第120話 炎刃の剣士➂
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コツコツ、と。
軍靴が鳴る。
そこは、帝都にある兵舎。
帝国陸軍にあってその任務を秘匿されている組織。
十三からなる特務部隊・『陰太刀』専用の建屋である。
その三階の廊下を、青年――御影刀一郎は進んでいた。
(まったくもう!)
――何が貸し一つだ!
刀一郎は、憤慨していた。
確かに、危ういところだった。
助けてもらったことには……まあ、感謝している。
しかし、あの男は、あの後、保護した少女と、犠牲者になった少女の対応。我霊に対する隠蔽処置の依頼など、その他諸々の処理をすべて押し付けてきたのだ。
刀一郎は、その処理だけで半日も費やしてしまった。
(まったく! まったくもう!)
その上、あの男は
なんでも最近、帝都に開店した
たった一度の失敗で、どこまで
刀一郎は、さらに早足になって廊下を進む。
とりあえず文句の一つでも言いたいところだった。
と、その時、
「……おい」「ああ。あいつか」
不意に、そんな声が耳に届いた。
刀一郎は、わずかに双眸を細めた。
進行先。廊下の奥には二人の男性がいた。
二十代の青年の二人組だ。この兵舎にいる以上、二人とも軍人である。
黒の軍服と外套を纏う国家
「あれが、人擬きのお気に入りの……」
「……ああ。奴の『情夫』だ」
蔑すんだ声が耳に届く。
刀一郎は、表情を消して黙々と歩き続ける。
「……ふん。確かに、まるで女のような顔だな」
「ああ。あの人並み外れた容姿を人擬きに気に入られたらしい。あの化け物の慰みものになる代わりに、戦果のお零れを頂いているという話だ」
男たちの呟きは止まらない。
いや、すでに呟きですらない。声量があまりにも大きすぎる。
男たちは、明らかに刀一郎を煽っていた。
「出なければ、奴の
「そうだな。なにせ、あの情夫の
そんな声も一切無視して。
刀一郎は、何事もないかのように、男たちの横を通り過ぎた。
挑発に乗って来ない刀一郎に、男たちは「ふん」と鼻を鳴らして去って行った。
刀一郎はしばらく進んでから、小さく息を吐いた。
無論、胸中には強い苛立ちがある。
(確かに、自分の
全隊員の中でも、最も低いのは厳然とした事実だ。
他の隊員は、最低でも70はあるというのに、自分はその半分以下だ。
その上、とある理由から、魂力を共有する
本当に、たった32しかないのだ。
けれど、刀一郎には、その欠点を補うだけの充分な技量がある。
それゆえの戦果なのである。
だが、戦果で劣る隊員にとっては、この現実は不可解に映るのだろう。
結果、生まれたのが先程の噂だった。
人擬きと揶揄されるほどの、別格の引導師である久遠真刃。
御影刀一郎は、あの人擬きのお気に入りの『情夫』であるという噂だった。
厳格さのある軍服や、紳士服を着ている時は気付きにくいが、実のところ、御影刀一郎の持つ美貌は、そこいらの女性の追従を許さない水準だった。
その肌は白く、顔立ちはやや鋭くはあるが美麗。唇は桜色だ。
肩まで伸ばした髪は烏の濡羽色であり、髪質は歩くだけで揺れる。まるで極上の絹糸だ。眉にかかる程度で切り揃えた前髪の下の眼差しは、神秘的でさえある。
体格もとても小柄であり、華奢な少女のように見えた。
まさに、美貌の少年剣士だった。
凛々しくあり、どこか儚さも感じさせるその美しさ。
それをあの人擬きに見初められて、手折られた。その後は化け物のお気に入りとなり、常に傍に置かれるようになったのだと。
そんな噂が、全部隊に浸透していた。
(なんて酷い噂だ)
刀一郎は、うんざりした様子で嘆息した。
誰が、誰に手折られたというのか。
自分をあの男と同じ部隊に配属させたのは総隊長殿だ。そこに久遠真刃の意向はない。
それに、刀一郎が知る限り、久遠真刃に衆道の気もなかった。
一人だけいるという
(…………)
不快感。それ以上に、強い羨望のような想いが胸を締め付けるが、刀一郎は軽く息を吐き出すことで心を整えた。
……まあ、そもそもだ。
間違いだらけなのは、自分の情報についてもだった。
美貌の少年剣士というのは一体何なのだ。
自分はこれでも二十代前半だ。少年という歳ではない。
何より自分は……『男』ではないのである。
(……自分は)
刀一郎は、再び歩き出した。
――そう。御影刀一郎は『男』ではない。
正真正銘の『女』なのである。
この軍服の下に秘匿している人並み以上に豊かな女性の象徴は、幾重にもさらしを巻くことで隠している。髪も本当はもっと短くして『男』を偽装したいのだが、亡き母譲りの髪質がそれを許してくれない。これ以上に短くすると返って不自然さが出てしまう。
一度、歩を止める。髪の毛先に触れ、胸元に手を当てた。
改めて、実感する。
やはり自分は『女』であるのだと。
この事実を知るのは、もはや父と弟だけだった。
(……自分は何なのだろうな)
かつて、後継者の不在が、御影家の大きな悩みだった。
現当主には、正妻の他に二人の隷者――側室がいる。
しかしながら、一向に子宝には恵まれなかった。そこで当時十六だった分家の若い娘を新たな妻として迎えることで、ようやく子を授かったのだが、その子は女児だった。
その時、現当主――刀一郎の父は、すでに五十前と高齢だった。
正妻も、二人の隷者も四十代半ば。唯一、子を授かった若い妻も病弱な身。
……もう二度と、子供は授からないかもしれない。
刀一郎の父は深く悩み、そうして、長女を男児に偽ることにしたのである。
まずは、直系に家督を継がせることを優先したという訳だ。
だが、それは結果的にいえば、全く無意味な偽装だった。
刀一郎が生まれて十年後、父と刀一郎の母の間に待望の男児が生まれたからだ。
その瞬間、刀一郎のこれまでの人生は完全に否定されてしまった。
父は、まるで腫れ物のように刀一郎を扱った。
母は、憐憫の眼差しを刀一郎に向けた。
当時の刀一郎は、言い知れぬ怒りを覚えたものだ。
もはや『男』であることなど、誰にも望まれていない。
しかし、それでも、刀一郎はこれまでの自分を否定したくなかった。
『刀一郎さん。あなたは、もう「桜華」に戻ってもいいのですよ』
母の最期の言葉が、今も耳に残る。
――
それが、自分の本当の名前だった。
今もなお『男』を貫いている刀一郎だが、自分でもすでに理解していた。
幼少時より『男』として育てられた自分だが、その心は『女』であるのだと。
ゆえに、今となっては『女』であることを拒絶している訳ではない。
けれど、ずっと磨き上げてきた『男』の自分も、やはりとても大切なのだ。
だからこそ、
(…………)
刀一郎は、足を止めた。
一つの部屋の前に立つ。そこは第三分隊の隊長室だった。
扉を叩く。と、「どうぞ」と返答がきた。
優し気な青年の声だ。刀一郎は、「失礼します」と告げて室内に入った。
そこには二人の人物がいた。
共に軍服を着た青年たち。
その内の一人は、自分に雑用を押し付けた男だった。
「……久遠」
「随分と遅かったな。御影」
何食わぬ顔でそう告げてくる。
刀一郎はムッとしたが、同時に、トクンと胸の奥が疼いた。
性格はひねくれているが、自分の知る最強の男。
この男と本気で戦いたい。
それが『男』としての自分の望みだった。
そして――。
(恐らく、自分は負けるだろう)
トクン、トクンと。
鼓動が続く。
(きっと、この男の前ですべてを晒すことになる。その時こそ……)
自分は、きっと『女』に戻れる。
奇しくも今朝、この男の腕の中に納まった時のように。
心より敗北したその時こそ、自分は彼の――。
「う、ううん……」
刀一郎は、喉を鳴らした。
「おや。どうかしたのかい? 御影君」
そう尋ねるのは、もう一人の人物。執務席に座った分隊長だった。
軍服を着ていてなお、おっとりとした雰囲気が崩れない青年。
刀一郎の所属する第三分隊の分隊長。大門丈一郎だ。
「少し顔が赤いようだけど?」
「い、いえ。何でもありません」
刀一郎は、心情を誤魔化すように敬礼をした。
「お呼びでしょうか。分隊長殿」
「うん。今朝がたの任務に続いて恐縮なんだけどね。実は頼みごとがあるんだ」
「……あまり愉快な話ではなさそうだな」
聡い真刃が渋面を浮かべる。
すると、丈一郎は、少しだけ困った顔を見せた後、にこやかに笑った。
「確かにね。真刃と御影君。二人に任せたい任務があるんだ」
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