第163話 その執事。鉄拳にて②

 山岡辰彦とは何者か。

 そう問われた時、彼をよく知る者は、いくつかの回答を出すだろう。

 曰く、最良の従者。

 曰く、執事の鑑。

 だが、火緋神家の古き引導師ボーダーたちは、口を揃えてこう語る。

 ――最強の一般人と。



 まだ、やや肌寒い二月中旬の朝。

 とあるマンションの廊下を、彼は進んでいた。

 年齢は六十歳ほどか。短く刈り上げた灰色の髪に、口元を覆う顎髭。

 黒い執事服を纏う姿は、年齢を感じさせないほどに真っ直ぐ正中線を通っており、歩いていても一切揺らぐことはない。体格は大柄で筋肉質であり、老いてなお、鍛え続けていることがよく分かる佇まいだった。

 ただ、彼の瞳は、左側が光を放っていなかった。

 こちらの目は、義眼だからだ。


 火緋神家の次期当主と目されているがみいわお

 若き日の彼と、後の彼の妻となる少女を救うために負った傷だという。


 老執事――山岡辰彦の、最初の武勇伝である。

 元々、一般の家庭に生まれた山岡は、幼少時、両親と共に中国旅行に出た際に、両親を事故で失った。その後、十五まで中国の孤児院で暮らすことになった。


 ――祖国をこの目で見てみたい。

 そう思った彼は、久しぶりに祖国に帰り、苦労しつつも学業を修め、教員の資格を取った。

 そうして、とある高校の世界史教師となるのだが、ある日、我霊エゴスと遭遇した訳だ。

 拳技のみで我霊バケモノと渡り合う度胸と技量。さらには、片目を失っても、生徒たちを見捨てようとしない山岡の器量に、当時、少年だった火緋神巌は、いたく感服したそうだ。

 周囲の反対も押し切り、一般人だった山岡を一族に招き入れたのである。

 最初の頃は反感も多かったが、実直な山岡は御前さまの憶えもよく、巌のみならず、多くの者たちの信頼を勝ち取っていった。


 かくして、山岡は一族では誰もが知る執事と成ったのである。

 ただ、彼はあくまで執事だった。

 才こそあったが、彼には、引導師ボーダーになる気がなかったのである。


 火緋神家に仕えつつ、山岡は一般人の女性と結婚した。残念ながら、子宝に恵まれることはなく、妻とは十五年前に死別することになったが。

 ともあれ、山岡辰彦とは、引導師ボーダーではないが、最強の一般人という認識が、火緋神一族には浸透しているのである。


(火緋神家に仕えて、はや三十年……)


 少しだけ昔を思い出しつつ、山岡は歩く。


(まさか、このようなことになろうとは……)


 表情には出さず、彼は内心でそう思った。

 火緋神家に仕える執事として、かつての生徒たちの間に生まれた少女のお目付け役を賜ることになったのはいい。

 お転婆ではあるが、あの子はとても良い子だ。

 山岡としては、まるで孫を相手しているような気分になる。


 そして、もう一人。

 御前さまの強い願いで、実質、養女として引き取ることになった少女。

 あの子もとても良い子だった。山岡は、彼女に拳法を指導した。

 素直なあの子は、山岡の拳技を、真綿が水を吸い込むように習得していった。

 恐らく、あの子は、自分の人生における最後の弟子になるだろう。そんな想いもあって、あの子の指導には、これまで以上に熱が籠っていた。


 だが、気に病むこともある。

 引導師ボーダーの世界は過酷だ。

 死が常に隣り合わせということもあるが、愛しい者と結ばれることがないケースもある。いや、そのケースの方が多いとさえ言える。

 あの子たちも、そうなってしまう可能性があると思うと、とても哀しくなる。


(……哀しいか)


 そこで、双眸を細める。


(確かに、それは私も気に病んでいたのだが、まさか……)


 ――そう。まさか、このような展開が訪れるとは思いもよらなかった。

 山岡は、とある部屋の前で止まった。

 コンコンとノックする。が、反応がない。

 いや、耳を澄ませば声が聞こえる。

 何やら立て込んでいて、返事ができないようだ。

 すると、不意に山岡の前に鬼火が現れた。

 それは、ボボボと燃えると、骨の翼を持つ猿へと変化した。


『山岡殿か』


 猿が言う。


「猿忌殿」山岡が骨翼の猿――猿忌に問う。「久遠さまは?」


『主ならば、すでに起きている。だが、少々立て込んでいた』


「では、お時間をずらしましょうか?」


『いや、構わぬ』


 猿忌は言う。


『仔猫が二匹迷い込んだだけだ。いささか以上に暴れ回ったが、すでに捕獲も終わった。入室してもらっても問題ないだろう』


「承知いたしました。では」


 山岡は再びノックし、「失礼いたします」と告げた。

 ドアを開ける。

 そこは、さる人物の私室だった。

 ワークデスク椅子ワークチェア。壁に設置されたクローゼットと、ベッドしかないシンプルな部屋。壁際に空のコーヒー缶が綺麗に並べられているのが、唯一の特徴か。

 山岡は、部屋の中心を見やる。


 そこにいたのは、一人の青年だった。

 年齢は二十七歳ほど。身長は百七十四ぐらいか。

 痩身ながらも鍛え上げられた肉体に、そこそこ整った顔立ちをした青年だ。

 部屋着として好んでいるのか、よく見かけるラフに着こなした上質の白いYシャツに、黒いジーンズを履いている。


 ただ、今朝の彼は一人ではなかった。


「……まったく。お前たちは……」


 額に青筋を浮かべて、そう呟いている。

 彼の左腕の中には、小柄な少女が納まっていた。

 ふわりとした淡いゴールドの髪。湖を思わせる蒼い瞳に整った鼻梁。今は胸元に『white cat』と黒文字でプリントされた、とても大きな白いTシャツのみを着ている。

 年齢は十二歳なのだが、剥き出しになった脚は大人びていて美しい。ハーフゆえか、シャツから浮き出る双丘も年齢離れした大きさだった。


 ――蓬莱ほうらい月子つきこ

 山岡の弟子であり、養女である。

 何故か、金髪の上に同色のネコミミウェッグを取り付けた彼女は、青年の左腕に腰をかけるような形で抱きかかえられていた。彼の大きな背中をギュッと片手で掴んで、耳まで真っ赤にして俯いている。


「ああ! ずるい!」


 迷い込んだ仔猫は二匹。

 もう一匹も、そこにいた。

 年齢は、月子と同じく十二歳だ。

 赤みを帯びた活発そうな眼差し。毛先に行くほどに、明るいオレンジ色へと変わる長く艶やかな赤髪を持ち、それを途中で枝分かれさせて、それぞれ真っ赤なリボンで結いでいる。今日はその上に、髪と同色のネコミミウィッグも付けていた。

 そして、彼女もまた、大きなTシャツのみを着ている。

 胸元に『black cat』と白文字でプリントされた黒いTシャツである。


 ――火緋神燦ひひがみさん

 山岡のかつての教え子でもある主人の娘だ。


「もう! ずるい!」


 彼女は、首根っこを青年の右腕で掴まれていた。月子と同じ程度の身長である燦は、すらりとした、年相応の華奢な脚をバタバタと動かして暴れていた。


「なんであたしは、いつもこんな雑な扱いなの! もっと公平さを要求する! おじさんは月子とかなたに甘すぎだ!」


「騒々しい」


 おじさんと呼ばれた青年――久遠くどう真刃しんはは半眼になる。


「寝起きに暴れ回るな。どうせこの悪戯いたずらもお前が首謀者なのだろう」


「そうだけどさ! ああ! 月子!」


 振り向いた燦が叫ぶ。


「今、こっそりおじさんの肩にしがみつこうとしてたでしょう! ずるい!」


「ふえっ!? し、してないよ! 燦ちゃん……」


 月子は、慌てて顔を上げて、


「ウ、ウン、ソンナコト、シテナイヨ」


 グルグルと回り出した瞳でそう告げる。

 一方、真刃は、


「……この悪戯いたずらむすめどもめ」


 そう呟いて、燦を床に降ろした。

 それから、振り向いた燦の頭をコツンと軽く叩く。

 腕に抱いたままの月子の頭もだ。


「不仲とはいえ、親元から離れて寂しいのは分かるが、大概にしておけ」


 二人にそう告げる。

 月子は、しゅんとして「ごめんなさい」と呟く。

 燦の方は少し頬を膨らませて、真刃の顔を見上げていたが、


「……おじさん」


 言って、両腕を伸ばす。


「あたしも抱っこ」


「……………」


 真刃は、眉をしかめた。

 しばしの沈黙。燦は両腕を伸ばしたまま動かない。

「え、えっと」と、月子がおろおろとし始めた頃。


「……お前は」


 真刃は、諦めたように息を吐いた。


「……本当に仕方がない奴だな」


 そう言って、少し屈んで月子を横に降ろした。

 それから、代わりに燦の腰を両手でかかえ上げた。


「ありがとう! おじさん!」


 宙に浮いた燦は、真刃の首筋に両手を回して抱き着いた。

 かくして双姫の片翼も、真刃の腕の中に納まった。


「……おじさま……」


 一方、月子は真刃のシャツの裾を握って、身を寄せる。

 燦を片腕で抱きつつ、真刃は空いた手を月子の頭の上に置いた。


「燦。月子」


 深く嘆息してから、真刃は告げる。


悪戯いたずらも程ほどにしてくれ」


 その表情は、本当に疲れた様子だった。

 例えるのならば、やんちゃな園児二人を抱える保育士のような面持ちである。

 しかし、燦と月子の方といえば、


「……ん」「……はい」


 瞳を少し潤ませて、完全に乙女な顔を見せていた。


(……むう)


 その様子を、山岡は真顔で見ていた。


(悪い人物ではないな。むしろ引導師ボーダーにしては珍しく良識を持っている)


 久遠真刃という人物を、そう判断する。

 少なくとも快楽や蒐集コレクション目的で隷者ドナーを増やす者が多い昨今の引導師ボーダーたちとは違う。


(ここ一月のおひいさまや月子君への態度も、まるで『娘』に接しているかのようだった。面倒見がよく、恐らく子煩悩な人物なのだろうな)


 それは分かる。

 ある意味でそこは推測通り・・・・だ。

 だがしかし、


「……おじさん」「……おじさま」


 部屋に入り込んだ二匹の仔猫は、すっかり甘えモードに入っていた。

 主人・・に身を寄せて、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


(……むむう)


 再び、山岡は内心で唸る。

 まだまだ幼いはずの彼女たちの、あの乙女の表情ときたら……。


(……旦那さま)


 そうして、心の中で主君に忠言する。


(これは、想定以上に由々しき事態やもしれませんぞ)

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