が続く。

 その無表情な顔に、微かに朱が差し始める。

 かなたは、おもむろに周囲を確認した。


 今日は、家には、かなたしかいなかった。

 エルナはまだ帰宅していない。

 かなたが下校する時は、片桐あずさと教室で談笑していた。

 恐らく、まだしばらくは帰ってこないだろう。


 刀歌は、どこかに用事があると言っていた。少し遅くなるらしい。

 真刃は先程、『百貨店ブラックストア』に出かけた。老紳士と猿忌は彼に同行している。


 燦と月子は、まだ帰って来ていない。あの子たちは、下校中に色々な場所に立ち寄っているようだ。家に用でもない限り、まだ帰ってくる時間ではない。

 普段、このフォスター邸には、常駐している従霊たちも多いのだが、今日は近くに気配を感じない。真刃が放任主義 (?)なので、従霊たちは結構自由に活動しているらしい。今日はたまたま留守の者が多い日のようだ。


 正真正銘、今、この部屋には、かなたは一人しかいなかった。

 ――いや、もう一体だけいた。


「……赤蛇あかじゃ


 かなたは、自分の首に巻いた赤いチョーカーに声を掛ける。


『ん? 何だ? お嬢?』


「今から三十分ぐらい、この部屋から出ていって」


『へ? なんで?』


「いいから。出ていって。それから三十分、この部屋に入ったらダメ」


『へ? だからなんで?』


 蛇のぬいぐるみの姿に変化した赤蛇が首を傾げた。

 すると、かなたは淡々と告げた。


「いいから。他の従霊にも伝えて。さもないと切る」


『お、おう。分かったぜ』


 かなたの圧力に、赤蛇はしゅるしゅると床に降りて、リビングを出ていった。

 かなたは立ち上がると、赤蛇が廊下からもいなくなったことを確認して、リビングのドアをしっかりと閉めた。

 これで本当に、このリビングには、かなたしかいなくなった。

 かなたは再び洗濯物――真刃のYシャツの前で正座をした。


 十数秒の沈黙。

 かなたは、大きく息を吐き出して、白いシャツを手に取った。


 大きなシャツだ。……あの人のYシャツだ。

 トクン、と心臓が高鳴る。


 そして、それを恐る恐る制服の上から羽織った。


「……………」


 無表情だったかなたの顔に、朱が差した。

 得も言えぬ背徳感に、ゾクゾクと背筋が震えた。


 ……なかなか。これはなかなか。でも……。


 かなたは、小さく嘆息した。

 素晴らしくはある。けれど、これでは物足りない。

 自分は彼の膝の上で抱っこしてもらうこともあるのだ。これではとても足りない。

 かなたは、白いYシャツを一度脱いだ。それを再び前へと掲げて考え込む。


 そして、


「……………」


 喉を、微かに嚥下させた。


 ……これは……。

 ……この考えは、良いのだろうか?

 ……いや、だけど、これをしたら、きっと……。


 かなたは悩む。

 が、ややあって覚悟を決めた。

 Yシャツを床に置き、自分の胸元に手を向ける。

 上着を脱ぎ、白い肌が露出する。上半身は黒い下着だけになった。

 そして白いYシャツに手を伸ばすが、ピタリと止まる。


 無表情のまま、数秒間の沈黙。

 かなたは喉を鳴らし、微かに肩を震わせると、背中に手を回した。

 最後の衣類も床に落ちる。

 その上で、彼女は、再び白いYシャツに袖を通した。


 ……ふわあ……。


 全身がかつてないほどに震え出す。熱い吐息が唇から零れ落ちた。

 炎に当てられたかのように、体中が火照ってくる。


 まるであの夜のようだ。

 ――そう。あの人と魂を繋いだあの夜のような……。


「~~~~~っっ」


 かなたは声もなく、自分の豊かな胸元の上に、そっと両手を乗せた。

 と、その時だった。


「ただいま帰りました」


 不意に、リビングのドアが開かれたのである。


「………え」


 かなたは、愕然とした表情でドアの方に振り向いた。

 そこに立っていたのは、月子だった。

 月子の方はキョトンとしてたが、


「……え? そのシャツって、おじさまの?」


 徐々に、目を瞬かせていく。

 かなたは、Yシャツのボタンまでは留めていない。

 すなわち、彼女の白い素肌が、Yシャツの間から見えるのである。


「え? 裸? か、かなたさん……?」


 この事態に、月子は激しく困惑していた。

 脳裏に浮かぶのは、とある夜のこと。

 深夜。何故か、父のYシャツを身に着けていた母の姿だった。


「……………」


 一方、かなたは無言だった。

 愕然とした表情も数瞬の間だけ。

 今は、完全に無表情となっていた。

 ただ、脳内では、凄まじい速度で打開策を講じていた。


 ――この圧倒的な窮地。

 果たして、どうすればいいのか……。


 それは、戦闘時の思考速度をも上回るほどの脳の冴えだった。

 そうして、かなたが導き出した打開策とは―――。


「……月子さん」


「は、はい」


 かなたは、おもむろに、もう一着ある白いYシャツを手に取った。

 そして、


「ここに、もう一着あります」


「え? は、はい?」


 動揺する月子に、かなたはこう告げた。


「あなたも、どうですか?」


 …………………………………。

 …………………………。

 ……十五分後。


 リビングの床の上。

 かなたと月子は、対面するように正座していた。

 月子は、熱病に浮かされたような表情で、ふらふらと頭を軽く揺らしている。

 部屋に入った時には、キチンと着ていたはずの制服は、どうしてか今は少し着崩れており、首筋は湯気でも噴き出すかのように火照っていた。


「~~~~~っ」


 声もなく、ただ零れ落ちる熱い吐息。

 月子は、蒼い瞳を潤ませて、火照った頬を両手で抑えた。

 彼女とかなたの前には、それぞれ折り畳まれた白いYシャツが置かれている。


「月子さん」


「ひゃ、ひゃいっ!」


 かなたに名前を呼ばれて、月子は顔を跳ね上げ、動揺した声で返事をする。


「まだ落ち着きませんか?」かなたは淡々と告げる。「やはり第一段階でもないあなたには少し早かったようですね」


「ひょ、ひょんなことはないでふよ?」


 肆妃『月姫』は、呂律が怪しい口調でそう返す。

 対する弐妃は冷静だ。少なくとも表面上は無表情を保っていた。


「いいですか。月子さん」


 かなたは言う。


「今日、ここで起きたことは、心に秘めておいてください」


「は、はいっ!」


 コクコクと激しく首を上下させる月子。


「ぜ、絶対に言いませんっ! 燦ちゃんにもっ!」


「よい返事です」


 かなたは、どこまでも無表情だった。

 内心では、心底助かったと思っていたが。


「月子さん」


 おもむろに、かなたは立ち上がった。


「まだ夕食の用意が済んでいません。手伝っていただけますか?」


「は、はい。かなたさん」


 月子も立ち上がった。


 杜ノ宮かなた。

 その冷静沈着さは、妃たちの中でも群を抜いている。


 そして蓬莱月子。

 期せずして、亡き母の境地へと踏み込むのであった。

 こうして、少しだけ仲が良くなったかなたと月子だった。



 かくして、様々な想いが交差する。

 そこには、こんな想いもあった。



 深夜三時。暗い部屋。

 スナック菓子や、コンビニ弁当の空が散らばるその一室にて。

 唯一の光源であるデスクトップ型のPCの前で、彼女は渋面を浮かべていた。

 下着の上に、白いタンクトップだけを着た女性である。

 この雑多な部屋の主人。

 驚くべきことに、篠宮瑞希だった。


「ああ~、もうっ!」


 飄々としていた面影もなく。

 苛立ちから、彼女は自分の髪を掻きむしった。


「また邪魔された! こいつ、いつ寝てるんだよ!」


 PCを睨みつけて声を上げる。

 それから立ち上がり、ゴミが散在するベッドにドスンと倒れ込んだ。


「どうなってんだよ。僕の《電子妖精ルナトロン》でも突破できないなんて……」


 篠宮家の系譜術クリフォト。《電子妖精ルナトロン》。

 それは、雷電系の術式である。しかし火緋神家ほどの攻撃性はなく、五十年ほど前までは全身の神経を過敏化させて反射速度を強化させる体術主体の系譜術クリフォトだった。


 しかし、近年においては全く違う。

 ネット環境が整った近代においては、篠宮家の系譜術は絶大な能力を誇っていた。

 あらゆる機器の操作を自在に行える術式へと変化したのである。


 特にネット内においては、技術ではなく思考レベルで活動でき、その気なれば、大企業の障壁ファイヤーウォールも突破できる。おかげで瑞希は情報屋として名を知られていた。


 だが、今回に関しては……。


「この僕が、全然、探れないなんて……」


 瑞希は仰向けになって、額に腕を当てた。

 ――久遠真刃。

 唐突に現れて、お姫さまたちを攫った男。

 当然、瑞希はかの人物について調べようとした。

 しかし、一切手掛かりが掴めなかった。

 いや、手掛かりを掴もうと、ネット内から仕掛けるたびに妨害されるのだ。

 現代においては電脳系とも呼べる異能である《電子妖精ルナトロン》を以てしても探れない。


 大企業や国防などではない。たかだか一個人のセキュリティが、だ。

 この鉄壁ぶり。ただの技術者とは考えにくかった。

 恐らくは、自分と同じ電脳系の引導師ボーダーの仕業に違いない。

 だが、どの時間帯に侵入しようとしても、必ず妨害されるのはどういうことなのか……。


(常駐型の術式なのか? いや、それならただの障壁ファイヤーウォールと変わらない。僕なら突破できる。まさか自律型の術式? AIでも組み込んでいるの?)


 謎は深まるばかりだ。

 いずれにせよ、このままではスマホの情報を読み取ることも困難だった。


(悔しいけど、正面突破は難しいか)


 ならばとお姫さまたちのスマホに侵入してみようとしたが、そちらも妨害された。

 ……どれだけ幅広く警戒しているのか。

 結局、現時点の情報と言えば、火緋神家が管理しているサイト関連で、久遠真刃がこれまでどのような仕事を受けているのかと、目視で確認した他の隷者ドナーたちの存在だけだ。

 どうやら、他の隷者ドナーは全員で三人いるらしい。彼女たちの後を付けたところ、星那クレストフォルス校の中等部の生徒であることまでは分かった。


 もはや、アナログに頼った情報の方が多い。

 情報屋を自負する瑞希としては、泣きそうな結果だった。


「このままではダメだ。攻略法を変えないと……」


 彼女はしばし悩む。


「……よし」


 そして立ち上がり、再びPCの前に座る。

 PCに触れる前に、同じく机の上にある写真立てに目をやった。

 そこには十四、五歳ぐらいの瑞希と、もう一人の人物の姿が映っていた。

 とても懐かしい写真だった。


「……ごめんなさい。先生……」


 小さくそう呟いて、キーボードに触れた。

 指先は動かさない。触れるのはただのルーティーンだ。

 微かに指先に電光が奔り、瑞希は瞳を閉じる。

 そして――。


「……ヒット」


 少し気まずげな表情で、瑞希は呟く。

 流石にこのルートまでは警戒していなかったか。


「……………」


 アクセスした情報が、直接脳裏に流れ込んでくる。

 瑞希は瞳を閉じた。十数秒ほど沈黙が続き、


「……OK」


 ふっと笑う。

 それから、机の上に置いていたスマホを手に取った。

 手早く操作して通話する。


『……どうした?』


 その声は、すぐに反応した。


「やあ。扇君」


 瑞希は、微笑んで告げる。


「面白い情報を掴んだんだ。どうだい? 君も一口乗ってみないかい?」

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