第122話 陰なる太刀②
その日の夜。
かなり遅い時間帯に、刀一郎は帰宅した。
周辺が林に覆われた大きな屋敷。そこが刀一郎の実家だった。
ガラガラ、と引き戸を開ける。
玄関先には丁度使用人がいて「お帰りなさいませ」と頭を下げてきた。
元々、御影家の屋敷は、帝都の外にある。
従って、陰太刀の兵舎からもかなり遠く、普段から帰宅は遅い方なのだが、今回の任務について色々と打ち合わせをしていたため、さらに遅くなってしまった。
(だが、方針は決まったな)
黒い外套と帽子を使用人に預けて、刀一郎は廊下を進む。
今回の任務は主に二点が重要視されている。
まずは、黒田信二さまを捜索し、保護すること。
そして起こり得る特級案件を処理すること。
どちらも、秘密裏に対処して欲しいとのことだった。
黒田信二さまには、とある名家のご令嬢と婚約の話もあがっているらしく、大きな騒動にはしたくないというのが、依頼主である閣下の希望だからだ。可能ならば、信二さまご自身にも秘密にして動いて欲しいという話だった。
正直、面倒だと思ったが、こちらは強制ではないらしい。
そして、特級案件に関しては、秘密裏の対処は当然だった。
そもそも、我霊が関わってくる案件は、すべて闇に葬るのが陰太刀の存在意義である。
いずれにせよ、まずは、件の街に行かねば始まらない。
結果、久遠真刃と二人で、件の人物が消えた街に出向くことになった。
出立は明後日の朝。
明日は、その準備のために休暇を与えられた。
(……特級案件か)
刀一郎の表情に、微かに緊張が宿る。
軍務に就いてすでに四年余りだが、初めて関わる案件だった。
最上位に分類される特級。
しかし、それらにも、さらに格がある。
特に、明確な差としては、言語を解するかどうかだった。
言葉を操る特級は、すでに人間としての知能を取り戻しているとも言える。完全に別格扱いの存在である。そして、それらには、引導師たちが組織立って活動をし始めた頃――戦国時代の頃から、名前を付けられる慣例があった。
例えば、最上位の特級。
千年の時を経たという、伝承級とも称される千年我霊たち。
かの七体の邪悪には、悪神・怪異から取った名が付けられているそうだ。
無論、その他にも恐るべき『名付き』はいる。どれも討伐困難な怪物どもだった。
(そんな化け物と、戦うことになるかも知れないのか)
流石に緊張を隠せない。と、
――パァンッ!
不意に音が響いた。
刀一郎は隣に目をやる。そこは屋敷内の道場だった。
「…………」
刀一郎は少し迷いつつも、襖を開けた。
室内は板張りの道場。
そこには、道着姿の二人の人物がいた。
竹刀を携えた七十代の男性に、倒れ伏す十代前半の少年だ。
少年の傍には、竹刀が放り出されていた。
「……父上」
刀一郎は、七十代の男性――父・御影
すると、父は振り返り、
「……刀一郎か」
興味のない眼差しを向けてきた。
それから、竹刀を手にしたまま刀一郎の隣を通り過ぎ、
「
それだけを告げて道場から去っていった。
「…………」
刀一郎は、無言で廊下の奥へと遠ざかる父の背を見ていた。
が、すぐに道場の中へと入り、倒れ伏す少年の傍へ駆け寄った。
「……刀至」
声を掛けるが、十三歳の少年には、父の稽古は過酷すぎたのだろう。完全に気を失っているようで全く返事がない。
「…………」
刀一郎は、小さく嘆息した。
そうして十分後。
(…………う)
温かい力を額に感じ、気絶していた少年――刀至は、うっすらと目を開けた。
ぼんやりと視界。体中が痛い。
けれど、何故か後頭部だけは柔らかいモノに支えられていた。
(俺は……)
目をゆっくりと瞬かせる。と、
「……目を覚ましたか? 刀至」
優しい声が耳朶を打った。
刀至はハッとした。瞬時に意識が覚醒され、目を見開く。
自分の目の前には、逆さに覗き込む美しい女性の顔があった。
「あ、兄……?」
そう呟き、ギョッとする。
まさか、自分は今――。
「うわッ!?」
慌てて上半身を跳ね上げて、前へと転がる。
次いで、自分がいた場所を見やると、やはり軍服姿の女性がいた。
彼女は、正座をして、そこに座っている。
「あ、兄上……」
想像通り、自分は彼女に膝枕されていたようだ。
カアアっと顔が赤くなる。
「気絶後に、急に動いてはいけないぞ」
刀至の兄――実際は姉だと知っている――は、穏やかに微笑んだ。
やはり、何度見ても綺麗な人だと思う。
刀至は、姉の微笑みに胸の奥で早鐘を打ちながら、その場に正座した。
「すみません。醜態を見せてしまいました」
「気にするな」
刀一郎は、優しい声で言う。
「父上の修練は厳しいからな。自分も昔はよく打ちのめされていたものだ」
「………」
刀至は、無言で唇を強く噛んだ。
「……? どうした? 刀至?」
刀一郎がそう尋ねると、刀至は「申し訳ありません」と頭を下げた。
それから顔を上げ、
「……姉上」
あえて、そう呼ぶ。
刀一郎は、静かな眼差しで弟を見つめた。
「俺が御影の跡継ぎとして不甲斐ないばかりに、未だ姉上は女性に戻れずにいる」
「……刀至。それは……」
「姉上は、『男』として育てられました」
刀一郎は口を開こうとしたが、刀至の声に遮られる。
「環境は心にも影響します。姉上の心がすでに『男』であるというのならば、そのお姿でもいいと思います。けれど、俺は知っています」
刀至は、男装であってもなお美しい姉を真っ直ぐ見据えた。
「姉上の心は、間違いなく『女性』であるのだと。だというのに、姉上が未だ女性に戻れないのは、すべて俺の不甲斐なさのせいです」
刀至の才は、姉には及ばない。
剣才も劣れば、
優れている点といえば、魂力の量だけだ。
それも平均程度。姉に比べれば、まだ高い程度のモノに過ぎない。
自分は凡庸だ。
刀至は、その想いに打ちのめされていた。
膝の上で手を固く握りしめ、深く俯いてしまう。
「……刀至」
そんな弟に、刀一郎は髪を揺らしてかぶりを振った。
「それは違う」
刀一郎は、自分の胸元に片手を当てた。
「確かに、お前の言う通り、自分の心は『女』だ」
「……姉上」
刀至は、顔を上げた。
「自分がこれまで『男』であり続けたのは、これまでの人生に対する意地のようなモノだ。お前とは何も関係ない。そして……」
刀一郎は、微かに口元を綻ばせた。
「自分は、いずれ『女』に戻るつもりだ」
「……え?」
刀至は、目を見開いた。
刀一郎は、自分の胸元をゆっくりとなぞって呟く。
「ようやく
「そ、そうなのですか? 姉上?」
刀至は目を瞬かせる。刀一郎はふっと笑った。
「まあ、その時は、私はきっと隷者になっているのだろうがな」
隷者になるは、あいつの『女』となる証のつもりだった。
あいつに《魂結びの儀》を挑み、敗北する。
そしてあいつの『女』として、その腕の中に納まる。
それが、刀一郎の『女』としての望みだった。
(まあ、あいつが、自分を受け入れてくれるのかが不安ではあるが……)
と、刀一郎が、少し口元をへの字に結ぶ。
「……れ、隷者? 姉上が……?」
一方、刀至は愕然とした。
――が、すぐさま立ち上がり、
「そんなことはさせません! させませんよ!」
いきなり吠えた。
今度は、刀一郎の方が「え?」と目を瞬かせた。
「姉上を隷者などにはさせません! 断じてさせませんから! 仮に政略結婚の話があがろうとも、父上が命じようとも、この俺が認めません!」
「い、いや、刀至?」
唐突に気炎を吐く弟に、刀一郎は困惑した。
「姉上は、俺が守りますから!」
そう叫んで、刀至は、落としていた自分の竹刀を拾い上げた。
それから、壁に立てかけていた別の竹刀も手を取り、
「だから姉上!」
刀至は、竹刀を姉に突き出した。
「俺に稽古をつけてください! 強くなるために!」
「う、うん」
刀一郎は、竹刀を両手で受け取った。流石に少し困惑していたが、ブンブンと素振りを始める弟に触発されて、刀一郎はふっと笑った。
「……まあ、いいだろう」
竹刀を手に立ち上がる。
「だが、自分の稽古は、父上以上に厳しいぞ」
「望むところです!」
刀至は竹刀を正眼に構えた。
「では、稽古は仕合形式でお願いします! それと姉上!」
「ん? 何だ?」
八相の構えを取る刀一郎が小首を傾げた。
「俺が一本でも取ったら、何卒、姉上の着物姿を見せてください!」
「うん。とりあえず、本気で打ち込まれたいようだな。刀至」
額に青筋を浮かべながら、刀一郎は微笑んだ。
稽古は、実に白熱したものになった。
「――姉上は俺が守る!」
「うん。お前の気持ちは嬉しいが、少し目が怖いぞ。刀至」
「そして姉上! 是非とも! 是非とも俺に着物姿をお見せください!」
「うん。少し黙ろうか。それと今はまだ兄と呼べ」
激しく竹刀の打突音が響く。
いささか以上に弟の愛が重そうだが、何だかんだで仲の良い姉弟だった。
ただ、この時、二人はまだ知らなかった。
翌朝。
「刀一郎さま。荷物が届いております」
「なに? 自分にか?」
刀一郎は、使用人から薄い木箱を受け取った。
上官である大門丈一郎からの届け物だった。
木箱には手紙も添えてある。任務に使用せよという指令だった。
刀一郎は、木箱を開けた。
そして、
「――ふあっ!? これはっ!?」
愕然とする刀一郎。
弟の切なる願い。
それが思いがけない早さで叶うことになるなど、知る由もない二人だった。
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