第131話 夜が来る➂

 場所は変わって、大浴場。

 御影刀一郎は、「うわあ」と感嘆の声を零していた。

 温泉街である咲川温泉には、言うまでもなく多くの温泉がある。

 街の全容に目をやれば、多くの湯気が目に入るほどだ。


 そうして、刀一郎たちが宿泊した旅館。

 ここにも温泉があった。


 周囲を竹林で覆った岩の浴場。

 茜色の空が見える露天風呂である。


「これは凄いな」


 刀一郎は、瞳を輝かせる。

 ここは大浴場。当然ながら、彼女は裸体だった。

 すらりとした四肢に、引き締まった腰。

 その白い肌は、戦う者でありながら傷一つなく、処女雪のごとき美しさを惜しげもなく晒している。普段はさらしで抑圧されている豊かな胸も、今は解放されていた。

 簡素な手拭いだけで胸元を隠して、浴場を進む。

 刀一郎は、湯の縁で膝をつくと、近くにあった桶で湯を掬い、肩から掛けた。

 熱い湯が彼女の肢体を伝って、零れ落ちていく。


「~~~~っっ」


 刀一郎は、満足げに微笑んだ。

 それから、軽く体を洗ってから湯に浸かる。

 まだ夕食前のためか、他の客の姿はない。

 刀一郎は大きな胸を反らして、思いっきり両手を空に伸ばした。

 なお、これも当然だが、彼女が入浴しているのは女風呂である。


「ふふ。まるで貸し切りだな」


 普段はあまり入浴が長くない刀一郎なのだが、今日はご満悦だった。

 肌も火照り、湯に浸かる姿には艶やかがあった。

 このまま、しばし、ゆっくりとしたいところではあったが、


「おっと、いかんな」


 あまり遅くなると、真刃に怪しまれるかもしれない。

 少し名残惜しいが、ここで出ることにした。

 ザパァっと湯から上がり、手拭いで胸元を押さえて脱衣所に向かった。

 引き戸を開ける。

 刀一郎は、そのまま着替えようとしたところで止まった。


「……え?」


 目を瞬かせる。

 多くのかごが置かれた脱衣所の中央。

 そこに、どうしてか、首飾りが浮いているのだ。

 小さな六角柱の水晶を、紐で取り付けただけの首飾りだ。

 それが、ふわふわと宙に浮いている。

 完全なる怪奇現象なのだが、刀一郎は別のことで青ざめた。


『……御影、さま?』


 水晶が、言葉を発したのである。

 それは、この水晶が、久遠真刃の従霊であることを示していた。

 刀一郎は、ビクッと震えた。


「お、お前っ! なんでここに!」


『……御影さまの魂力オドを感知してここに参りました』


「――魂力の感知!?」


 かなり希少な異能を平然と告げる従霊に、刀一郎は目を見開いた。


『私の異能の一つでございます。一度会った人物に限られた異能ですが。それはともかく』


 一拍おいて、水晶は困惑の声を零した。


『御影さま。そのお姿は一体……』


「こ、これは……ッ」


 刀一郎は再び肩を震わせる。

 と、その時、緊張しすぎたせいか、手に持っていた手拭いを落としてしまった。

 そうして、湯の雫で普段以上の輝きを放つ美しき肢体が完全に露になる。


「――ふあっ!?」


 たゆんっと豊かな双丘を大きく揺らして腰を落とし、慌てて床の手拭いを拾い上げようとするが、もう遅かった。


『……御影さま』


 宙に浮く水晶――白冴は、再び尋ねた。


『そのお姿。ご説明していただけますでしょうか?』


 ……………………………………。

 ……………………………。

 ………十分後。


 刀一郎と白冴は、旅館の庭園に移動していた。

 小さな池だけがある素朴な庭園だ。

 刀一郎は浴衣に着替え、白冴の宿る水晶は、彼女の首に掛けられていた。

 水晶本体は、あまりに焦ってさらしも巻けなかったため、解放された刀一郎の豊かな胸の上に乗っかっていた。


『……では、御影さま』


 白冴が話を切り出す。


『ご説明のほど、よろしくお願いいたします』


「う、うん……」


 刀一郎は歯切れ悪くも頷いた。

 そうして語る。

 自分が本当は女であることを。

 跡継ぎの問題で男として育てられたこと。

 弟が生まれて、すでに男である必要がなくなってしまったことも語った。

 白冴は、それを黙って聞いていた。

 そして……。


『一つ。いえ。二つほどお聞きしても宜しいでございましょうか?』


「な、何をだ?」


 刀一郎は、緊張した面持ちで自分の胸元に尋ねる。と、


『まずは一つ目。御影さまのお心は「女性」であらせられるのでしょうか?』


「それは……」


 刀一郎は一瞬口淀むが、


「……女だ。自分の心は女だと思う」


『左様でございますか。では、二つ目』


 白冴は、一拍おいてその問いかけをした。


『もしや御影さまは、我が君――真刃さまを愛しておられるのでしょうか?』


「――ふあっ!?」


 刀一郎は目を剥いた。

 そして、ボンッと顔を一気に赤くする。


『……なるほど』


 その様子だけで白冴は、すべてを察した。


『むしろ、真刃さまが、御影さまに女性であることを自覚させた訳でございますか』


「………………」


 刀一郎は、唇を真っ直ぐ結んで俯くだけだった。


『御影さま』


 白冴は、さらに問う。


『真刃さまに、その想いをお伝えになられないのでございますか?』


「そ、それは……」


 刀一郎は、視線を逸らして唇を片手で抑えた。


『御影さまが望まれるのでしたら、我ら従霊一同にとっても喜ばしきこと。我が君の信頼厚き御影さまならば、紫子さま、杠葉さまにも劣らないほどに深いご寵愛をお受けになられることでしょう。我が君の奥方さまとして、相応しき御方でございます』


「い、いや、その、それは……」


 カアアアっ、と顔を赤くする刀一郎。


「じ、自分はっ!」


 思わず、彼女は叫んだ。


「まだ『男』なのだ! 心は『女』でもまだ『男』なのだ! だから、自分は、その、まずはあいつに《たまむすびの》を挑むつもりなのだ!」


『……………は?』


 白冴は、困惑の声を上げた。

 胸元から、水晶がふわりと浮かび、小首でも傾げるように揺れた。

 一方、刀一郎は、グルグルと目を回しながら叫び続ける。


「あいつに証明してもらうのだ! あいつが自分よりも格上の男であると! そして自分はあいつに負けて、あいつの腕の中に囚われて――」


 そうして、完全に狼狽した刀一郎は、つい自分の本音を吐露してしまう。


「あいつに『これで、お前はもうオレの女だ』と言ってもらいたい……」


『………………………』


 白冴は、沈黙した。

 それから十数秒間、静寂が続いた。

 刀一郎は、自分が口走った台詞がようやく脳に浸透して、


「――はっ!?」


 と、目を見開いて正気に返った時、

 ――スコーンッ!

 ゆらりと揺れた水晶に、額を打ち付けられた。


「――痛いっ!?」


 思いの外、痛い一撃だった。

 少し仰け反った刀一郎は、両手で額を押さえた。

 一方、ゆらりゆらり、と。

 彼女の目の前では、白鳥が首でも動かすように水晶が浮遊していた。


『……何なのでございますか。その屈服願望は』


 白冴は、淡々と告げてくる。

 手が少し額から離れた一瞬の隙を突いて、さらに、スコーンッと一撃を喰らわす。

 刀一郎が「痛いっ!?」と仰け反った。


『……まったく』


 水晶は、ゆらゆらと揺れて告げる。


『拗らせ過ぎでございます。そもそも、それを望まれるのでしたら、どうして真刃さまに未だ挑まれないのでございますか?』


「……じ、自分とて、引導師なのだ」


 額を両手で抑えたまま、刀一郎はムッとした表情を見せた。


「戦う以上、全力を尽くす。そして勝ちたい。だから今も修練も積んでいる。あいつに勝てるだけの力量と、秘剣を編み出すために」


『屈服願望はあっても、勝利もまた、お望みになられていると?』


「……その通りだ」


 刀一郎は、数瞬ほど沈黙してから頷いた。

 白冴は、どこか不安を抱いているような彼女を見据えた。


『……御影さま』


 ややあって、一つの質問をする。


『御影さまの女性としてのお名前。それをお伺いしても宜しいでございましょうか?』


「自分の名……?」


 刀一郎は少し訝し気な顔をしたが、すぐに「桜華だ」と答えた。


『……桜華? それは、真刃さまがお付けになられたお名前では?』


「偶然にも、自分の本名なのだ」


 刀一郎は、微かに頬を染めつつ、そう答える。

 白冴は「まあ」と感嘆の声を上げるが、すぐに趣を改めて。


『では、桜華さま』


 あえて、その名前で彼女を呼ぶ。


『桜華さまには、女性としての願いも、引導師としての矜持もあることは分かりました。屈服願望は拗らせ過ぎとは思いますが、結局それも、真刃さまに受け止めて欲しいという願いと、負けたくないという矜持が、複雑に絡み合ったことから来たものでしょう』


「……そうなのか?」


 刀一郎は、困惑した声を零す。


『恐らくは。ですが、あえて申し上げますと、その二つの想いは、本来は別々のモノ。桜華さまが我が君に想いを告げられないこととは、全く無関係な事柄なのです』


「………え」


 刀一郎は、目を瞬かせた。


『はっきり申し上げますと』


 白冴は言葉を続ける。


『桜華さまの想いを告げられるのは、何も《魂結びの儀》の後でなくても構わないのです。それこそ、今夜にでもお告げになられても構わないのです』


「こ、今夜っ!?」


 刀一郎は、目を瞠った。


「な、何を言っているのだ! 自分はまずは《魂結びの儀》を――」


『先程も申し上げました。それは桜華さまが想いを告げることと関係はいたしませぬ』


「………う、あ」


 刀一郎は言葉もない。数歩ほど後ずさった。

 宙に浮く水晶は告げる。


『……お怖いのですか?』


「―――ッ!」


 その指摘に、刀一郎は息を呑む。

 ――が、何も答えられない。

 それを肯定と、白冴は受け取った。


『従霊とは元は人間でございます。生前の記憶こそございませんが、私も女の端くれでございます。桜華さまの不安はよく分かります。ですが』


 一拍おいて、水晶は告げた。


『桜華さまは引導師。恐れながら、明日をも知れぬ身でございます』


「―――ッ」


 刀一郎は目を瞠った。


『自身よりも強者に立ち向かうことも、愛しい殿方の腕の中に飛び込むことも、同等の勇気と決意がいるものでございます。ですが、引導師の世界は常に過酷にて非情。明日、桜華さまがご存命である保証など、どこにございませぬ』


「………………」


『先送りは、ここまでにされてはいかがでしょうか。桜華さま。貴女さまの心からの望み。それはもうお気づきになられているはず』


「………………」


『桜華さまの本当のお姿は、今は私の胸の内のみに留めておきましょう。桜華さまご自身が語られるその時まで、他の従霊にも秘匿にいたします。ですが、時とは悠久ではございませぬ。桜華さま。どうか今宵にも、ご決断を』


「………………」


 刀一郎は、やはり無言だった。

 白冴との会話は、ここまでだった。

 白冴の進言を受け入れたのか。その返答はしなかった。


 ――ただ、この後。

 刀一郎は、再び大浴場に向かった。


 そうしてもう一度入浴をし、今度は丹念に、丹念に体を洗った。

 髪も丁寧に梳かした。

 ただ、さらしに関しては、まだ勇気が持てず今は巻いた。


 これを次に解く時は、きっと……。


(……今夜、自分は――)


 大きく息を吐く。

 パンっ、と頬も強く叩く。

 鼓動を高鳴らせて、廊下を歩く刀一郎。

 ――いや、彼女は、すでに刀一郎ではない。

 そこには、覚悟を決めた一人の乙女――桜華がいた。

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