第5部 『暁の塔』

プロローグ

第161話 プロローグ

 シン、と。

 室内の空気は、何故か張り詰めていた。

 それが、すでに数分ほど続いている。

 誰もが、眉をひそめていた。


 ――どうして、御前さまは何も語られないのか……。

 そこは、火緋神邸の御前の間。

 火緋神家の当主である御前さまにお目通りする部屋だ。

 そして今日、御前さまに面会しに現れたのは、一人の青年だった。

 黒髪に黒目。年齢は恐らく二十代後半。身長は百七十台半ばほどか。

 前髪を上げたその風貌は精悍であり、そこそこに整っている。

 正中線の通った正座から、相当に鍛え上げられていることも分かる青年である。


 名は、久遠真刃。


 ――先日。火緋神家の至宝とも呼ばれる『双姫』。

 彼女たちが誘拐されるという事件が起きた。

 その事件を迅速に対応し、見事、双姫を救い出したのが、彼だった。

 今日は、その感謝と謝礼について彼を呼び出したのだ。

 とあるえにしから、すでにこの青年と知り合いであったという守護四家の一角、大門家の当主の案内でこの御前の間にまで赴いた久遠真刃。

 しかし、名乗りを上げた彼に対し、御前さまは未だ沈黙したままだった。

 誰もが、訝し気に思うのも当然だった。

 当の本人である久遠真刃も、内心ではそう感じているだろうが、流石に礼儀として眉をひそめるような真似はしない。

 ただ、ピクリとも動かず、次の言葉を待っていた。


 ――と。


『……失礼、いたしました』


 ようやく、薄布の囲いの向こうから声が響いた。


『いささか、考え事をしておりました』


「いや。気にされることはない」


 久遠真刃がそう返す。

 すると、薄布越しの人影が微かに揺れた。

 まるで何かに驚き、肩でも震わせたかのようだった。


「火緋神家の長ならば多忙のはず。在野の引導いんどう……引導師ボーダーと、こうして会う機会を設けるだけでも、破格の厚遇であると承知している」


『……いえ』


 御前は言う。


『あなたは一族の者の恩人です。長たる者が直接お礼することは当然です』


 一拍おいて、


『改めて感謝を。燦と月子を救っていただき、心から感謝いたします』


 そう告げて、人影が頭を下げる。

 この場にいる守護四家。そして燦の父親である火緋神巌が目を見開く。

 まさか、御前さまが、頭まで下げると思わなかったのだ。

 四家の一人が声を上げようとするが、別の者が手で制した。

 御前さまは、一族にとって尊き御方だ。

 その御方が、一族の長として誠意を見せようとされているのだ。

 在野の引導師ボーダー風情に、御前さまがそこまでせずとも――。

 そう思う気持ちは、誰しも抱いていた。

 だが、人としてその筋は正しい。

 一族としては、長に倣うべきだった。

 火緋神巌、大門紀次郎。そして残る守護四家の当主たちもまた頭を垂れた。


「面を上げられよ」


 一方、久遠真刃は言う。


「危地にある子供を救うのは当然の行為だ。あなたが頭を下げられることではない」


『……お心遣い、感謝いたします』


 そう返して、御前は頭を上げた。

 他の者たちも、少し遅れて頭を上げる。

 そうして、火緋神の御前と久遠真刃の会合は始まった。

 その内容は、淡々としており、至って事務的なモノだった。

 久遠真刃は、火緋神家に深く関わるつもりはない。

 それゆえの対応だった。


 最終的には、予定通りこの件は謝礼金を後日支払って、終了することになった。

 最初の不可解な沈黙の時間を除けば、特に問題もない会合だった。


「では、これにて失礼する」


 一礼して、久遠真刃が立ち上がる。


「御前さま」


 大門紀次郎が、御前に視線を向けて告げる。


「私が、久遠殿をお送りいたしましょう」


『はい。お願いします』


 御前はそう答えた。

 大門もまた立ち上がる。と、その時だった。


「最後に一つだけよいか?」


 おもむろに、久遠真刃がそう口を開いた。

 部屋にいる全員が、青年に注目する。


『……何でしょうか?』


 御前がそう尋ねると、彼は少しだけ遠い目をした。

 そして――。


「あなたに尋ねたい。あなたは……」


 一拍おいて、


「火緋神杠葉という人物を知っているか?」


 その瞬間。


(―――――あ)


 薄布の囲いの中にて座る、御前と呼ばれる女性。

 すなわち、火緋神杠葉の心は、強く震えた。

 思わず、自分の口元を片手で覆う。


「古い人物だ」


 真刃の言葉は続く。


「百年も前の人物になる。火緋神の直系だった。彼女に関する情報を知らないか?」


 杠葉は、さらに強く口元を押さえる。

 彼が自分の名を呼んでくれた。

 ただそれだけのことに歓喜が込み上げる。

 どうしようもなく、心と体が震えた。

 が、今は必死に堪えて――。


『……百年前ですか……』


 平然を装いつつ、声を絞り出す。


『……申し訳ありませんが、憶えのない名です。火緋神一族は数多く、その間には凄惨な戦争もありました。当時の一族の者には、行方知らずとなった者も少なからずいます。代々の系図も戦火にて紛失しておりますので、調査も難しいかと』


「……そうか」


 真刃は、少し悲しそうに眉尻を落とした。

 認識阻害の術式を施した薄布の囲い。

 だが、杠葉の方からならば、はっきりと真刃の表情を読み取れる。


(――違う!)


 杠葉は、叫びそうになった。


(――私はここにいる! ここにいるの! 真刃!)


 立ち上がって、そう告げそうになってしまう。

 けれど、


『お役に立てず申し訳ありません。ですが……』


 声を震わせないように懸命に耐えながら、杠葉は尋ねる。

 これだけは、聞きたかった。


 ――怖い。

 とても恐いけれど、どうしても知りたかった。


『どうして、彼女のことをお知りになりたいのですか?』


 憎んでいるから?

 その死に様がどうだったのか、それを知りたかったから?

 彼が、自分を憎むのは当然だ。

 自分は、彼を裏切り、殺したのだから。


(……ああァ……)


 杠葉は尋ねてしまった恐怖に、体を強く震わせる。

 けれど、目の前の彼は、哀しくも、とても優しい眼差しで――。


「詮なき話だ。ただ、オレは知りたかった」


 彼は、言う。


「彼女は幸せになれたのか。彼女には、どうか幸せになって欲しかった」


 ……本当に詮なき話だな。

 そう呟いて、彼は皮肉気な笑みを零した。


(ああ、ああァ……)


 杠葉の心臓は、この上なく締め付けられた。

 ボロボロ、と大粒の涙が零れ落ちる。

 ひたすら、強く下唇を噛んだ。


「では、失礼する」


 そう言って、彼は背中を向けて歩き出す。

 大門も彼の後に続いた。

 杠葉は、真刃の後ろ姿に見入っていた。

 徐々に去って行くその背中に、思わず両手を伸ばした。


 ――久遠真刃と、火緋神杠葉。


 彼らを遮っているのは、とても薄い布だけだ。

 だが、それは、途方もなく強固な隔たりだった。


 杠葉の力を以てしても。

 決して破れない互いの世界の境界だった。


 本当は、叫びたい。

 泣き叫んで、彼の背中に飛びつきたい。

 無様なのは分かっている。

 その資格がないことも理解している。

 けれど、今ここで、心からの想いを告げれば――。

 きっと、彼は受け止めてくれる。


 何を敵にしても。

 いかなる過去や、しがらみがあろうとも。


 彼は、強く抱きしめてくれる。

 杠葉が愛した久遠真刃とは、そういう人だった。

 それが分かっていても、彼女はそれ以上、動けなかった。


(………あ)


 杠葉は、自分の両手を見た。

 そこには、彼女にだけ見える黒い鎖があった。

 奇しくも真刃に繋がれた、かの《制約》の鎖のように。

 それらが、杠葉が動くことを許さない。

 その場から、全く動けなくする。

 杠葉は、強く瞳を閉ざした。


 そうして、


『……今日はお会いできて光栄でした』


 彼女の唇は、火緋神の長としての言葉を紡ぐ。


『またお会いできることを、楽しみしております』


 真刃はそれには明瞭には答えず、「では、失礼する」とだけ告げて退室した。

 杠葉の涙が頬を伝う。


 百年に渡り、火緋神家に囚われた姫君。

 その四肢と、心を縛り付ける後悔と懺悔の鎖。

 それが打ち砕かれる日がいつなのか、それは誰も知らない。

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