第112話 太陽を掌に⑥

 ――ドクン。

 ドクン、ドクン、ドクンッ……。


 心臓が、大きく何度も跳ね上がった。

 全身の血流が、沸騰するかのように激しく脈打った。

 自分の体に、魂に、致命的な現象が起きている。

 それを、はっきりと感じ取った。

 だが、それも望むところだ。

 すべては『おう』のために。

 幼き日より、共に泥をすすって生きてきた『友』のために。


「――がああああああああああああああああああッッ!」


 エボンは、咆哮を上げた。




「おじさん!」


 その時、燦が叫んだ。


「気をつけて! そいつ、変身するよ!」


「……ああ」


 真刃は、静かな眼差しで咆哮を上げる男を見据えていた。


「そのようだな」


 そう呟くなり、真刃の姿はかき消えた。

 男たちは動揺するが、次の瞬間には、少し離れた場所に真刃は現れた。

 右腕には、大切そうに月子の腰を抱きかかえて。

 左手では、燦の体を小脇に抱えていた。


 ――ズズンッ、と。

 数瞬ほど遅れて、黒鋼の巨熊――車に憑依した猿忌が真刃の傍らに着地した。


「えっ!? なんであたしは小脇なの!?」


 燦は真刃の手を掴み、バタバタと足を動かした。


「あたしも抱っこ! 抱っこして!」


「……ダメだよ。燦ちゃん」


 そう告げるのは、月子だった。


「いま燦ちゃんは燃えているんだよ。おじさまが火傷しちゃう」


 と、嗜めるが、月子の眼差しは、ずっと真刃の横顔を見つめたままだった。


「月子」


 そんな少女に、真刃は告げる。


「少々荒事になる。しっかりと掴まっておけ」


「……はい。おじさま」


 こくんと頷き、月子は真刃の首に手を回した。

 そうして、自分のすべてを預けた。


「え? 月子?」


 燦は目を瞬かせる。

 燦の角度から見えた月子の横顔。

 それは、一度も見たことのない表情だった。

 瞳は潤み、頬は紅潮している。口元には微かに笑みが零れていた。

 あまりにも大人びた顔である。

 真刃が少し顔を傾ければ、そのまま唇を許しそうな表情だった。


「えええッ!? 月子!? うそでしょう!?」


 燦はすぐに状況を察した。

 その声にハッとした月子は、


「は、はうゥ……」


 と、真刃の肩に顔を埋めた。


「ご、ごめん、そういうことなの。ごめェん。燦ちゃん……」


「えええええええッ!?」


 ただただ目を見開き、燦は驚愕の声を上げた。

 そんな少女たちをよそに、真刃は変貌する男を見据えていた。

 男の姿は、すでに人間のものではなかった。

 体のサイズは天井近くまで膨れ上がり、全身は泥で覆われている。口もない。首もない。眼下だけが窪んでいる。なで肩の泥の巨人だった。


「まるで、ダイダラボッチだな」


 真刃が、率直な感想を告げた。

 すると、


『お前を足止め出来るのならば、何であろうと構わん』


 泥人ダイダラボッチが言う。


「気をつけて! おじさん!」


 燦が再び叫んだ。


「こいつ、見た目は弱そうだけど凄く強いから!」


 そう告げてから、


「あたしを降ろして! あたしも戦うよ!」


「それは聞けん」


 真刃は告げる。


「今回は、お前たちを保護することが目的なのだ。こうして、お前たちを手にした以上、もう離すつもりはない」


「え?」


 真刃の宣言に、燦は目を見開いた。


「……は、離すつもりはないって……」


 次いで、ボッと顔を赤くした。

 一方、月子も「だ、だから、その、おじさま、言い方……」と呟き、うなじと耳を真っ赤にしつつも、真刃の首にぎゅうっと掴まっていた。


「それに戦うのはオレでもない。猿忌よ。ここはお前に任せる」


 真刃は命じる。猿忌は『御意』と答えた。

 黒鋼の巨熊は、地面を踏みしめて前へと進み出た。

 真刃は、さらに言葉を続ける。


「金羊。刃鳥。お前たちにもだ。各自、従霊十五体の魂力の使用を許す」


『うっス!』


『承知いたしましたわ』


 そう答えるのは、月子のスマホに宿る金羊と、真刃の胸ポケットにしまわれていたペーパーナイフに宿る刃鳥だった。

 二体は、それぞれポケットから浮かび上がって抜け出すと、顕現した。


 刃鳥は、銀色の刃で造られた孔雀に。

 金羊は、月子のスマホを核にして、黄金の雷で形作られた羊へと姿を変える。


 月子と燦は、目を丸くした。


「え、おじさん、同時に三体も式神を使えるの?」


「金羊さん、カッコイイ……」


『うっス! ありがとうっス! 月子ちゃん!』


 黄金の羊は、月子の方を見て、ニカっと笑った。


『けど、アッシは戦闘が苦手っスからね。この姿も無茶苦茶コスパが悪いっス。長くは持たないからさっさと片づけるっス!』


『そうですわね』


 刃鳥も言う。


『燦さまと月子さま。どちらを肆妃とすべきか、緊急従霊会議も開かねばなりませんし』


『いやいや。そこは月子ちゃん一択っスよ!』


『まったく。お前たちは』


 黒鋼の巨熊が嘆息する。


『気を抜くな。あやつは弱敵ではない。わざわざ主が三体も喚んだのだ。さらには、従霊十五体の魂力を必要とする。その意味を心得よ』


『うっス!』


『はい。猿忌さま』


 長の忠告に、黄金の雷羊は身構え、刃の孔雀は翼を大きく広げた。

 黒鋼の巨熊も、のそりと間合いを詰め始める。

 従霊たちは知識のみならず、互いの魂力をも共有できる。

 三体の体に、待機している従霊たちの魂力が流れ込んできた。


 一方、泥人ダイダラボッチは、


『……行け。ワン


 友に、最期となる言葉をかけていた。

 ワンは、最も古い仲間の言葉を、静かに聞いていた。


『俺とビアンは、もっとガキの頃に野垂れ死ぬはずだった。お前に出会わなければな。お前と生きた時間は楽しかったよ。感謝している』


 エボンは言う。


『だが、忘れないでくれ。名無しだったお前がどうして『ワン』を名乗っているかを。お前は俺たちの「おう」なんだ。どうか覇道を生きる気概を取り戻してくれ』


「……………」


 ワンは未だ無言だ。


『さあ、もう行け。お前は、お前の道を進め』


 エボンは、静かな声でそう告げた。


「……ああ」


 ワンは、ようやく口を開いた。


「分かったヨ。エボン


 そう告げて、自分の右腕の手錠に触れる。

 アタッシュケースの取っ手は握りしめたまま、手錠の鎖のみを引きちぎった。

 グシャリ、と自分を拘束していた鎖を握り潰す。


「俺は行く。アバヨ。エボン


『ああ』


 エボン――泥人ダイダラボッチは、振り向くこともなく答えた。


『あばよ。ワン


 ズズズズ、と。

 泥の両腕を大きく広げた。

 そうして、


『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッッ!』


 泥人ダイダラボッチは、吠えた。

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