第七章 兎と羊は拳を振るう

第100話 兎と羊は拳を振るう①

 燦と月子が攫われたその頃。

 久遠真刃は、自宅マンションのエレベーター内にいた。

 音もなくゆっくりと下がっていく。目指すは地下の駐車場だ。


 真刃は今、紳士服スーツ姿だった。

 その上には黒のコートも着ており、前髪も上げていた。

 仕事着である。

 真刃は、これから仕事に行くのだ。

 廃ビルに巣食うA級我霊の討伐。

 隣の街までの遠出だった。しかし、今日はエルナたちが夕食の用意をしてくれるそうだし、さっと片づければ、夕食までには戻れるだろう。


『主よ』


 傍らで浮かぶ猿忌が口を開いた。


『一人で仕事をすることは構わぬが、こそこそと出かけなくてもよいのではないか?』


「……エルナたちに告げれば、付いてきたがるだろう」


 真刃は腕を組んで答える。


「まったく。一体、何度目のやり取りだ。危険度カテゴリーB以上ともなると、エルナたちにはまだ手に余る。それはお前も承知しているではないか」


『……確かにそうではあるが』


 従霊の長は嘆息した。


『我としては、妃たちには経験を積ませてやりたいのだ。そうだな。今後は一人だけ同行を許可するのはどうだ?』


「……ふむ」


 真刃は、猿忌を一瞥した。


「一人か。それならば構わんか」


『うむ。そうして帰路では、その妃を愛してやるがよい』


「……結局、そこに繋げるのか」


 いつも揺るがない猿忌に、真刃は溜息をついた。

 と、そこで、チンと扉が鳴った。

 ゆっくりとドアが開く。地下に到着したのだ。

 真刃は歩き出した。

 この地下には、多くの自動車や二輪自動車が駐車されている。

 真刃は、ここに、レーサータイプとビッグスクータータイプの自動二輪車二台と、SUVを駐車させていた。

 今日は、いささか肌寒いので車を使うつもりだった。

 真刃は自分の車の元に足を進める。と、


「……ん?」


 不意に胸ポケットが震動した。スマホの振動だ。


「エルナからか?」


 真刃はスマホを手に取った。

 すると、


『――ご主人!』


 突如、スマホが叫んだ。金羊の声だ。

 画面を見ると、金羊の顔がポップアップされている。

 金羊は、かなり焦っているようだった。


「……金羊か?」


 真刃は、眉をひそめた。


「どうかしたのか?」


『大変っス! 大変なんスよ!』


 金羊は叫び続ける。

 そして、つい数分前に起きた出来事を伝える。


『大変なんス! このままだと月子ちゃんが! 肆妃が酷い目に遭うんスよ!』


『……待て金羊』


 興奮気味な金羊に、猿忌が告げる。


『状況は分かった。だが、なぜその娘が肆妃なのだ? 肆妃は未定だぞ』


『肆妃は、あの子以外あり得ないっス!』


 金羊の興奮は収まらない。


『アッシの一推しっス! あの子以上の肆妃候補はありえないっス! 情報収集班の要としてそこは譲れないっス!』


『……随分と気に入ったものだな』


 猿忌は嘆息しつつ、主に目をやった。


『主よ。どうする?』


「……それはどういう問いかけだ? 猿忌」


 真刃は、猿忌に視線を向ける。


『あの娘たちの対応だ』


 猿忌は、双眸を細めた。


『攫われたのは一人ではない。火緋神の娘もだ。関わりたくないのであろう?』


『――猿忌さまっ!?』


 金羊が、『!?』マークをポップアップさせた。


『見捨てるんスか! そりゃあないっスよ!』


『見捨てる訳ではない。我らが動く必要はないだけだ』


 猿忌は、淡々と告げる。


『大門にでも知らせればよいことだ。救出には火緋神が動くであろう』


『そ、それは、そうっスけど……』


 金羊は、言葉を詰まらせた。

 猿忌の言葉には一理ある。わざわざ真刃が動く必要などないのだ。

 なにせ、火緋神家の直系の危機なのである。

 大門に情報さえ提供すれば、火緋神家は迅速に救出に向かうだろう。


「ああ。確かにな」


 真刃は、双眸を細めた。


オレはあの娘と関わるつもりはない。それが最善だな」


 言って、車に向かって歩き出す。

 金羊は『ご、ご主人ッ!』と叫んだ。

 すると、


「……しかしだな、猿忌よ」


 真刃は、足を止めて猿忌の方に目をやった。


オレは、こうも思うのだ」


 一拍おいて、


「子供の危機を知っておきながら、理屈をつけて動かんのは大人失格だとな。それは下衆の所業だと思わんか?」


 真刃は、どこか苦笑めいた笑みを浮かべつつ、そう告げた。

 猿忌と金羊は、真刃の次の言葉に耳を傾けた。

 そうして数瞬の沈黙後、


「……オレは人擬きだ。だがな」


 真刃は、皮肉気に口角を崩した。


「それでも下衆ではないつもりだ。まあ、これも大人の義務だな」


『……ふふ。そうか』


 猿忌は、嬉しそうに目を細めた。


『――ご主人!』


 同時に、金羊は歓喜の声を上げた。

 真刃は、黒いコートをなびかせて告げた。


「案内せよ。金羊」


『――了解っス!』


 かくして、火と大地の王は動くのであった。

 ――そう。太陽と、月の姫君を救いに。

 ある意味で、王は彼女たちの運命みらいを奪うために動き出したのだ。


『さあ! 肆妃たちが待っているっスよ!』


 ともあれ、おのが主人の優しさに心から感謝して。

 今は、喜々として叫ぶ金羊だった。

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