第四章 夜が来る
第129話 夜が来る①
山に覆われた咲川温泉。
そこから二里(およそ8キロメートル)ほど離れた森の中。
そこには、大きな御堂があった。
明治中期に建てられた、比較的に新しい御堂である。
名も無き山の神を祀ったという御堂であり、その上、山道から外れた山の中腹に建てられたため、参拝者はほとんどなく、地元の人間でも近づかない場所であった。
管理者もすでに亡くなっており、そのため、御堂は劣化の激しい状態にある。
夕刻を迎えた今は、不気味な趣まで発していた。
――いや、趣どころではないか。
もしこの場に参拝者がいれば、背筋を凍らせることだろう。
人知れずに建つ御堂。
今、そこからは、女のすすり泣く声が聞こえてくるのだから。
「……先生。先生ェ……」
少女の声がする。
御堂の中。そこには、座り込む十代後半ほどの少女の姿があった。
うなじで結いだ長い髪に、赤い
名を、立花すずりと言った。
「しっかりおし。すずりちゃん」
そんな少女を、大柄な女性が強く抱きしめる。
年の頃は二十代前半ほどか。髪は浅黄色。強く巻かれた癖毛が印象的だ。異国の血を引いているらしく、褐色の肌を持つ女性である。
着物こそ着ているが、男勝りの気風の良さを感じさせる女性だった。
彼女は、少女に言う。
「諦めるんじゃないよ。あんたの先生はまだ頑張っているんだから」
「……お多江さん」
少女は、泣き顔を上げた。
「けど、先生は病弱な方なんです。こんな無茶なことを、あと四夜も……」
「それでも三夜、生き延びたんだよ」
多江と呼ばれた女性は、少女の肩を強く掴んだ。
「信じな。あんたの愛した男をさ」
この場にいる女性は、二人だけではなかった。
御堂の中で、あちこちに分かれて固まっている。
総勢で三十九人。かつては六十七人いた。
多江ほど気丈な人物は稀だ。ほぼ全員が怯えた顔をしている。
その中には、黒田信二の愛する女性――菊の姿もあった。
(……信二さま)
菊の胸は、今にも張り裂けそうだった。
自分のせいで今、信二は死地に立っている。
あの見たこともない化け物たち。
虎よりも大きく、怖気が奔るほどに醜い怪物たち。
あれらの相手を、七夜に渡って強いられているのだ。
『――七夜、生き延びた時』
第一夜の時。あの不気味な男はこう約束した。
『君たちと、君たちの愛する伴侶たちを解放することを約束しよう』
その時、ふざけるなと叫んで、男に立ち向かった者たちもいた。
その憤りは当然だ。
しかし、彼らは瞬時に殺害された。
男の傍に立つ、黄金の髪の女に。
何をしたのかは分からない。
全く動かない女の前で、瞬時に五体が切り裂かれたのである。
その光景は、女たちの前でも行われた。
女たちは、絶叫を上げた。
特に、殺害された男たちの伴侶たちは半狂乱だった。
愛する男の亡骸の前に駆け寄って膝をつき、泣き叫んでいた。
そんな彼女たちは、その場で気絶させられ、男に連れていかれた。
果たして、どこに連れていかれたのかは分からない。
ただ、一つだけ悟ったことがある。
あの男に挑んでも、即座に殺されるだけだ。
それならば、化け物相手に挑む方がまだ勝算がある。
男たちは、武具を手に取った。
そうして一夜で十一人。二夜で九人。三夜で八人。
男たちは、死んだ。
殺された男たちの伴侶である女は、夜が明けるごとに別の場所へと連れていかれた。
彼女たちが、どうなったのかも分からない。
不要になったとして、解放されたのかもしれない。
ただ、伴侶を殺された彼女たちの心は、すでに死んでいるであろうが。
今、この場にいる女たちは、まだ男たちが『死の七夜』に抗っている証でもあった。
(……信二さま)
菊は、グッと唇を噛んだ。
信二は愛する男性である前に、自分の主人だ。
だというのに、自分は何もできず、ここでただ無事を祈るだけとは……。
本来ならば、即座に自決すべきだった。
自分のために、信二さまの御身を死地に追いやるなどもっての外だ。
しかし、それも出来ない。
自分の命は、すでに自分だけのモノではないからだ。
この身には、尊き命が宿っているのである。
(どうか、どうか、信二さま)
自分の腹部を両腕で抑えて、ひたすら祈る。
(ご無事で。何卒ご無事で)
菊の頬に、涙が伝う。
山の神を祀るこの御堂で、果たして彼女の祈りは届くのか。
それは、誰にも分からないことだった。
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