第111話 太陽を掌に⑤

 ――ぞわり、と。

 その瞬間、男たちは揃って硬直した。


 突如、現れた乱入者。

 その傍らには、一頭の黒い巨大な熊がいる。

 鋼の巨躯を持つ熊だった。恐らくは式神だ。

 二本の足で立ち上がり、泰然と、こちらを睨みつけている。

 凄まじいほどの威圧感だった。

 だが、それ以上に、男たちは乱入者自身に見入っていた。

 誰もが顔が強張らせている。中には大量の汗をかいている者もいた。

 そんな中で、


「………………」


 ワンだけは、静かな眼差しで乱入者を見据えていた……。



 一方、その傍らで。


「おじさん! おじさん! おじさんっ!」


 きゅうう、と。

 燦の小さな胸は、強く締め付けられた。

 ずっと、探していた人と、やっと巡り会えたのだ。

 もう抱っこして欲しくて仕方がなかった。

 彼の方に両手を伸ばして、バタバタと動かした。

 けれど、彼は抱っこしてくれない。

 いわゆる『高い高い』の姿勢で、燦を近づけさせてくれなかった。


「おじさぁん、やあぁ。意地悪しないでェ……」


 と、勝気な少女が、今にも泣きだしそうな表情を見せた。

 その顔を見て、彼――真刃は嘆息する。


「……仕方がないな」


 今の燦は、炎のドレスを纏っている。

 そんな少女に触れれば、只事では済まない。

 真刃自身は問題なくとも、服が持たないだろう。

 だが、この紳士服スーツとコートには、一応、耐火の術式も施されている。

 相当な熱量のようだが、少しの間ぐらいなら耐えてくれるかもしれない。

 真刃が腕をゆっくりと曲げると、燦は、


「――おじさんっ!」


 目一杯、真刃の首筋に抱き着いた。

 自分が、炎のドレスを纏っていることも忘れている様子だ。

 とりあえず、いきなり服が燃え出すこともなかったので、真刃は少し安堵した。

 改めて、両腕で燦の背中を支えた。


「おじさん、おじさん、おじさぁん……」


 燦は、甘い声を出して真刃にしがみついている。と、


「――燦ちゃん!」


 不意に、少女の声が響いた。

 燦は、ハッとして目を見開いた。

 そして真刃の肩に手を置いて、声のした方に振り向いた。

 すると、そこには、こちらに駆けてくる親友の姿があった。


「――月子っ!」


 表情を輝かせて、親友の名を呼ぶ。

 それから、再び真刃の顔を見つめて、


「――おじさんっ!」


「……何だ?」


「愛してるよ!」


「…………………は?」


 思わず目を瞬かせる真刃の首筋に、もう一度だけギュウッと抱き着いてから、


「愛してるけど、今は降ろして!」


「……あ、ああ」


 燦の勢いに圧されて、真刃は少女を降ろした。

 そして燦は、


「――月子っ!」


 真刃から離れて、月子の元へと走り出した。


「燦ちゃんっ!」


 炎の手袋だけを解除し、二人の少女は互いの両手を重ねた。


「良かったぁ。無事だったんだ。月子ォ」


「うん。おじさまに危ないところを助けてもらったの」


「そっかぁ」


 燦は、ニカっと笑った。


「うん! 流石はあたしの旦那さまでしょう!」


「う、うん。そうだね」


 月子は、少しだけ視線を逸らして頷いた。

 そんな少女たちの様子を、真刃が父親の眼差しで見ていた。

 と、その時だった。




「……《未亡人ウィドウ》」




 不意に、そんな呟きが耳に届いた。

 おもむろに、真刃がそちらに目をやると、そこには隻眼の男がいた。

 アタッシュケースを手錠で左手首に括りつけた奇妙な男だ。

 真刃と視線が合った男――ワンは「……ああ」と、小さく呼気を零した。


「……ちょいと、あんたが知り合いに似てたんでナ」


 そう告げる。


「……そうか」


 真刃はさして気にかけず、少女たちへと視線を戻した。


(……おっかネエな)


 言葉一つ交わすだけでも冷たい汗をかく。

 ワンは、内心で肝を冷やしていた。


(……一体何なんダ? こいつは?)


 改めて、戦慄を覚える。


 ――突如、現れた黒いコートの男。


 どうやら、火緋神家の娘と知り合いらしい。

 普通に考えれば、火緋神家の人間。火緋神燦の救出者だ。

 だが、


(こんなバケモンを、火緋神家は飼ってんのかヨ……)


 全身の緊張が、一向に解けない。

 この男は、少女たちを優しい眼差しで見守りつつ、同時にワンたちには、微塵に切り裂くような凶悪極まる殺意を、絶えず叩きつけてきているのだ。

 魂力とは違う。純粋なる意志による圧力だ。

 この男の殺意は、エボンを始めとする部下たちも、肌で感じとっていた。

 イレギュラーが割り込んできたこの状況。

 本来ならば、即座に排除すべきだというのに、誰一人動けない。


 ――迂闊に動けば死ぬ。

 全員が、すでにそう察しているのだ。


(……それにしたってこの殺意。まるで)


 ワンは、片目しかない瞳を細める。

 本当によく似ている。

 自分の知る『最強』の人物と。

 敬愛してやまない『彼女』の姿に、とてもよく似ていた。


(……それに……)


 ワンは、少女たちの方にも目をやった。

 男と共に現れた少女。あの娘はビアンが確保していたはずだ。

 その娘が、無傷でこの場にいるということは……。


(………ビアン


 すでに、あいつもられたということになる。

 悪癖の多いビアンだが、相当の実力者だ。それを無傷で倒したということである。


(クソ。とにかく、こいつとは戦うべきじゃネエ。だが、どうすりゃあいい……)


 ワンは、思考する。

 ここでの最善手は何なのか。

 それを模索する。と、


「……ワン


 おもむろに、エボンが口を開いた。


「ここは撤退すべきだ」


 小声で、そう告げてくる。

 ワンは横目でエボンを見やり、眉をひそめた。


「そいつは分かっているヨ。だが、どうやって……」


「俺が殿を務める」


 エボンは、そう言った。

 それから強張る腕をどうにか動かして、自分のポケットに手を入れた。

 取り出したモノは、普段の青とは違う赤い液体の無痛注射器だった。


「幸い、ビアンから切り札も預かっている。これを使えばこの場もどうにか出来る」


「……エボン?」


 ワンは、エボンの持つ赤い無痛注射器に目をやった。


「なんだそいつは? 俺は聞いてねえゾ」


「俺が用意させたものだ。まさかこんな所で使うことになるとは思わなかったがな」


 一拍おいて。


ワンよ」


 エボンは、真剣な眼差しでワンを見据えた。


「恐らくこれが今生の別れになる。だから言っておくぞ」


 エボンは、拳を強く固めた。


「お前は『おう』だ。俺たちの『おう』なんだ。だからこそ目を覚ましてくれ」


「……なに?」ワンは眉をひそめた。「どういう意味ダ?」


「力こそすべて。そう生きてきたお前が『あの女』に心酔するのも分かる。だが、思いだしてくれ。お前は『おう』なんだ。最後にはすべてを略奪する『おう』なんだよ」


 エボンは、双眸をグッと閉じた。


「『あの女』に平伏すのはもうやめてくれ。敗北で牙まで失うな。どうしても『あの女』に執着するのならば」


 エボンは一歩前に進み出た。

 男からの殺意の圧力で膝が崩れそうになるが、どうにか抑え込む。

 次いで、武骨な拳でワンの肩を強く押す。


「『あの女』を自分の女にする。それぐらいの気概を見せてくれ」


「…………」


 ワンは無言だった。

 一方、エボンは黒いコートの男――久遠真刃の前へと進んでいく。

 一歩一歩が重い。

 それでもエボンは歩き続けた。


「……ほう」


 真刃は、静かな闘志を抱くエボンを一瞥した。


「……察するに、お前が殿を担うのか?」


 率直に、そう尋ねる。

 彼我の力量差は、真刃の方でも、すでに把握していた。

 月子の件もあり、今回は相当に腹に据えかねていたので、久方ぶりに『殺意』の挨拶をしてみたが、それだけで動けなくなる程度の輩だ。

 たとえ、廃ホテルにいた男と同じ力で全員が挑んできても敵ではない。


 ――模擬象徴デミ・シンボル

 金羊からそれを聞いた時は驚いたが、所詮はあの小僧天堂院八夜の劣化版といった印象だった。


(いや。実際に劣化版なのかもな)


 ともあれ、今も再会を喜び合う少女たちを保護した以上、勝敗は決した。

 後は、この輩を捕えるだけだった。

 だが、当然ながら、こいつらも足掻くはずだ。

 最も可能性が高いのは逃走。

 そしてその場合、恐らく出てくるのが、


「ああ。俺がお前の相手をする」


 エボンが頷いた。


「俺たちのボスが逃げる時間を稼がせてもらおう」


「……ふむ」


 真刃は目を細める。


「それは容易ではないぞ」


「分かっている。化け物め。だからこそ、この命」


 そうしてエボンは、無痛注射器に首に当てて告げた。


「我が『おう』に捧げることにしよう」

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