幕間二 貴女の愛する人は……。

第99話 貴女の愛する人は……。

 今から四年ほど前。

 それは、八月を少し過ぎた夏の日のことだった。


 その日は、とても静かな夜だった。

 夏だというのに虫の声もしない。

 ここが都会であることを差し引いても、静かな夜だった。

 気温も穏やかで眠りやすい。

 きっと、今夜は安らかに眠る人が多い日だろう。

 けれど、そんな中、


(………ん?)


 おもむろに、彼女は目を覚ました。

 ゆっくりと上半身を起こす。

 頭にはぴょんと跳ねるような軽い寝癖。まだ少し寝ぼけた蒼い瞳を瞬かせる。

 ゴシゴシと顔を腕で拭った。

 どうも悪い夢を見ていた気がする。

 パジャマの下では、結構寝汗をかいていた。

 彼女――当時八歳だった月子は、ベッドの上から体を起こした。

 そこは、月子の部屋だった。

 ぬいぐるみが幾つも置かれた可愛らしい部屋。

 けれど、月子はどこか遠い世界を見ている気になった。

 まるで夢のような儚い雰囲気を感じた。


「……お母さんマーマ


 不安になった月子は母を探した。

 部屋と出て廊下を進む。

 月子は、窓の外に目をやった。

 丸い満月。差し込む月明かりが、とても綺麗な夜だった。

 時刻は、夜の一時過ぎ頃か。

 この時間帯なら、母は寝室にいる。

 父は忙しくて今日は帰ってきていないが、母は仕事をしているはずだった。


 月子は母の元に向かった。

 そして、母と父の寝室に到着するとノックした。

 室内からは「誰かしら?」という声が聞こえてきた。

 月子の実家には多くの使用人もいる。その誰かと思ったのだろう。


お母さんマーマ。月子」


 そう答えると、数瞬後にドアが開かれた。


「あら。月子ルーナ


 部屋から出て来たのは、蒼い瞳と長い金髪を持つ女性だった。

 年齢は二十代後半ほど。

 白いYシャツを煽情的に着こなした、抜群のスタイルを持つ女性である。

 彼女の名は蓬莱アメリア。月子の母だった。


「どうしたの? こんな時間に?」


 母がそう尋ねる。月子は何も答えず両手を母に向けた。


「……あらあら」


 母は苦笑を浮かべつつ、月子を抱き上げた。

 娘を連れて、そのまま部屋の中に戻る。


「よいしょっと」


 母は月子を抱いたまま、ダブルベッドの縁に腰をかけた。


「どうしたの? 怖い夢を見たの?」


 言って、母は月子の頭を撫でた。

 月子は目を細めて、


「分からない」


 母に、ギュッとしがみつく。


「怖い夢を見た気がするけど、憶えてないの」


「……そう」


 アメリアは、甘えん坊の愛娘を強く抱きしめた。


「じゃあ、月子ルーナが落ち着くまでこうしてあげるね」


「ありがとう。お母さんマーマ


 月子は強く抱き着き、顔を母の豊満な胸に埋めた。

 と、その時、ふと気付いた。


お父さんパーパの匂いがする」


「……え?」


 月子は顔を上げて、改めて母の姿を見た。

 胸元を開けて白いYシャツを着ている。よく見ると男物だ。


お母さんマーマ?」


 月子は尋ねる。


「どうしてお父さんパーパのシャツを着てるの?」


「え? そ、それは……」


 アメリアは、思わず視線を逸らした。


「そ、その、違うのよ。最近構ってくれないなあ、とか、寂しいなあ、寂しいなあ、とか考えていたら、ついあの人のシャツを取り出してたって訳じゃあ……」


 と、顔を赤く染めて呟いている。

 月子はポカンとしていたが、不意に笑って、


お母さんマーマお父さんパーパは仲良しさんだね」


「う、うん。そうなのよ」


 アメリアは、コクコクと頷いた。


「だから、お父さんパーパが忙しすぎて、お母さんマーマは少ししょんぼりしてたの。こうやって補充するのも仕方がないことなのよ」


 幼い娘相手に、そんな言い訳をする。

 月子は小首を傾げた。


「月子もお父さんパーパに会えなくて寂しいよ。けど、補充ってなに?」


「え、えっとね……」


 アメリアは、指先で髪を弄って言葉に迷う。


「それは、月子ルーナも好きな人が出来たら分かるわ」


 結局、そう告げた。


「好きな人が出来たら、その人にどうしようもなく甘えたくなる時があるのよ」


「月子が、お母さんマーマに抱き着きたくなるみたいに?」


「う~ん、それとは少し違うかしら」


 アメリアは、あごに手をやって呟く。


「私も初めてあの人に抱きしめられた時は違ったわ。だから」


 一拍おいて、月子の前髪をかき上げた。


「月子も好きな人が出来たら試してみなさい。きっと理解できるから」


「月子に好きな人?」


 月子は、キョトンとした目で母を見つめた。


「いないよ。私はお母さんマーマお父さんパーパが一番好き」


「ふふ。ありがとう」


 アメリアは微笑む。


「けど、今はいないだけ。きっといるわ」


 そこで遠い目をする。

 思い出すのは、自分の生まれ育った故郷。

 裕福な彼の私物を狙って、ナイフを手に襲い掛かったあの日。


「あの頃の、荒れていた私を正面から受けとめてくれたあの人のように。月子を力強く抱きしめてくれる人は必ずいるはずよ」


 アメリアはそう呟く。

 月子は、まじまじと母の顔を見上げていた。

 月子は、母の故郷のことは知らない。

 一度も行ったこともない。

 故郷については、母は何も語ったことはなかった。

 ただ、分かることは、母が故郷に良い思い出がないということ。

 そこから、母を救ってくれたのが父であること。

 そうして今の母は、父と月子を、心から愛しているということだけだ。


「うん。分かった」


 月子は、笑った。


「私も、お母さんマーマと同じようにする。好きな人と出会ったら、ギュッと抱きしめてみる」


「うん。けど、ちゃんと、その人のことは見極めるのよ」


 アメリアは、愛娘の髪を撫でて告げる。


「世の中、悪い男も大勢いるからね」


「うん。分かった」


 月子は二パッと笑う。


「私は私の好きな人を見つけるよ。それからお母さんマーマと同じようにその人のシャツを着るの」


「えッ!? え、えっと、それは……」


 顔を赤く染めて、言葉を詰まらせるアメリア。

 月子は、うとうとと頭を揺らし始めた。

 それは、満月が輝く夜のことだった。

 月子は微笑み、母の腕の中で眠りにつく。

 母は、子守歌を歌った。


 その歌は、今も月子の心に届いている。

 いつも、心の奥に。

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