幕間一 しょうたいむ

第124話 しょうたいむ

 その夜。

 男はとても上機嫌だった。

 くるり、くるりとかぎ爪のような取っ手のステッキを回す。

 年齢は、四十代半ばほどか。

 明るい茶色の紳士服スーツ。その下の同色の胴着ベスト。頭部には鍔の広い円塔帽子シルクハット。左目には片眼鏡モノクル。鼻に蓄えた髭は、ピンと天を突き差している。

 これらは、この国で仕立てたモノではない。すべて異国から入手したモノだった。


 洒落ているといえば、洒落てはいる。

 しかし、そもそも専用に仕立てたモノではないため、背が低いその男が着るとかなり服が余ってしまい、まるで道化のような印象を抱いてしまう。

 子供が、大人の紳士服を着こんで遊んでいるような趣か。


 ともあれ、小男――道化紳士は鼻歌も口ずさみつつ、夜の森の中を進んでいた。

 そうして木々が開けた広い場所に出た。

 と、同時に、雲によって隠されていた月が少し顔を見せる。

 道化紳士は、天を見上げた。


「ふむ。今宵も美しい月であるな」


 感嘆の声を上げる。と、


「……あなた」


 不意に、後ろから声を掛けられた。

 鈴が鳴るような女性の声だ。

 道化紳士が振り返ると、そこには二十代前半の女性がいた。

 しかし、普通の女性ではない。

 その眼差しは蒼。腰まである髪は黄金だった。

 背もかなりの長身。大正の世でも珍しい異国人である。

 けれど、美しさとは、どの国でも共通だった。

 その顔立ちはまさに秀逸。さらには白すぎる肌、魅入るような肢体を持ち、背中と腹部が大きく開けた異国の白い衣装ドレスを纏っている。


「おお! 我が愛しきエリーゼよ!」


 男は、くるくるとステッキを回しながら、女性の元へと駆け寄った。

 女性の直前で大きく跳ねる。女性は、両腕を広げて道化紳士を受け止めた。

 そして道化紳士を抱きしめたまま、その場で女性は一回転する。


「フハハっ! 今宵も君は美しいな!」


「ふふ。ありがとうございます。あなた」


 流暢に話す彼女の言葉は、この国のモノだった。

 道化紳士は、女性の豊満な胸元に顔を埋めた。

 エリーゼと呼ばれた女性は、愛おしそうに道化紳士を抱きしめる。


「さて! エリーゼ!」


 充分に女性の胸の感触を堪能した後、道化紳士はぴょんと地面に降り立った。


「吾輩の演者ていなーたちは壮健かね!」


「ええ。もちろんですわ」


 エリーゼがそう告げた時だった。

 雲が完全に去り、月光が、さらに森を照らした。

 はっきりと映し出される広場。

 そこには、道化紳士とエリーゼ以外に、数十人の影があった。


 二十代から三十代。中には十代後半もいる。

 服は和服から洋服。さらには眼鏡をかけている者などと様々だ。

 唯一の共通点は、全員が男ということぐらいか。


 そして全員が、どこかしらに包帯を巻いた満身創痍の状態だった。男たちは、怯えを孕みつつも、憎悪と怒りに満ちた眼差しを、道化紳士とエリーゼに向けていた。

 今は言葉を発さず、静かに拳を握りしめている。

 少しでも体力を温存させる。まるで息を潜める獣のようだった。


「……ふむふむ」


 道化紳士は、男たちをまじまじと見据えた。


素晴らしいえくせれんと! 流石に少しばかり怯えを持つ者もいるようだが、まだまだ目は死んでいないな! よろしいぐれいと! これならば……ん?」


 そこで、道化紳士は眉をひそめた。

 キョロキョロと周囲を見渡してから、


「エリーゼ。あの少年はどうしたのかね?」


「……少年、ですか?」


 エリーゼは小首を傾げた。

 すると、道化紳士はステッキを大きく回した。


「あの少年だよ」


 道化紳士は言う。


「一際威勢の良かった少年。一夜もニ夜も存分に活躍して、吾輩を大いに魅了してくれた。吾輩一押しの少年だよ」


「う……」


 エリーゼは一歩後ずさった。

 そんな彼女に、道化紳士は視線を向ける。


「エリー」愛称で名を呼ぶ。「怒らないから、正直に言いたまえ」


「うゥ……」


 エリーゼは、勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい! あなた! あの子はあまりに活き・・が良かったから!」


「……やはりそういうことかね」


 道化紳士は、額に手を当てて嘆息した。


「君のいつもの悪癖。魅力的な少年を見て、思わずつまみ食いしてしまったと?」


「ご、ごめんなさい。あなた……」


 しゅんと肩を落とすエリーゼ。

 ふうっと息を吐きつつも、道化紳士はエリーゼに尋ねる。


「それで、あの少年の最期はどうだったのかね?」


「……ええ」


 そう尋ねられて、エリーゼは妖艶に笑った。


「何度も何度も私の名前を呼んでいたわ。私の胸の中で子犬のように。消えていく最期の瞬間まで。あの子がご執心だった少女の名前なんてもう頭にもなかったみたい」


「……そうか」


 道化紳士はそう呟く。

 そうしてその直後、ぶわっと大量の涙を流した。

 唐突な事態に、エリーゼがギョッとする。


「あ、あなた!?」


「……すべては、吾輩の不徳とするところだな」


 滂沱の涙を流す道化紳士。


「君の悪癖は、すべて吾輩に魅力がないせいだ。妻に不貞をさせてしまうなど、夫としてあまりにも情けないことだ」


「――違う!」


 エリーゼは勢いよく膝をつき、道化紳士の腰にしがみついた。


「違うの! 私の悪癖は私が未熟なせいなの! あなたのせいじゃない!」


「……エリー」


 道化紳士は、エリーゼを一瞥した。

 彼の妻は、ボロボロと涙を零していた。


「捨てないでェ。捨てないでェ。あなたぁ、お館さまぁ。エリー、良い子になるからぁ。もう悪いことなんてしないからあ……」


「……エリー」


 道化紳士はステッキを地面に突き立て、エリーゼの両頬をそっと抑えた。


「吾輩の可愛いエリー。吾輩がお前を捨てるはずもないだろう」


「……お館さまぁ……」


 ボロボロ、とさらに涙を流すエリーゼ。道化紳士は苦笑を浮かべた。


「しかしながら、愛しいお前が他の男に抱かれたことは、不愉快極まる事実ではあるな」


 道化紳士は、エリーゼの両脇に手を添えた。

 そして自分よりも頭二つ分は背の高いエリーゼを、自分の頭上にまで掲げた。

 小柄の体のどこに、こんな膂力があるのか疑問を覚えるほどだ。

 その上、道化紳士は、彼女を軽く放り投げて横に抱き直す。


「今宵は、あの少年の色が混じってしまったお前を、改めて吾輩の色に染め直そう」


「……お館さまぁ……」


 エリーゼは、未だ涙を流していた。

 許されたことに感極まって、夫の首に手を回して唇を重ねようとする。が、


「ただし」


 その唇を、夫の指先で遮られる。


「今宵は着飾ることを禁ずる。不貞のぺなるてぃも兼ねておるからな。ありのままの君で吾輩を受け止めてもらうぞ」


「……お、お館さま……?」


 エリーゼは目を見開いた。

 少しだけ緊張した面持ちを見せるが、すぐに道化紳士の首に抱き着いた。


「ええ。分かりました。ありのままのエリーの姿でお受けします」


 恍惚の表情で、彼女は言う。


「獣のように何も知らなかったエリーに、とても沢山のことをお教えくださったお館さま。お館さまに純潔を捧げたあの日のように。愛をお教えくださったあの夜のように。エリーをまた最初から愛してくださいませ」


「ふふ。そうしよう」


 そう言って、道化紳士はエリーゼの唇を奪った。

 妻の柔らかな唇を堪能する。

 さらにはエリーゼを抱いたまま、くるりくるりと回転した。

 そうして、


「しかし、それもこの後でだな」


 ピタリと止まった。

 道化紳士はエリーゼを地に降ろして、改めて静かに佇む男たちに目をやった。


「彼らを待たすのも悪い。今宵の主役は彼らなのだから」


 言って、ステッキを再び手に取って、指をパチンと鳴らした。


「では、始めよう」


「「「………………」」」


 男たちは無言のまま、前へと進み出る。

 怯えこそ隠せていないが、それでも後ずさる者はいない。


何とも勇ましいいっつ、ぶれいぶ


 道化紳士は、満足げに双眸を細めた。


「二夜に渡る絶望の夜を越えても、君たちの愛は揺るがないか」


「……本当に」


 男の一人が口を開いた。男たちの中でも一際大柄な人物だ。


「約束は果たしてくれんだろうな」


もちろんおふこーす


 道化紳士は、両手をステッキの上に置いて微笑んだ。


「残り五夜。吾輩を満足させてくれたら、君たちの願いを叶えてしんぜよう」


 そう答えた瞬間、地面から何かが噴き出した。

 それを見ても、男たちは驚かない。

 これを見るのは、すでに三度目だからだ。

 突如、数か所に渡って地面から噴き出したモノ。

 それらは、刀剣だった。

 大地から飛び出した刀に槍。あまり見ない異国の大剣もあった。

 どれもこれも、妖しい輝きを放っている。


 数打ちの刃などではない。

 恐らく戦国の世であっても一級品と呼ばれるほどの業物だ。


「さあ。手に取りたまえ」


 道化紳士がそう言うが、言われるまでもなく男たちは刀剣を手にした。

 先程口を開いた大柄な男性も、大きな斧をその手に取った。

 道化紳士は、うんうんと頷く。


「さて。では、今宵も存分に魅せてもらおうか」


 道化紳士は、くるりとステッキを回した。

 エリーゼも、彼の傍らで妖艶な笑みを見せていた。

 男たちは緊張した面持ちを見せつつも、各自刀剣を強く握りしめた。

 月が刃を輝かせる。

 そして、


「さあ、始めてくれ。吾輩のための興行しょうたいむを」


 道化紳士の呟きと共に、森の奥より獣が声を上げるのだった。

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