第4部 『追憶の彼方』
プロローグ
第117話 プロローグ
第4部、プロローグを先行投稿いたします!
本格再開はもう少し先ですが、よろしくお願いいたします!
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日が沈み、月と星が輝く頃。
その老人は、深い森の中を進んでいた。
大樹が天蓋を築く場所。森というよりも樹海である。
進む場所は当然、平地ではない。
深い繁みに、突き出た大樹の根。
前日、強い雨が降っていたせいで地面もぬかるんでいる。
そんな樹海を、和装の老人は黙々と進んでいく。
近くでは、虫の声。
遠くからは、獣の遠吠えも聞こえてきた。
(静かな場所だ)
双眸を細めて老人は思う。
老人は、相当に高齢だった。
見た目的には、七十代半ばだろうか。
真っ白になった髪が、老人が過ごした年月を表している。
高齢なのは、誰の目にも明らかだ。
しかし、老人の実年齢を聞けば、その誰もがギョッとするだろう。
老人の過ごした年月は七十年どころではない。百十年を超えるのだ。
そこまで生きること自体が、実に驚くべきことなのだが、老人は杖を持つこともなく、真っ直ぐ背筋を張り、その上、二本の足でしっかりと歩いているのである。
微かに息を乱しているが、軽やかに歩を進めている。
とても齢百十を超える老人には見えなかった。
だが、流石に、夜の樹海の行軍には堪えたのだろう。
老人は大樹の幹に背を預けて、大きく息を吐きだした。
(やはりもう限界だな)
長く付き合ってきたこの体。
老人は、自分の死期を悟っていた。
だからこそ、この樹海に来たのである。
(長い人生だった)
老人は、再び歩き出した。
繁みをかき分けて進む。
(多くの出会い。別れがあった)
厳格な父と、穏やかだが、病弱な母の間に生まれ。
特殊な事情から、他の人間とは違う人生を歩んだ。
十年後。弟が生まれて、その人生は意味のないものにされた。
それでも、半ば意地のような想いで同じ人生を貫いた。
母が亡くなり、六年後、弟に子が生まれた。
甥はとても
けれど、老人は自分で子を設けようとは思わなかった。
(…………)
深いしわが刻まれた双眸を細める。
自分の意固地な生き方が、それを許さなかったのもある。
だが、それ以上に、自分には、もう伴侶がいないのだと知っていたからだ。
(……自分の未練になるものとは)
グッと拳を固める。
(……間違いなく、あの女との確執だろうな)
たった一人だけ。
老人が、共に在りたいと求めた人物。
その人物は、ある女に殺されてしまった。
若き日の老人は、復讐を誓った。
弟たちには害が及ばぬように、数年かけて計画を練り、その女に戦いを挑んだ。
しかし、その女は老人を軽くあしらい、憐れむような眼差しを向けるだけだった。
その戦いの際に、もはや父と弟しか知らない自分の隠していた素性を見られたことも、あの女の憐れみを誘う結果になったのだろう。
――この上ない屈辱だった。
あの憎き女に。
心の奥に秘めていた想いまで見透かされてしまったのである。
(……自分は)
ギリ、と歯を強く軋ませる。
技量においては、老人の方が遥かに勝っていた。
だが、純粋な魂力の差が、どうしようもないモノだった。
それを、ただ一度の戦いで思い知らされてしまった。
けれど、それでも諦めきれなかった。
修練を積み直し、十二年後、再びあの女に戦いを挑んだ。
そして――愕然とする。
あの女は、十二年前と全く同じ姿をしていたのである。
……十二年後の再戦も、敗北に終わった。
その敗戦は、さらなる残酷な事実を嫌でも知らしめた。
これから先、どれほど修練を積んでも、自分の肉体は老いていく。
だが、あの女は、全盛の力を永遠に維持できるのだ。
もはや力の差は広がるだけ。
自分の復讐は、決して叶わないのだと思い知らされた。
『……あなたは、あなたの人生を生きて』
あの女は、倒れ伏す老人にこう告げた。
『それを……きっと「彼」も望んでいるから』
(~~~~~ッッ!)
老人は、怒りで全身の血が沸騰しそうだった。
――貴様があいつを語るな!
そう叫ぶと、あの女は、何も言わずに視線だけを伏せた。
しばらくして、あの女はその場から去って行った。
残された老人は、何度も、何度も、拳を地面に叩きつけた。
悔しさで涙を流した。
けれど、復讐はもう叶わない。
自分の刃は、あの女には届かない。
それを思い知った老人は、失意のまま、十二年ぶりに実家に戻った。
そこでは、弟とその家族が温かく迎えてくれた。
父はすでに他界していたが、新しい家族が増えていた。
あの可愛かった甥に、子が生まれていたのだ。
その幼き子を見て、老人は十数年ぶりに笑った。
病に伏せていた親友に会えたのも良かった。彼女には『あんたは本当に不器用すぎるよ』と怒られてしまった。結局、最期まで、彼女には頭が上がらなかった。
家族と過ごす時間は、老人の心を穏やかにさせてくれた。
一族の者に剣の指南をする傍ら、気まぐれに筆を取り、絵画に没頭することもあった。
さらに年月が流れる。
過酷な戦争もあった。甥も戦場に駆り出されて散った。
弟の死を看取り、甥の子に、また子が生まれ、曽祖父と呼ばれる歳になった。
目まぐるしく変化する時代。
若き日の自分に面影が似ているその娘には、久しぶりに指導も行った。
ただ、その頃には、老人は自分の死期を感じていた。
(……自分は、このまま死ぬ訳にはいかない)
家族のおかげで、心穏やかな人生を送れた。
だが、老人には懸念があった。
自分の中には、決して消えない黒い情念がある。
今も渦巻いている、怨念にも似た想いだ。
これは、引導師を輪廻の輪に送る葬送の儀を以てしても消えることはない。
(このまま死を迎えれば、自分は我霊に堕ちる)
その確信があった。
ゆえに、この地へと訪れたのだ。
老人は樹海を進む。
しばらくして、崖に辿り着いた。岩肌が見える崖だ。
老人は目を細めると、身を投げ出した。
投身自殺ではない。岩肌から突き出た岩に足を掛けると、速度を落とし、その下にある岩に足を乗せる。それを繰り返して崖を下っていく。
老人は、崖の下に降り立った。
後ろを見やる。そこには大きな洞窟があった。
「ここだな」
ポツリ、と呟く。
老人は暗い洞窟の中へと進んでいく。
洞窟内は真っ暗だったが、魂力で視力を強化すれば見えないこともない。
老人はさらに奥へと進んだ。道は徐々に下り坂になっていた。
そうして十数分後。
「……着いたか」
老人は、洞窟の最深部に辿り着いた。
そこは地底湖だった。
生物の気配はない。とても澄んだ湖である。
「これが
老人は呟く。
それから、胸元から古い首飾りを取り出した。
紐に小さな水晶を取り付けた首飾りだ。
老人が長年に渡って、ずっと身に着けていたものだった。
水晶を手に取り、数秒ほど見つめる。
「……
老人は水晶に語り掛けた。
「自分のこの決断を、お前はどう思うだろうな……」
ポツリ、と呟く。
しかし、水晶が老人に答えることはない。
ただ沈黙するだけだった。
「……無意味な問いかけだったか」
水晶を離す。
そして老人は服が濡れるのも厭わず、湖へと足を踏み入れた。
水面に波紋が立ち、腰が沈む所まで進む。
そこで老人は止まった。
両手で水面に触れ、波紋が奔る。
「これが最後の魂力だ」
そう呟き、魂力を水面に注いでいく。
すると、湖がみるみるうちに銀色へと変わっていった。
同時に淡い光を放つ。洞窟内は輝きに照らされた。
「……大地の龍よ」
老人は言う。
「……我が身を御身に捧げよう」
その宣言と同時に、老人の服が端から、徐々に銀の水に溶けていく。
不純物から消えていっているのだ。その後は老人の体も溶けるだろう。
――龍泉とは、龍穴の一種。
自然の力が収束される龍穴ほどの過酷な場所ではないが、長い年月をかけて、龍脈から溢れ出た力が、泉と成ったモノと言われている。
ただ、伝説の霊泉というほどのモノではない。
効能としては口に含めば、治癒力が少し高まる程度だろう。
しかし、一定の量の魂力を注ぐと龍泉は一時的に活性化され、緩やかではあるが、あらゆる存在を溶かす特性があった。
老人の肉体はおろか、その魂に至るまでもだ。
そうなれば、もう転生することはない。
老人の存在は、大地に溶け、ここで完全に消えてなくなるのだから。
(それで構わない)
老人は瞳を閉じた。
(我霊なんぞに堕ちるぐらいならばな。それに……)
転生したとしても、恐らくあいつに逢うことはもうない。
仮に巡り逢えたとしても、もう互いに別人になっているはずだ。
今も胸の中に宿る、この想いが遂げられることはない。
(だから、自分はここで消えたい)
老人は少しずつ、湖の奥へと進んでいく。
もう立つことが難しい水深まで来た。
老人は水中へと身を投げた。
天を見上げる。
ゆらり、と水晶の首飾りが揺れた。
まるであの頃のように。
(ただ、叶うのならもう一度だけ……)
沈んでいく。
水の中へと沈んでいく。
淡く輝く銀色の世界にて、老人――彼女は思う。
(お前に、『桜華』と呼んで欲しかった)
ほんの
彼が、自分をそう呼んでくれた日々。
かつて『久遠桜華』と名乗っていた、あの日々を胸に抱いて。
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