第132話 夜が来る④

 そうして深夜。

 襖に遮られた小部屋にて。

 桜華は、この上なく緊張していた。

 布団の上に膝を崩して座り込み、静かに襖を見つめていた。

 ――正確には、その奥にいる人物をだ。

 時刻は一時を過ぎた頃か。

 こうして座るのは、すでに一時間以上だった。

 時折、指先で唇を押さえて、小さく吐息を零している。


『…………』


 そんな桜華を、彼女の胸元の上で白冴は見守っていた。

 主君より守護を託されたこの女性は、今、勇気を振り絞ろうとしている。

 ここで声を掛けるのは、野暮というものだ。

 さらに数分。

 そして、


「………うん」


 未だ緊張を抱きつつも、桜華はゆっくりと立ち上がった。

 遂に、動く決意をしたのだ。


「………白冴」


 桜華は、自分の胸元に声をかける。


「お前の助言には感謝している。その、自分が玉砕した時には骨を拾ってくれ」


『……承知いたしました。ですが……』


 白冴は、少し声を柔らかくした。


『そのご心配はまずないかと。真実を知り、桜華さまがそれを望まれるのなら、真刃さまには拒む理由がございませぬ。強いて懸念するのならば、真刃さまが、紫子さまと杠葉さまに不義理とお考えになられることですが……』


 白冴は少し浮いて、ゆらりと左右に揺れた。


『僭越ながら、もう一つ助言をば。真刃さまは意外でございますが、女性の押しに弱いお方でございます。ここは押して押して甘えられるのが最善かと』


「あ、甘えるっ!?」


 桜華は思わず叫ぶそうになったが、慌てて口を抑えつつ、


「じ、自分がか!? 自分があいつに甘えるのか!?」


 激しく狼狽しながら尋ねる。


『もちろんでございます』


 一方、白冴は、淡々としたものだった。


『それで押し切れることでしょう。それでもなお押し切れぬようでしたら、このような策はいかがでしょうか』


 一呼吸入れて、


『まず、紫子さまや杠葉さまにも劣らぬ、その封印されしお胸さまを解放し、浴衣の帯のみをお解きください』


「え? それは裸なのでは……」


『いえ。完全に脱がれる必要はございません。胸元から腹部までの肌を覗かせるように、むしろ着こなすのでございます。無論、恥じらいもお忘れなく。そうして、胸元の上に両手を添えます。そこから、上目遣いをしてみせられ、「……自分ではダメか?」と、不安そうに仰られれば完璧でございます。完殺でございます。我が君も、桜華さまを愛さずにはいられないでしょう。間違いなく、今宵は桜華さまの初めての夜伽となります』


 そんなことを、淡々とした口調のまま、言ってきた。

 桜華は、顔を真っ赤にした。


「そそそそんなことを自分がするのか!? しかも今夜いきなりっ!?」


 再び叫びそうになって、また口を抑える桜華。

 そんな彼女に、白冴はさらに告げる。


『その覚悟は、すでにお有りだとお見受けしておりますが?』


「~~~~~っっ」


 はっきりと指摘されて、桜華は耳まで赤くした。


『今宵は、紫子さまも杠葉さまもおられませぬ。桜華さまの勇気一つでそれは叶います。今宵は桜華さまだけのお時間なのでございますから』


「………………」


 長い沈黙が訪れる。

 桜華は、ずっと俯いたままだった。

 しかし、ややあって。


「き、気合いを」


 桜華は、ゆらゆらと揺れる水晶に願った。


「頼む。自分に、気合いを入れてくれ」


『……承知いたしました』


 白冴はそう応じると、ゆらりと揺れて、

 ――スコ―ンッ!


「――痛いっ!?」


 額を強打されて、桜華は仰け反った。


『……いかがでございますか?』


 白冴が尋ねると、


「……う、うん」


 両手で額を抑えつつ、涙目ながらも桜華が頷いた。


「ありがとう。気合いが入った。お、桜華、頑張るから……」


 そう告げて、桜華は大きく深呼吸した。

 次いで、襖に手をかけて――開けた。

 広い部屋。真刃が寝室にしている部屋だ。

 その中央には布団がある。が、


「………え?」


 桜華は、目を瞬いた。

 布団はある。しかし、そこには真刃の姿はなかった。


「……久遠?」


 桜華が彼の名を呟くと、


「……御影か?」


 不意に声がした。

 桜華が振り向くと、そこには窓辺の椅子に浴衣姿で腰をかける真刃の姿があった。

 彼は肘を立ててあごをつき、窓の外を眺めていた。


「お前、まだ起きていたのか?」


 桜華がそう尋ねると、真刃は「ああ」と答えた。


「お前もそうなのか?」


「あ、う、うん。寝付けなくてな」


 桜華は頷いた。それから真刃の元に近づく。


「その……折角だ。少し話をしないか」


「……オレとか?」


 真刃は、桜華を一瞥した。

 桜華は少し緊張しつつも「ああ」と頷いた。

 真刃はどうしてか、しばし沈黙したが、


「……まあ、良かろう」


 そう返した。桜華は「そ、そうか!」と言って、真刃の前の椅子に座った。

 窓から差し込む月明かりだけに照らされて、二人は対面した。


(……頑張ってくださいませ。桜華さま)


 桜華の胸元の白冴が、心の中で応援する。

 ともあれ、桜華は緊張した面持ちで真刃を見つめた。


「うん。こうして……」


 少し喉を鳴らしてから、彼女は話を切り出した。


「お前と、ゆっくりと話をするのも初めてかもな」


「……確かにな。だが」


 あごを肘で支えたまま、真刃は皮肉気な笑みを見せた。


「少し話したら、お前は早く眠れ。疲れが残るぞ」


「ム。それを言うなら、お前もだろう」


 桜華が不満そうに呟く。と、


オレは、お前とは違う」


 正確に言えば、お前たちと、か。

 続けて、そう呟き、真刃は訥々と語る。


オレは人擬きだ。一夜どころか、七夜寝ずともさほど疲れん」


「……え」


 桜華は、目を丸くした。


「そうなのか?」


「ああ」


 真刃は、ますます皮肉気に口角を崩した。


「睡眠欲がない訳でない。眠ることは心地よいからな。だが、休息としての睡眠はオレにとってあまり意味がないようだ。少なくとも、警戒すべき時まで眠る必要性はないな」


「……お前」


 桜華は眉をひそめた。


「一晩中……いや、この街にいる間、一睡もしないつもりなのか?」


「ああ」


 真刃は、事もなげに頷いた。


「それが出来るからこその人擬きだ。だから、お前は早く寝ろ」


「…………」


 桜華はしばし無言だったが、おもむろに半眼になった。


「何が人擬きだ」


 そして、不機嫌そうに告げる。


「お前、自分を守るために眠らないつもりなんだろう。ああ。一応言っておくが、ここで言う『自分』は、お前のことではない。この自分のことだ」


 言って、桜華は自分の胸に片手を当てた。


「…………」


 真刃は何も答えない。

 桜華は、さらに言葉を続けた。


「この白冴もそうだ。お前は今回の旅で自分を気遣いすぎだ。挙句、寝ずの番だと? 自分はそこまで弱者か? 流石にそこまでされては侮辱と感じるぞ」


「…………」


 真刃はまだ無言だったが、流石に少し面持ちを改めた。


「……そういうつもりではない」


 そう告げると、桜華は「分かっている」と嘆息した。


「お前としては、本当に自分のことを気遣っているだけなのだろう。しかし、それのどこが人擬きだ。同僚を気遣って、こっそり寝ずの番までする男が」


 桜華は、大きく息を吐いた。


「自分はお前に勝ちたいと思っている。それは揺るがない自分の願いだ。そのため、時にお前と険悪になることも多々ある。だが、それでも――」


 桜華は、真っ直ぐ真刃を見つめた。


「自分はお前が人擬きだと思ったことは一度もない。だって、お前の心はこんなにも人間らしいじゃないか」


 桜華のその台詞に、


「………………」


 真刃は、何も語らなかった。

 しばし、桜華の顔を見据える。

 その眼差しを受けて、桜華が少し頬を朱に染め始めた頃、


「………ふ」


 真刃は、微かに笑った。


「お前は、本当に変わった奴だな」


「ム、失礼だな。自分のどこが変わっているのだ」


 桜華は、とても不満そうな表情を見せた。

 その傍らで、


(……こういったところなのでしょうね)


 水晶の首飾り――白冴は思う。


(真刃さまが、桜華さまを大切に想われる理由は。そして、そんな桜華さまこそが、我が君の支えとなり、愛され、お世継ぎを宿すに相応しく思うのです)


 あるいは、紫子さまや杠葉さま以上に。

 内心でそう思いつつ、白冴は二人を見守った。


「……ん。それでだな。久遠」


 おもむろに、桜華が喉を鳴らした。

 ようやく、本題に入るつもりなのだろう。

 自身の秘密の告白。そして愛の告白だ。


「……どうかしたか? 御影」


 少し様子がおかしい桜華に、真刃は眉をひそめた。


「そ、そのな」


 一方、桜華の鼓動はこの上なく高鳴っていた。

 胸元に片手を当てて、大きく息を吐く。


「じ、実は、自分は、その、ずっと隠していたことがあって……」


「……なんだ?」


 真刃は、皮肉気に笑った。


「罪の告白でもする気か? まあ、付き合ってやらんこともないが」


「ま、まあ、罪といえば罪だな。嘘なんだし……」


 桜華は、ギュッと白冴の宿る水晶を握りしめた。

 それから、少し俯いて沈黙するが、


「う、うん! よし!」


 不意に、勢いよく立ち上がった。


「……御影?」


 流石に、真刃も怪訝な表情を見せる。


「本当にどうかしたのか?」


「ど、どうもしてない。い、いや、これからどうにかするのだ!」


 言って、フー、フーと何度も息を吐き出す。

 そうして、一歩前に踏み出した。


「く、久遠……」


 月明かりだけでも火照っていることが分かる顔で、真刃を見つめる。


「じ、実はな、自分はその、本当は――」


 勇気を振り絞る。

 ……もしも、この時。

 あと五分。

 あとほんの五分だけ、この時間が続いていたとしたら。

 桜華が真実を。

 その秘めたる想いを、真刃に告げることが出来ていたのならば。

 この時代における二人の運命は、大きく変わっていたかもしれない。

 いずれ来る終焉の時。

 紫子を失っても、残された大切な女性ひとが一人でなく、二人であったのなら――。

 真刃は、破滅以外の道を選んだかもしれない。

 しかし、それは、誰にも分からない可能性だけの話だった。


「じ、実は、自分は――」


 桜華が、そう叫ぼうとした時だった。

 ――ドクンッ、と。

 何かが脈動する気配を二人は感じた。

 一転、桜華は表情を険しくした。


「――久遠!」


「……分かっている」


 真刃も立ち上がり、窓の外、夜の光景を見据える。


「……これは」


 双眸を細める。

 窓の外。雲の合間に輝く月。

 その月は、血のように赤く染まっていた。


『――主よ』


 ボボボ、と鬼火が現れる。

 骨翼を持つ猿。従霊の長である猿忌だ。


『異常事態が起きた』


「……ああ。分かっている」


 真刃は、鼻を鳴らした。


「まさか、ここまで堂々と現れるとはな」


「……これは、やはり上級我霊の結界領域か?」


 桜華が呟く。

 その手には、すでに刀身のない刀の柄が握られていた。

 突き刺すような気配。

 見た目的には、状況は何も変わっていない。

 だが、ここが、すでに異界同然なのだということは肌で感じていた。


「猿忌よ」真刃は従霊の長に尋ねる。「他の従霊たちから報告は?」


『この領域の規模を確認中だ……いや、いま結果が出たようだ』


 街全体に展開している従霊たちと同調した情報が、猿忌と白冴の脳裏に浮かぶ。


『街外れに近い何体かが、街の外に出ようとしたが無理だったようだ。この街全体が、領域内に取り込まれているということなのだろう』


『恐ろしいほどの広さでございます』


 桜華の胸元から、白冴も語る。


『これは、もはやただの領域ではございませぬ。恐らくは、名付きのみが行えるという異界創造ではないでしょうか』


「……総隊長殿が語っていたあれか」


 真刃は、渋面を浮かべた。

 それが、真実なのかは分からない。

 しかし、陰太刀の総隊長である天堂院九紗は語っていた。


 ――『異界創造』。

 名前を持つ我霊は、まさしく別世界を生み出すことが出来るそうだ。

 後世において『封宮メイズ』と呼ばれる異能である。


 今、真刃たちが立つこの旅館も、数分前とはすでに別物だ。鏡合わせのようにそっくりな世界を誰かが創造したということだった。


『旅館を調べた従霊もいるが、人の姿もない。ここが異界なのは間違いないな』


「取り込まれたのは自分たちだけなのか?」


 桜華がそう尋ねる。と、


『いえ。お待ちください。人影を見かけた従霊がおります。数は少ないようですが、どうやら他にも人が――』


 と、白冴が答えようとした時だった。




「ああ~、聞こえるかね! 勇敢なる戦士たちよ!」




 不意に、その声が響いた。

 それは、まるで空から降りてきたかのような声だった。


「……久遠」


「ああ」


 表情を険しくする桜華に、真刃は頷く。

 この声の主こそが異界の創造主。それは直感で分かった。


「言語を解するか。やはり特級。しかも、名付きであることも確定という訳か」


 そんな真刃の呟きに答えることもなく、声は言葉を続ける。


「三夜に渡る君たちの活躍には、吾輩も心躍った。よって、今宵は特別な夜ぼーなす・ないとだ。これまでの夜よりもらんくを落とそう。ただ、それではいささか興奮すりるに欠ける。それを補うため、多少数は増やさせてもらったよ。なに。勇敢なる君たちにとっては弱敵だ」


 声は、実に楽し気に口上を続けた。


「吾輩も、君たちの活躍につい甘くなってしまったかもしれんな。今宵は誰一人死なずに済むかも知れない。が、それでも構わないぞ!」


 一拍おいて、


「さあ! 興行しょうたいむだ。今宵も楽しもうではないか!」


 明朗な宣言を最後に、その声は消えた。

 途端、


「「「おあああああぁあああああああぁアアアアアアああああああ……」」」


 どこからともなく、おぞましい声が響いた。

 真刃は、双眸を鋭く細めた。

 隣に立つ桜華も、緊張した面持ちで、外を見据えていた。


 こうして、第四夜。

 忌まわしき夜が始まった。

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