第136話 夜明けは遠く④
作家。
槍の名手を幾人も輩出した名家であり、実家は大きな道場も開いている。
古くは、かの徳川家にも縁故があったらしく、道場は大正の世であっても盛況だった。
そんな一族の長男として、志信は生まれた。
彼の父親は、跡継ぎである志信を幼少時より厳しく鍛えた。
志信はそれに必死に応えた。
父の教えは厳しかったが、武才にも恵まれたこともあり、志信はわずか十四で一族でも五指に数えられるほどの力量を持つようになった。
しかし、彼が十五の時だった。
彼は、大病を患ってしまったのである。
およそ半月間。
彼は、生死の狭間を彷徨った。
その結果、どうにか生還は出来たが、肺を病んでしまった。
彼は、五分も槍を振るい続ければ、呼吸困難に陥るようになってしまった。
そんな体で修練を積めるはずもない。
その上、半月以上に渡る闘病の影響もあり、彼の力量は、道場の門下生の中でも瞬く間に凋落していった。
『……お前は、もう無理か』
父は、恐ろしいほどに、あっさりと志信を見限った。
あれほど懸命に応えた志信を捨て、生まれたばかりの弟を跡継ぎに決めたのである。
志信は武を捨て、暇さえあれば書物に耽るようになった。
それは半ば現実逃避だった。
朝も夜も昼も。
ただひたすら自室に籠って、書物の中に心を埋蔵する。
そうして五年。
志信は、自身でも筆を取るようになった。
初めて執筆したのは、冒険活劇の物語だった。
もはや、少し歩くだけで息を切るようになった自身の願望を込めた物語だった。
志信には文才もあったのだろう。その作品は、父の友人だった出版社関係の人物に目に留まり、世に出ることになった。
志信は、作家として生きることになった。
実家を出た志信は、執筆を続けた。
最初の頃は実家から仕送りもされていたが、幸運にも、彼の作品はそれなりの人気を博し、五年も経った頃には、それほど食うには困らなくなっていた。
ただ、引き籠り生活であることには変わらず、用があって外出する時はいつも辛かった。
歩くこともそうだが、何より日の輝きが眩しい。
日を見上げるたびに思う。
こうも辛いのは、やはり自分は日陰者だからだろうか。
顔を合わせるのも稀だが、弟は、父の後継ぎとして、すくすくと育っているそうだ。
陽の当たる場所で、天に向かって伸びている。
比べ、自分は何なのだろうか……。
今でこそ職にはなっているが、この生活は現実逃避の結果に過ぎない。
自分は日の光に耐え切れず、挫折し、影の中に落ちた。
病に患ったのは運が悪かったせいだが、志信は、いつしかそう考えるようになっていた。
(……私には、日の光は眩しすぎる)
外を歩くたびに、そう思っていた。
そんなある日のことだった。
志信の家に、一人の少女が訪れてきたのである。
『今日からお世話になります!』
年の頃は十六歳ほどか。
大人しそうな顔立ちの少女は、出会うなり、そう告げてきた。
名は、立花すずり。
彼女は作家志望であり、幼少時の友人である門下生を通じて、ここを紹介されたそうだ。しかも、父の直筆で、彼女を内弟子にせよという文まで携えていた。
(……父上)
その文を読んだ時は、志信も渋面を浮かべたものだ。
内弟子など、ただの体裁だ。
彼女自身はどう考えているかは分からなかったが、父としては、私生活においては半ば世捨て人になっている息子に、妻でも娶って、隠居生活を見直せということだろう。
未婚の女性を内弟子にするとは、そういうことだった。
『……私は、弟子は取りません。帰りなさい』
志信はそう言って彼女を送り返そうとしたが、意外とすずりは頑固者だった。
その日こそ帰ったが、毎日のように押しかけてくるのである。
『私は諦めません』
彼女は、志信の作品のみならず、様々な作品に精通していた。
どうやら、作家志望というのは本当だったらしい。
志信は、彼女の情熱に押されて、結局、すずりを弟子にすることにした。
当然ながら、内弟子にはしない。
あくまで小説の師弟としての関係だ。
少なくとも、最初はそのつもりで接していた。
しかし、家庭的でもあるすずりは、日の光を嫌がるほどに出不精な志信に呆れ、少しずつ家事を行うようになった。その頻度は徐々に増え、二月もすれば毎日となり、半年後には台所と食卓は、完全に彼女に掌握されていた。
ここまで来ると、志信も、すずりに対して心を開いていた。
古今東西、男は胃袋を掴まれると負けなのである。
一年後、すずりは志信の内弟子となった。
前述した通り、未婚の女性を内弟子にするということは、言葉通りの意味ではない。
無論、今まで通り小説の指導もするが、事実上の婚約である。
彼女も、それはよく理解していた。
『こ、これからも、よろしくお願いします』
三つ指をつき、赤い顔でそう告げるすずりの愛らしさは、今も憶えている。
奥手な二人が結ばれるまで、さらに一年もかかったものだ。
志信にとって、彼女は救いそのものだった。
とても優しい光。
日陰者の自分が、どれほど彼女に癒されたことか。
彼女のいない人生など、もう考えられない。
志信は、彼女が十九歳になる日に、祝言を上げることに決めた。
けれど、その前に。
日々、小説の勉強と家事に忙しいすずりにも、どうか息抜きをして欲しい。
そう考えて、志信は今回の温泉旅行を計画した。
出不精な自分ではあるが、頑張って用意したのだ。
すずりも喜んでくれた。
そうして二人は、この街に来たのだが――……。
「――ガハッ!」
その時、武宮志信は息を大きく吐きだした。
ガクン、と膝が崩れそうになる。
急ぎ、呼気を整えようとするが、
(……くそッ)
息を吸い込むことが出来ない。
呼吸が出来ないのだ。
限界の五分は、とうに過ぎている。
病に冒された肺が、悲痛な声を上げていた。
それに加えて、
――ぐらり、と。
視界が歪む。
血を流し過ぎていた。
志信の左の前腕は、大きく抉られていた。
奴らに、喰い千切られたのである。
止血も叶わず、志信は血を流し続けていた。
それは、もはや致命的な出血量だった。
(……ここまでか)
槍を杖にして、血の気の引いた顔で志信は前を見やる。
そこには、十体は超える屍の鬼がいた。
志信一人に半数も倒されて、流石に警戒しているようだ。
(……みんなは逃げられただろうか)
今にも消えそうな意識で、志信は思う。
それは十分前のことだった。
金堂岳士、黒田信二同様に彼もまた、全く別の場所に転移させられていた。
だが、そこは最悪の場所だった。
街の中央。遮蔽物もない大きな広場だったのである。
志信の一団は七人いたが、瞬く間に敵に囲まれ、三人が殺された。
志信自身も左腕を大きく負傷し、生き残った仲間も追い込まれていた。
――このままでは全滅する。
誰もがそう思った。
そして、志信はこうも思った。
この傷は致命傷だ。自分はもう助からない。
(――嫌だ! 私は死にたくない! すずり! すずりッ!)
胸が締め付けられる。
だが、武門に生まれ、かつては武に生きた志信は覚悟を決めた。
(……許してくれ。すずり……)
「――三人とも!」
生き残った三人の仲間に向かって叫ぶ!
「逃げなさい! ここは私が引き受けます!」
三人はギョッとした。
「先生ッ!」「まさか死ぬ気じゃ!」「それはダメだッ! 先生!」
三人の青年が叫び返す。
「私は、もう助かりません!」
屍の鬼の首を刎ねて、志信は言う。
「せめてここで時間を稼ぎます! ただ、願わくば――」
志信は、双眸を細めた。
「……すずりを。私の愛する人を守って欲しい」
「「ッ!」」「せ、先生……」
三人は一瞬、肩を震わせるが、
「……行きなさい」
全盛期さえも超える槍の冴えで三体の屍鬼を薙ぎ払い、志信は告げる。
「君たちにも愛する人がいるはずです。何としても生き延びなさい」
その声は、とても静かなモノだった。
それだけに、三人の心に響いた。
「……すまねえ」
青年の一人が告げた。
そして立ち塞がる屍鬼の一体を斬り伏せて、
「約束する! あんたの愛する人は必ず守ると!」
そう誓って走り出す。
残った二人も、
「すまねえ!」「先生、すまねえ、先生……」
謝罪の言葉と、感謝の意志を残して走り出した。
前に立ち塞がる屍鬼だけを倒して、道を切り開いてく。
「「「おうおおおおああああ――」」」
逃走し始めた獲物を追おうとする屍鬼どもだったが、
「……どこに行くつもりですか」
それは、志信の槍によって遮られた。
死を覚悟した男は、最後の力を振り絞った。
無数の斬閃が奔る!
屍鬼の首が、腕が、上半身が宙を舞った。
それは、まさしく、魂までも燃やした斬閃だった。
だが、
「――ガハッ!」
やはり、それは最後の輝きだった。
どうにか半数を倒し、足止めには成功したが、もう志信には戦う力は――否、生きる力は残されていなかった。
槍も手放し、その場に崩れ落ちる。
もう呼吸もままならない。
天を見上げて倒れ込んだ志信は、赤い月に目をやった。
――無粋な、月だ。
本当の月は、もっと優しい光だ。
まるで、彼女の笑顔のように。
「「「おぁああああぁあああああァあああああアア……」」」
倒れた志信に、屍鬼どもが近づいてくる。
不気味な唸り声だけが耳に届く。
このまま、自分は食い殺されるのだろう。
(その前に、命が尽きてしまいそうですが……)
心音は、今にも止まりそうだった。
残された時間は、もうほとんどなかった。
その最期の時間に、
(……どうか、すずり)
志信は、心から願う。
(あなたは、生きてください)
自分は、もう傍にいられない。
それでも、どうか、どうか強く生きて欲しい。
生きることを決して手離さないで欲しい。
彼女には幸せになって欲しかった。
それだけを切に願った。
そうして、
「うぐあぁあ……」
醜悪な怪物が、志信の顔を覗き込んだ。
欠けた歯を見せる。
いよいよ死――そう思った瞬間だった。
――ザンッ。
不意に。
目の前の屍鬼の首がなくなった。
その後、一斉に何かが倒れ込むような音が、耳に届いた。
(………?)
薄れゆく意識の中、志信は疑問に思った。
すると、
『……何たる失態か』
ふと、聞き覚えのない声が聞こえた。
青年らしき声だ。その声はさらに語る。
『従霊五将たるこの狼覇が、主命を果たせぬとは……』
その声の主は、志信の顔を覗き込んできた。
志信は、微かに瞳を開いて、それを見た。
(……ああ、これは……)
――なんて綺麗な。
そう思った。
それは、青白い炎を纏う、蒼い毛並みの巨狼だった。
額には黄金に輝く一本角。まるで月の化身のような狼である。
『……許せ。それがしが、疾く早くここに到着していれば……』
巨狼は、そんな言葉を呟いた。
『そなたはもはや助からぬ。せめて言い残す言葉はあるか?』
美しい狼は、そう言ってくれる。
しかし、志信には、それだけの力が残されていなかった。
声が、もう出せないのだ。
すると、狼は察してくれたようだ。
『案ずるな。唇は読める。何が言いたい?』
狼の言葉に、志信は微笑を浮かべた。
そして、
――おお、かみ、さん。
『……何だ?』
――私の、あい、する人に、すずりに、伝、言を。
『承知した。何を伝えればいい?』
志信は一度、瞳を閉じる。
そうして瞼を上げて、空を見やる。
赤い月。
けれど、志信の瞳には、金色に輝く月が映っていた。
日の光ではない。
そっと傍に降り注いてくれる優しい光。
彼を、ずっと癒してくれた光。
(……嗚呼、すずり)
そして、唇を動かす。
愛する少女に、最期の想いと感謝を込めて。
――君は、私の、月でした。
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