第一章 その執事。鉄拳にて

第162話 その執事。鉄拳にて①

 ――三十年前。

 とある校舎の教室にて。

 その死闘は、密やかに繰り広げられていた。


「――はあッ!」


 吐き出される裂帛の呼気。少年は強く床を蹴った。

 年齢は十六。黒い学生服の襟首には一年生を示す組章があった。

 未だ幼さの残る顔つきだが、その加速は一流の格闘家も比較にならないほどだった。


『おお。怖い。怖い』


 対する相手は、人ではなかった。

 サイズこそ人だが、両腕、両足が異様に長い人形。

 関節が不自然に曲がる、とんがり帽子を被ったピエロの人形である。

 カラフルな燕尾服を纏う不気味なピエロは、トンッ、トンッ、と教室内の机を次々と蹴り飛ばして、後方へと逃げる。


「逃がさねえよ!」


 少年は、邪魔な机や椅子を拳で払い、跳躍する。

 拳に魂力オドを集中させる。纏わりつくような気配に集中力が削られるが、

 ――ガンッ!

 少年は、両の拳を胸板の前で叩きつけた!

 ジジジッ、と拳に電気が奔り、一瞬後、袖を焼き尽くすほどの猛烈な炎が灯った。


『へえ! 凄いや!』


 ピエロは、カクンと首を横に傾けた。


『範囲を縮小した代わりに、術式阻害を強化したオイラの結界領域ステージの中で、まだそこまで強い系譜術クリフォトを使えるのかい!』


 ピエロがそう声を上げた直後、氾濫する机の引き出しから影が飛び出してきた。

 長い髪、裂けた口元。両手に包丁を握りしめた不気味な影だ。

 それらが五体。少年に襲い掛かる!


「邪魔すんな!」


 それらを、炎の拳で打ち払った。

 影女たちは、瞬く間に炎に包まれて燃え落ちた。


「この程度で俺の炎を止められるかよ!」


 少年はピエロに迫る。と、


『うわあ! 怖ァい!』


 言って、ピエロは燕尾服から一つの宝石を取り出した。

 真紅に輝く、美しい紅玉石ルビーだ。

 その宝石は、ピエロが素早く指を動かすと消えた。

 と、その直後、


「――なッ!」


 少年は目を瞠った。

 ピエロの長い腕。その中に一人の少女が捕えられていたからだ。

 セーラー服に包まれたスレンダーな肢体に、赤みを帯びた長い髪の少女。

 校内一の美少女と呼ばれるその美貌は、今は苦しそうに歪んでいた。

 少年にとっては、よく知る少女だった。


 星野ほしのあや。同じクラスの女生徒。少年の特殊過ぎる家庭の事情ゆえに、校内で孤立していた彼にも声を掛けるようなお節介な奴だ。


(――星野ッ!)


 少年は、その場で硬直してしまった。


『オイラはさ』


 そんな少年に、ピエロは言う。


『特殊な眼を持っててさ。少し見れば、そいつの大切な人間ってのが分かるのさ』


 そう告げて、全く動かない唇の間から、長い舌を出した。

 ぬめりと輝く、人形の体からは考えられない生々しい舌だった。

 その舌は、少女の頬を舐め、首筋を伝い、そのまま胸元にまで入り込んでいく。

 少女は「う、あ」と声を零した。

 少年の顔が、カァァッと赤くなった。


「てめえッ!」


 まるで荒ぶる火山のように。

 少年は、拳の炎をさらに燃やして、ピエロに襲い掛かった。

 完全に頭に血が上った状態だ。鬼の形相である。

 しかし、ピエロは動じなかった。

 少女の肌に舌を這わせつつ、彼女の慎ましい左の乳房も指先で弄んで、


『ダメダメ。戦闘は冷静さを失った方が負けなのさ』


 言って、空いた右手の人差し指を、少年の額に向けた。

 次の瞬間、

 ――ズドンッッ!

 ピエロの指先は凄まじい速さで伸び、少年の額を撃ちつけたのだ。

 少年は目を瞠ったまま、大きく仰け反った。

 額から大量の鮮血が散る。そうして床に体を突きつけられた。


『名付けてピノキオショット。なんちゃって』


「て、めえ……」


 仰向けに倒れた少年は、手を震わせながら口を動かす。

 しかし、額を強打された少年は、酷い脳震盪の状態だった。

 それでも眼光だけは鋭いまま、


「星、野を、離せ……」


 どうにか顔だけを上げて、ピエロに言う。


『アハハ。大した執念だね』


 ピエロは、仮面の表情を一切変えずに笑った。


引導師ボーダー誇りプライドって奴かな? ううん。違うか。この子がオイラの瞳に観えたってことは、君はこの子のことが好きなんだよね』


 そう告げた時、「う、あ、やぁ……」と、少女が体を大きく身じろぎさせた。

 その息は荒く、首筋、胸元は火照り始めている。

 ピエロは、舌をさらに深く這わせて、クツクツと笑う。


『オイラの舌には媚薬の効能もあってね。この子も仕上がってきたみたいだ』


 ピエロは、未だ立ち上がれない少年を見やる。


『そうだね。オイラの宝石箱も充分にストックできたし、たまには凌辱もいいかな? まあ、凌辱も化け物の嗜み・・・・・・だしね』


「……て、めえッ!」


 少年は声を吐き出した。


「星野に手を出してみろ! ぶっ殺すぞ!」


『アハハ! 怖いね!』


 ピエロは笑う。


『うん。決めた。今から君の目の前で彼女を――』


 そう告げようとした時だった。

 ――ガララララ、と。

 突如、教室のドアが開かれたのだ。

 少年も、ピエロも唖然とした。


「……おや」


 教室の入り口に立つ人物。それは、灰色の紳士服スーツを着た男性だった。

 年齢は、三十代になったばかりほどか。

 彫りの深い、精悍な顔つきの人物である。


「……そこに倒れているのは、火緋神君ですか?」


 硬直するピエロと少年をよそに、男性は教室に入ってくる。

 次いで、ピエロの方にも目をやる。

 ――いや、正確には、その腕の中にいる少女にだ。


「……そこにいるのは星野君ですね。そして」


 男性は、ピエロに尋ねる。


「あなたは、どう見ても我が校の生徒には見えませんな」


『……驚いたね』


 ピエロは、舌を少女から離して呟く。


『ここは一般校なんだろ? まさか二人も引導師ボーダーが紛れ込んでいたなんて』


「何を言っているのかは分かりませんが」


 コツコツと歩き、男性はピエロとの間合いを詰めていく。


「我が校の生徒たちに暴行を加えた以上、あなたを見過ごす気はありません」


 言って、拳を強く固めた。


「やめろ! 馬鹿!」


 少年が倒れたまま叫ぶ。


「そいつは我霊エゴスだ! しかも名付きネームド我霊エゴスだ! 本物の化け物なんだよ! 中国拳法をかじったとか知んねえけど、一般人のあんたが勝てる相手じゃねえんだよ!」


「先生に対して馬鹿とはなんですか。相変わらず口が悪いですね。火緋神君」


 そう返すと、コオオ、と男性は呼気を吐いた。

 少年は「え?」と目を瞠った。

 男性の全身に、魂力オドとは違う活力がみなぎったように感じたからだ。


「そこなる不審者」


 トン、と一歩前に、右足を踏み出す。

 そして、


「私の名は山岡辰彦やまおかたつひこ。本校にて、世界史を教える教師です」


 左拳を胸板の前に、右の拳を静かに前へと突き出した。


「星野君を離しなさい。そしてあなたを警察に突き出させていただきます」

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