第135話 夜明けは遠く➂
――同時刻。
「……ふ~む」
天を突く口髭を持つ小男は唸った。
ソファに座り、瞑目したまま、あごを擦る。
「これは意外や意外。まさか脱落者が出てしまうとは」
そこは、温泉街の旅館の一つ。
西洋風建築の、咲川温泉では珍しい旅館だ。
その宿の一室であるここは、内装も西洋風だった。
木製の椅子に机。部屋の中央には男が座るソファ。
窓の近くにはベッドが二つあり、その一つはシーツが膨れあがっている。
「ここまで生き延びた戦士が、よもや屍鬼ごときに殺されるとはな。人に近い姿が、返って彼らの戸惑いを呼んでしまったかな?」
そんなふうに分析していると、
「……うふふ」
不意に、後ろから首を抱きしめられた。
黄金の長い髪が、ふわりと彼の顔にかかる。
「おやおや。起こしてしまったかね。エリー」
小男――道化紳士は、ゆっくりと双眸を開いた。
「ええ。いま起きましたわ」
そう返すのは黄金の魔性。エリーゼだ。
彼女の歩いてきた後には、白いシーツが落とされていた。
見事な肢体を持つ彼女は今、一糸も纏わぬ姿だった。
「昨夜は存分に甘えさせていただきました。ただ、お館さまの想いを受け切れず、幾度となく先に果ててしまったことを、どうかお許しください」
「ふふ。構わんさ。吾輩の可愛いエリー」
道化紳士は、エリーゼの首筋に触れる。
「吾輩も、いささか加減を忘れたかもしれん」
「いいえ。むしろ、お館さまの愛の深さを痛感いたしましたわ。エリーは、やはり誰よりもお館さまが大好きなのです」
エリーゼは前に移動すると、道化紳士の膝の上に座り、その豊かな胸で彼の頭を抱きしめた。
心から嬉しそうに微笑む。が、
「ですが……」
そこでエリーゼは、子供のように頬を膨れ上がらせた。
「すでに第四夜を始めてしまわれたのですか? 酷いです。エリーも楽しみにしていたのに」
「ははっ、すまない」
道化紳士は朗らかに笑って、エリーゼの腰に腕をやった。
「君があまりにぐっすり寝ていたからね。昨夜は無理をさせたこともある。起こすのは悪いと思ったのだよ」
「……ムム」
エリーゼは、やはり子供のように頬を膨らませる。
「それでも酷いですわ」
「はは、そうだな。ならばエリー。今宵は君もこの
「……お使いですか?」
エリーゼが髪を揺らして小首を傾げると、「うむ」と言って道化紳士は指を鳴らした。
途端、彼らの前に、小さな街の模型が映し出された。
半透明の街だ。そこには三十ほどの白い光点と、その数倍ほどの黒い点が蠢いていた。
白は戦士たち。黒は屍鬼ども。今のこの街の状況を示した模型だ。
「あら? 早々に減ってしまったのですね」
その模型を見ただけで、エリーゼは状況を察した。
が、すぐに眉をひそめた。
「この白い光点。おかしいですわ」
エリーゼの目に映った白い光点。それは高速で移動するモノだった。
「とても人間に出せる速さではありません。これは――」
「引導師だ」
道化紳士が答える。
「どうやら、吾輩の
「あらあら」
エリーゼは、クスリと笑った。
「運が悪いですこと。男ですか? 女ですか?」
「女性だよ」
道化紳士はふっと笑った。そしてもう一度、パチンと指を鳴らす。
すると、今度は彼らの前にとある光景が浮き上がった。
そこには、炎の刃を手に持つ、浴衣姿の女の姿があった。
よほどに焦っているのか、素足のままだ。
月光に美脚を晒して、屋根から屋根へと跳躍して移動している。
時折、風に乗った桜の花弁も、彼女を彩っていた。
「美しい娘だろう?」
道化紳士が言う。
「まさしく、月夜を駆ける桜の乙女だな。素直に
一拍おいて、
「どうやら、吾輩の
言葉を続ける。
「この
「……お館さま?」
エリーゼは、小首を傾げた。
「この娘をですか?」
「ああ」
道化紳士は頷く。
「この招かざる
「……そうですわね」
エリーゼは、桜の乙女に目をやった。
「でしたら、この娘を捕え、お館さまにお贈りいたしましょう」
「……
道化紳士は眉をひそめた。
「それはどういう意味だね? エリー」
「言葉通りの意味ですわ」
エリーゼは、少女のように笑った。
「この娘を気に入られたのでしょう? エリーからの
「いやいや。エリー」
妻の言葉に、道化紳士はかぶりを振った。
「吾輩には君がいるのだぞ。吾輩に不貞をしろとでも?」
「違いますわ」
今度は、エリーゼがかぶりを振った。
「お館さまから寵愛を賜るのは、世界でこのエリーのみ。あの娘は違います。お館さま。天の座に
「……言ってみなさい。吾輩のエリー」
道化紳士は、エリーゼの頬を撫でた。
「では」
彼女は、ゆっくりと唇を開いた。
「お館さまは人間に対し、お優しすぎるのです。天上の御方でありながら、下等で愚劣な人間に慈悲深く接しられます。時には、奴らが対等であるかのように振る舞われます」
「……………」
「お館さまが人間の『愛』に一目置かれていることは存じ上げております。ですが、本来奴らは家畜のはず。人間の娘など、女として扱う必要などございません。お館さま」
エリーゼは、主人の頬に両手を添えた。
「人間など幾らでも雑に扱ってもよいのです。人間とは家畜。このエリーと、対等な存在なのではないのです。仮に、あの娘がお館さまのお情けを賜ったとしても、それは戯れにすぎません。なんと幸福な雌でしょうとは思いますが、エリーの愛は何一つ揺るぎません」
「……………」
道化紳士は、沈黙した。
エリーゼは、その蒼い瞳で主人を見つめていた。
そして――。
「
道化紳士は嘆息して、妻を強く抱きしめた。
「不貞などと言って悪かったね。君の悪癖の理由をようやく理解したよ。確かに吾輩は人間を対等に見すぎていたようだ」
「……お館さまぁ」
甘えた声を上げて、エリーゼも夫を抱きしめる。
「君の悪癖にも理解を示すべきなのだが、たとえ戯れとはいえ、やはり愛しい君が他の男に抱かれることは不快なのだよ。そこでだ」
道化紳士は、エリーゼの前髪をかき上げて告げる。
「今日より一年に一度、君に
「――お館さまっ!」
エリーゼは、瞳を輝かせた。
「嬉しい! その人間は大切にしますわ! 大切に、ゆっくりと、ゆっくりと頂きますわ!」
「ふふ。そうか」
道化紳士は、エリーゼの頭を撫でた。
すると、エリーゼは、
「でしたら、お館さま!」
輝く眼差しのまま、道化紳士に告げる。
「エリーも、一年に一度、お館さまへの
エリーゼは、虚空に映し出された桜の乙女を手で差した。
「今宵、お館さまが見初めたあの娘をお贈りいたします! エリーの心尽くし、どうかご堪能くださいませ!」
「おいおい。エリー」
道化紳士は苦笑した。
「早速だね。だが、言い出したのは吾輩だ。喜んであの娘を頂くよ」
「はい! お館さま!」
そう返事をして、エリーゼは勢いよく立ち上がった。
次の瞬間、裸体だったエリーゼの肌から、白い
くるりと回転し、
それから
「では、少々お待ちください。すぐに戻りますので」
「ああ。行ってきなさい。エリー」
指を組んで、道化紳士が答える。
「行って参ります。あなた」
エリーゼは笑ってそう告げた。
そうして、彼女は部屋から出て行った。
「……ふふ」
道化紳士は笑みを零すと、ソファの背もたれに体を預けた。
「人間に甘いか。いささか初心を忘れていたのかもしれん。子に教えられるとは、こういうことなのかもしれんな」
今宵は驚かされることばかりだ。
そう呟き、双眸を閉じる。
しばしの沈黙。
「……だが」
瞳を開け、道化紳士は呟く。
「
不思議な夜だ。
これまでにもないような高揚感を覚えている。
「これは、もしや……」
道化紳士は、ふっと笑った。
「案外、まだ素晴らしい
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