第123話 陰なる太刀➂
二日後の朝。
まだ人通りが少ない七時頃。
木造の駅舎の傍らで一人の人物が立っていた。
白い
手には大きな茶色の鞄。頭には、灰色の帽子も被っている。
私服姿の久遠真刃である。
「…………」
真刃は何かを喋ることもなく、静かに人を待っていた。
と、その時。
――ボボボ……。
突如、宙空に鬼火が現れた。
それは徐々に形を変化させて、数秒後には骨の翼を持つ猿の姿になった。
宙に浮かぶ猿。
異様な光景だが、それを気にする通行人はいない。
猿が零体ゆえに、只人には見えないからだ。
真刃は、ポツリと呟く。
「どうした? 猿忌よ」
『……いやなに。主よ』
駅舎周辺を見渡して、猿が人語で応える。
『いささか遅くはないか?』
「……ふむ。そうだな」
真刃が、骨翼の猿――猿忌を一瞥した。
次いで、懐中時計を
「七時半を過ぎているな。あいつにしては珍しい」
本日のこの時刻。
真刃たちは、列車で目的の街へと出立する予定だった。
しかし、約束の時刻になっても、相棒である男がまだ来ない。
約束事には重きを置くあの男らしからぬ行動だった。
いつもなら、約束の三十分前には、この場所で待っているというのに。
「何か問題でも発生したのか?」
真刃が、少し案ずるような声で呟いた。
その様子を見やり、猿忌は『……ふむ』とあごに手をやった。
『主が他者を心配するとはな』
「……
しかめっ面で真刃はそう語るが、猿忌は肩を竦めた。
口ではそう言うが、猿忌の主が同僚を心配するのは、かなり稀なことだ。
そもそも、真刃は、他者を無視することが多い。
真刃を恐れるあまり、相手側も真刃を避けることが多かった。
例外は従兄弟であり、上官でもある丈一郎と、やけに好意的な総隊長。
そして、いま到着を待つ御影刀一郎だけだった。
『……ゆえに、あのような噂が立ったのだろうな』
猿忌は、苦々しく口角を崩した。
「……? 何の話だ?」
一方、真刃は眉根を寄せる。猿忌は『何でもない』と答えた。
――御影刀一郎は、久遠真刃の情夫である。
その噂は、実のところ、真刃だけが知らなかった。
流石に、真刃本人に告げることは、周りが恐れたからだ。
些細な噂話を揶揄することも
それほどまでに久遠真刃とは、周囲と隔絶した存在なのである。
真刃の幼少時から、ずっと仕えてきた猿忌としては、悩みの種でもあった。
いかに最強であっても主の心は人間だ。化け物などではない。
だからこそ、もう少し社交性を持って欲しいと思っているのだが、こればかりは主の生い立ちにも由来する。すぐに改善できる話でもなかった。
『ともあれ、二週間の任務。紫子には心配をかけるな』
「……ああ、そうだな」
真刃は、双眸を細めた。
「今回は長期任務だ。紫子もそうだが、杠葉も、いつになく心配していたな」
『……………』
真刃の呟きに、猿忌は沈黙した。
それは前々日のことだった。
「お帰りなさい。真刃さん」
「ああ。いま帰った」
自分の屋敷にて恭しく出迎えてくれたのは、丈一郎の妹である少女だった。
歳は十七になる。優し気な顔立ちに、肩に届かない程度に伸ばした黒髪が印象的な少女。
紫色の着物がよく似合う美しい娘である。
――
真刃にとっては唯一の隷者でもある。彼女とは、すでに一緒に暮らしていた。
「話がある。紫子」
和装に着替え直した真刃は、早速、明後日からの任務について話した。
任務の内容こそ秘匿のために教えることは出来なかったが、長期任務でしばらく家を空けると告げた時、紫子は少し寂しそうな顔をした。
ただ、それでも「どうか気をつけて」と言ってくれたのだが、御影刀一郎も同行すると教えた途端、紫子は顔色を変えた。そして少し上擦った声で、
「あ、あの、大丈夫ですよね?」
紫子は、真刃の袖を掴んだ。
「その、真刃さんには、その
「……いや。何の話だ?」
真刃は、首を傾げるだけだった。
次の日。
今度は、真刃の屋敷に、恋人である少女が訪れた。
――
年齢は紫子より半年ほど上。腰まで伸ばした長い黒髪が美しい緋袴姿の少女だ。
彼女にも長期任務の話をした。御影刀一郎も同行することもだ。
すると、杠葉も怪訝な表情を浮かべた。
「……えっと、真刃って、その
「……? だから何の話だ?」
やはり、真刃は眉をしかめるだけだった。
杠葉は「ちょっと紫子」と言って、紫子を手招きした。
「えっと、紫子。これって大丈夫よね?」
「……多分、大丈夫だとは思いますけど……」
ひそひそと少女たちが話し合う。
「けど、私は一度ぐらいしか会ったことがないけど、真刃の同僚の御影さんって、あの女の人みたいに綺麗な人のことよね?」
「は、はい。初めて会った時は気付きませんでしたけど、よく見ると、髪とか肌とか凄くきめ細かくて、眉なんかも凄く細い人です」
「あの人嫌いで偏屈な真刃が、あの人とだけは仲が良いのよね?」
「はい。普段の会話にもよく出てきます。真刃さんは、その、ひねくれてるから素直には褒めませんけど、凄く信頼しているのは分かります」
しばしの沈黙。
「……大丈夫、よね?」
「だ、大丈夫ですよね?」
互いの顔を見合わせて、二人の少女は、表情を強張らせていた。
二人とも、群を抜いた美貌を持つ少女である。
そして隷者と恋人という違いはあるが、二人とも真刃を愛し、愛されていた。
死と常に隣り合わせなのが引導師の世界だ。
多くの子を残すためにも、正妻や隷者など、数人の伴侶を持つことは一般的な話だった。名家の当主ならば、三人から四人の伴侶は、当然とも言える。
それだけに、紫子にしても、杠葉にしても、三人目を忌避している訳ではなかった。
ただ、流石に、三人目が『男』というのは……。
「……真刃。お願いだから血迷わないでね」
「……些細な仕草とかに魅入ってはダメですからね」
随分と悩んだ後、二人はそう告げてきた。
真刃としては、最後まで首を傾げるだけだった。
その場面に、ずっと立ち会っていた猿忌は、ただただ溜息をついた。
紫子たちの心配も分からないこともない。
なにせ、例の噂が立つほどに、御影刀一郎の美貌は目を瞠るものなのだ。
下手をすれば、紫子や杠葉にも届くほどである。
それに、真刃が刀一郎に気を掛けているのも、まごうことなき事実なのである。
(まあ、あやつは、主の人を遠ざける悪癖を直すにはよい相手ではあるがな)
と、猿忌が考えていたその時。
「……本当に遅いな」
真刃が、再び懐中時計に目をやった。
すると、
「……待たせたな」
不意に、そんな声を掛けられた。
御影刀一郎の声だ。真刃は視線を前に向けた。
しかし、どうしてか周囲に御影の姿はない。
「……声が聞こえたような気がしたが」
気のせいだろうか?
真刃は、再び懐中時計に目をやろうとすると、
「おい。久遠。何故、無視をする」
脛を蹴られた。
軽い蹴りだ。真刃にとっては痛みもないが、流石に相手は気になった。
再び前を見やる。と、そこには一人の女性がいた。
二十代前半のようだが、背の低い少女のような女性だ。髪は肩まであり、まるで絹糸のように美しい。色は魅入るような烏の濡羽色。唇はふっくらとした質感を持つ桜色だ。
身に纏う衣類も桜色。花弁の刺繍がされた着物である。
右手には、
本当に、綺麗な女性だった。
駅舎に入る利用者が、思わずその場で足を止めてしまうほどに。
ただ、真刃は、別の意味で硬直していた。
猿忌も同様だ。
主従揃って、しばしこの状況に沈黙する。
そして、
「――ぶふっ!」
あの真刃が。
不愛想の化身のような真刃が、口元を片手で抑えて噴き出したのだ。
それから視線を逸らし、肩を震わせて笑いを堪えている。
猿忌も、片手で口を覆って笑いをかみ殺していた。
「笑うなぁあああッ!」
女性が絶叫する。
それは、間違いなく御影刀一郎の声だった。
――そう。そこには、桜色の着物を纏う御影刀一郎がいたのである。
女性の正体。それこそが刀一郎だったのである。
弟が大絶賛した着物姿。
百人いれば、百人とも魅入る艶姿。
それを、真刃にもお披露目したのである。
ただし、
「なんで自分がこんな目に遭うのだ!」
現在、彼女は、この上なく涙目ではあったが。
◆
――同時刻。
「……さて」
第三分隊長室の執務席で、大門丈一郎が懐中時計に目をやった。
時刻は、すでに八時を過ぎている。
「そろそろ二人は出立した頃かな?」
部下たちは今日、件の街へと出立予定だった。
丈一郎としては見送りたかったが、他にも任務があるため仕方がない。
「けど、我ながらよい発案だったな」
丈一郎は、満足げにあごを擦った。
――昨日、御影邸に送った品。
あれは偽装としては、まさに盲点を突くものと言えよう。
「よもや、あれを纏った御影君を男性と思う者はいないだろう」
まさに完璧な
「土壇場で思いついたのは天啓だな。とはいえ」
丈一郎は、表情を真剣なものに改めて天井を仰いだ。
「……未来視、か」
双眸を細める。
丈一郎の系譜術の名は《
無限の可能性。陽炎のごとく未来の断片を垣間見る術式だ。
しかし、その莫大な情報をいつまでも記憶していては、脳が壊れてしまう。
ゆえに、脳を自衛するため、未来の記憶は数十秒と持たずに消えてしまうのである。
それは、この術式の一部だった。
その消えてしまう記憶を、丈一郎は必死に書き残した。
そうして記憶を失う前に残したのが、
――特級案件。
――夜桜の乙女。
――無数の剣戟。
これら、三つの文章だった。
壮絶な何かを見たはずなのに、もう何も思い出せない。
「……何とも不便な力だ」
あまりにも、使い勝手が悪い術式だった。
未来視であるというのに、これでは未来に危機が迫っていても何の対策も打てない。
「やはり改善はしたいところだが、これが私の今の精一杯か」
天井を見上げたまま、指を強く組む丈一郎。
これ以上の補佐は、もう出来ない。
「困難な任務になるだろうな」
丈一郎は呟く。
自分に出来ることといえば、もう案ずることしかない。
「せめて無事を祈るよ。充分に気をつけてくれ。真刃。御影君」
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