幕間二 灯る炎
第143話 灯る炎
その少女の名は、
姓はない。養父の姓ならばあるが、養父が亡くなってからは一度も名乗ったことはない。だから、ただの多江だ。
彼女の実父は、漂流民だった。
生まれたばかりだった多江を連れて、この国に流れついたのである。
小舟に乗って漂流する多江たちを助けてくれたのは、一人の漁師だった。
しかし、実父はすぐに息絶えた。
元々酷い怪我を負っていたらしく、数日と持たなかったそうだ。
それで困ったのは、漁師だった。
彼の手元には、褐色の肌を持つ赤ん坊が残されたのだから当然だ。
漁師は赤ん坊を見捨てられず、『多江』と名を付けて育てることにした。
流行り病で妻と娘を亡くしていたことも、彼の決断を後押ししたのだろう。
漁師は、喧嘩っ早い人ではあったが、優しい養父でもあった。
多江は、養父の大きな手で撫でられるのが、とても好きだった。
だが、そんな養父が多江を育てられたのは、彼女が十三歳の時までだった。
十三年後、養父は、病で亡くなってしまった。
漁の最中に負った傷が炎症を起こし、体調を悪化させてしまったのだ。
不運な結果だ。
しかし、彼女が住んでいた漁村は、養父が死んだのは、多江のせいではないかと噂した。
その褐色の肌の色から、彼女は村の中では腫れ物扱いをされていたのである。
それでも、養父が生きていた頃は、彼が守ってくれた。
『俺の娘に、何を言いやがるか!』
そう言って、時には拳で相手を黙らせたものだ。
けれど、そんな養父も、もういない。
多江は、村で孤立していった。
それどころか、多江がこの村に来る前の流行った病さえも、彼女のせいにされ始めた。
身の危険を察した多江は、村を飛び出した。
故郷を追われた多江は、ある時は農村の作物を盗んで飢えを凌ぎ、ある時は、養父にも負けない腕っぷしで、どうにか生き延びていた。
だが、そんな生活で生き延びていられたのも数年だけだった。
いよいよ、どうにもならなくなり、多江は盗んだ鉈で一人の男を襲う決意をした。
とある鉱山の街。
夜遅く。酒に酔った青年だ。
後で聞いたのだが、当時、十六だった多江よりも二歳だけ年上の青年だった。
体格のいい大柄な男である。
酔っていても、強盗をする相手としてはあまり適していない。
だが、異国の血のせいか、並みの男よりも体格のいい多江としては、自分より小柄な男や女性を襲うよりも、心理的な抵抗が少なかった。
その青年は呑み仲間と別れると、ふらふらと路地裏に進んでいった。
多江は好機だと思った。
そうして青年の背後に迫ると、
『……大人しくしな』
後ろから羽交い絞めにして、刃
『金を出しな。そしたら放してやるよ』
そう告げると、男は、
『……おいおい。この声。そんで背中の感触。もしかして女か?』
『……いいから、金を出せ』
多江が低い声で告げる。が、男は全く動じず、
『おうおう。いま出すよ……と』
そう言って、いきなり多江の手首を取った。そして全身を強張らせる多江の腰を掴んで足を払う。相撲の上手投げだ。多江は容赦なく地面に叩きつけられた。
多江は『ガハッ』と息を吐き、鉈を手放してしまった。
『ははっ! おいたが過ぎたな、姉ちゃん』
男は笑いながら、仰向けに横たわる多江の顔を覗き込んだ。
そして、
『……おい。お前さん』
『……………』
多江は、無言で男を睨みつけた。二人はしばし視線をぶつけ合う。
『……そうだな』
不意に、男が呟いた。
『今夜は女を買うつもりだったんだが、こういう夜もあるもんだな』
言って、男は片腕で多江を持ち上げた。
『あ、あんた! 何を――』
多江が何かを言う前に、男は彼女を担ぎ上げた。
多江の腕と足を掴み、肩に担ぐ形だ。
『何をする気だい!』
『まあ、少し付き合えよ』
男は笑って言う。
『俺はあんたが気に入った。ちゃんと金も出すからさ』
『――なっ』
多江は目を瞠った。
男の言わんとしていることはすぐに分かった。男は多江を買うと言っているのだ。
しかし、これまで多江は自分の体を売るようなことはしなかった。
所詮、自分は鬼の子だ。
褐色の肌に、男にも勝る体格。
自分には女の価値はない。そう思っていたからだ。
『あんた、自分が言っていることが分かっているのかい!』
そう怒鳴るが、男は『はは』と笑い、
『まあ、俺の家は
そう告げて、その男は多江を担いだまま、帰路に着いた。
その夜。実のところ、多江が思っていたようなことは何も起きなかった。
男は、自分に家に着くなり、多江に食事をさせてくれたのだ。
不格好な握り飯である。
半ば飢餓状態に近かった多江は、困惑しつつも、それに手を付けた。
それは、本当に久方ぶりの人間らしい食事だった。
ポロポロと涙を零す多江を、男は優し気な瞳で見つめていた。
――翌朝。
多江は、これまた久方ぶりに、布団の中で目が覚めた。
『よう。起きたか。姉ちゃん』
そう告げるのは、朝食の用意をする男だった。
金堂岳士。それが男の名前だった。
『さて。姉ちゃん』
朝食後、男は汚い袋を、ガチャリと畳の上に置いた。
『これが今の俺のほぼ全財産だ。これで俺は姉ちゃんを
『…………』
多江は困惑しつつも、袋を手に取った。
中には、それなりの額が入っていた。
『……どういうつもりだい?』
多江がそう尋ねると、
『その金で、俺の食事やこの家の掃除をして欲しい』
岳士は、そんなことを告げた。ますますもって怪訝そうな顔をする多江。
『まあ、要は姉ちゃんに、俺の面倒をみて欲しいってことさ』
一拍おいて、岳士はニヤリと笑う。
『もちろん、夜の相手の方も込みだからな。とはいえ、そっちの方は強要する気はねえよ。姉ちゃんが構わねえっていうのならでいいよ』
『…………』
多江は無言だった。何も返事をしない。
岳士は、何も答えない多江を置いて、仕事に出かけた。
全財産だという袋を置いてだ。
多江は、しばし無言だったが、おもむろに立ち上がって家を出た。
そして、
『……料理なんて、いつ以来だっけ?』
そう呟いた。
岳士と多江の奇妙な生活は、約束通り
最初は困惑も多かったが、いつしか二人は冗談も言い合うようになっていた。
この生活が、生き疲れていた多江を癒すためのものだということは、流石に彼女も理解していた。粗暴に見える岳士が、その実、この上なく優しい人間であることも。
ただ、それでも彼女が、岳士に体を許したのは、最後の夜だけだった。
自分のような女に迫られては、岳士が困るだけだろうと思っていたからだ。
最後の日の夜。自分でも出来るこれまでの感謝と、たった一夜だけなら、岳士も困らないだろうと思って、初めて
岳士は、とても困惑した様子だったが、受け入れてくれた。
そこでも、岳士が優しかったこともあるだろう。
自分がこんな甘い声を出せるとは、自分でも驚いたぐらいだ。
『……ねえ、岳士』
一時間ほど経って床の上。一糸も纏わぬ姿で横になる多江は、おもむろに尋ねた。
『どうして、あの夜、私を助けてくれたのさ?』
『……あんな目をした女を放っておけるかよ』
同じく床の上。胡坐をかいた岳士が、ボソリと答える。
『人生に絶望しきった目。あん時のお前は、まるで死にたがってるみたいだった。とても放っておけなかったんだよ。けどよ……』
そこで、ボリボリと頭をかく。
それから、多江の腕を掴み、自分の膝の上にまで移動させた。
『……岳士?』
多江が目を瞬かせると、
『本当はな。元気になったお前を、このまま行かせるつもりだった。なのに、なんで最後の夜にこんな真似をしやがるんだ。お前は日に日に綺麗になっていくし、俺がこの一月、どれだけ我慢してたと思うんだよ』
岳士は、ムスッとした表情を見せた。
『た、岳士……?』
『この莫迦が……』岳士は、大きく息を吐き出した。
『なんてことをしやがるんだよ。最後にこんなことをされちまったら、もうお前を離すことなんて出来なくなっちまったじゃねえか』
『………え?』
多江は、目を丸くした。
『あのな。多江』
岳士は、多江を強く抱きしめた。
『俺はとっくにお前に惚れてんだ。お前は感謝のつもりだったかも知んねえけど、惚れた女にこんな真似をされて離せる男がいると思ってんのか?』
『た、岳士? け、けど……』
多江は、困惑の表情を見せた。
『私、こんなのだよ。肌は黒いし、髪の色も変だし、背だって高い。腕力だって男並みだ。とても女だなんて……』
『お前は綺麗だよ』岳士は言う。『お前の代わりなんて俺にはいねえ。多江』
岳士はニカっと笑った。
『俺の
『――――っ』
多江は、言葉もなかった。
『というより、こうなったら、もう絶対、俺の
『へ? た、岳士?』
困惑する多江。岳士は宣言通り、容赦なく、ありたっけの愛をぶつけてきた。
翌朝。多江が岳士の家を出ていくことはなかった。
その日から、ただの多江は『金堂多江』になったからだ。
(……岳士)
今でも多江は思う。
自分が岳士に出逢えたのは幸運だった、と。
そして、いま初めて思った。
八年前。岳士と出逢った夜。
あの時の自分は、きっとこんな目をしていたに違いないと。
(……すずりちゃん)
多江の傍らには、立花すずりがいた。
良家のお嬢さまを思わす佇まい。多江とは違う本当に女性らしい少女。
そんな彼女が、今は、ただただ虚空を見据えていた。
その瞳は、どこまでも暗い。まるで闇の底のようだった。
「……――以上の十五名が、第四夜の脱落者ですわ」
御堂に訪れた、黄金の女が告げる。
周囲にはすすり泣きする女や、絶叫を上げる者もいた。
愛する男を失った女たちの悲痛の声だ。
多江は、ギリと歯を鳴らした。
「では、脱落者の伴侶の方は、私についてきてもらえますか?」
黄金の女がそう促す。
女たちは、ふらふらと立ち上がった。
全員の眼差しには、絶望と共に、憎悪があった。
これまでの女は皆そうだった。
多江のみならず、ここにいる女たちは、すでに気付いていた。
この黄金の女に連れていかれた者たちは、きっと、もう生きていない。
この女についていき、愛する男の仇を討つために襲い掛かって返り討ちにあったか、それとも絶望のまま死を受け入れたのか。そのどちらかだ。
すずりも、促されるままに立ち上がった。
瞳は虚ろのままだ。恐らく、彼女は死を受け入れている。
多江は、そんな少女を見やり、
(……ごめん。岳士)
静かに、覚悟を決めた。
こんな少女を、放ってはおけない。
多江はすずりの片手を掴み、強引に座らせた。
代わりに、自分が立ち上がる。
「……あら?」
その様子に気付いた黄金の女が小首を傾げた。
「どういうつもりかしら? あなたの伴侶はまだ生きていますわよ?」
女たちの顔など憶えてもいない黄金の女だったが、多江のことだけは認識していた。
恐らくは、自分と同じく異国の血を引いているからだろう。
「分かっているさ」
多江は、一呼吸を入れて、
「一つ聞かせな。あんたは連れて行った女たちをどうしたんだい?」
「とある薬を服用していただきましたわ」
黄金の女は即答した。多江は「毒かい?」と尋ねた。
「いいえ。私とお館さまが調合した薬です。人の異能を引き出す薬ですの」
「なんだって?」多江は眉をひそめた。「なんでそんなものを?」
「まあ、これも舞台装置開発の一環ですわ。人工的な異能者を創る。そうすれば、演出の幅も大きく広がりますので」
そこで、黄金の女は微笑む。
「ただ、まだ完成度が低く、死亡率が高いのが難点ですの。ですが、あなたたちにも
「……それを餌にして、薬の実験台にしてるってことかい」
多江は、強く歯を軋ませた。多江だけではない。立ち上がっている女たちも、座り込んだままの女たちも、一様に黄金の女を睨み据えている。
「ええ。その通りです」
黄金の女は言う。
「これまでの方は、それを承知で薬を服用しましたわ。ただ……」
少し残念そうに、眉を八の字にした。
「適合者は未だいませんが」
「……そうかい」
多江は、グッと拳を固めた。
「なら、私も連れて行きな」
「……あら? 今のお話、聞いていませんでしたの?」
黄金の女が小首を傾げた。
「全員が適合できずに死んでいるのですわよ?」
「耳は遠くないさ。理解してるよ。それを承知で、この子の代わりに連れて行きな」
多江は、座り込むすずりの頭に手を乗せた。
「誰かこの子を頼むよ」そう告げると、一人の女性が前に出て、すずりを抱きしめた。
多江は知らないが、その女性は菊だった。
「これでも、体力と頑強さには自信がある。私は耐えてみせる」
多江は、黄金の女に宣言する。
「そして、あんたを張っ倒してやるよ」
「……勇ましいですこと」
黄金の女は、ふっと笑った。
「良いですわ。あなたの伴侶はまだ生きているので、連れて行くのは本来問題なのですが、あなた自身の意志ならば、お館さまもお許しくださるでしょう」
確かに、体力的にもあなたが最も適合率が高いかもしれませんし。
そう呟いて、黄金の女は背中を向けて歩き出す。
ついて来いという意志だ。
多江は歩き出す。立っていた女たちもだ。
今の話を聞いてもなお、全員が歩みを止めない。
生き残れば男の仇を。死んだとしても男の元に逝けるからだ。
多江は少し立ち止まり、振り返った。
茫然自失のすずりを抱きしめる菊と、視線が重なる。
菊は告げた。
「……どうか、生き延びてくださいませ」
「ああ。その子を頼むよ」
多江の言葉に、菊は静かに頷いた。
多江は再び歩き出す。
久しぶりに御堂から出た。
多江は、眩しい太陽に双眸を細めた。
(ごめん。岳士)
こんな無謀な真似をすることを夫に詫びる。
(けど、それでも、私はあの子を放っておけない。こいつらを許せない)
静かに拳を固める。
(私は死なない。精一杯生き足掻いてみせるよ。だから、あんたも)
多江は、遠い場所にいる夫に語り掛けた。
(生き延びて。また一緒にご飯を食べよう)
そんなありふれた未来を望んで。
強い灯火を胸に。
金堂多江は、前へと進んだ。
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