幕間一 火神の巫女は、神に祈る

第89話 火神の巫女は、神に祈る

 ――カコーン……。

 澄んだ鹿威しの音が響く。

 周囲は、まるで森林のような庭園。

 木の枝の上にいたリスが、ふと顔を上げた。

 が、すぐに顔を伏せて、カリカリと木の実をかじる。


 そこは、火緋神家の本邸だった。

 場所は、広大なる和室。

 通称、『御前の間』と呼ばれる部屋にて。


 御前さまこと――火緋神杠葉は、一族の者の報告を受けていた。

 守護四家の者ではない。

 深緑の和装を纏う四十代の男性。

 厳格そうな顔立ちの大柄な人物だ。

 火緋神家の直系。火緋神いわお

 杠葉を除けば、一族の中でも最強であると目されている者。

 そして燦の父親でもある人物だった。


 彼は、薄い布の囲いで覆われた杠葉の前で正座をし、対面していた。


「……以上が報告です」


 見た目通りの重い声で巌が告げる。


『……そうですか』


 杠葉は嘆息する。


『現物は、ありますか?』


 薄布越しにそう尋ねると、巌は「は」と応えた。

 そして懐から『それ』を取り出し、畳の上に置いた。

 続けて、一人の人物が巌の元に向かう。

 部屋の片隅に控えていた侍女だ。彼女は、両手で抱えた膳の上に小さなそれを乗せて杠葉の前まで運ぶと、その場で両膝を突き、


「御前さま。失礼いたします」


 言って、薄布の下を少し開けて、膳だけを中へ入れた。

 彼女は立ち上がると、再び部屋の隅へと移動し、そこで静かに控えた。

 杠葉は薄布中に入れられた膳に目をやり、その上に乗った『それ』を手に取った。


 まじまじと見やる。

 手の平に納まるほどの筒だ。半透明の容器であり、中には液体らしき物が入った。


『これは、注射器でしょうか?』


「……は。簡易化されておりますが、無痛注射器と呼ばれる物です」


 巌が答える。


「それ自体は珍しい物ではありません。問題は中に入っている液体です」


『…………』


 杠葉は、無言で注射器を頭上にかざした。

 青色の液体が揺れる。

 不快そうに、杠葉は眉をひそめた。


『これが、今の若い引導師ボーダーの中で流行っていると?』


「は。特に国外では」


『……副作用は?』


 淡々と尋ねる杠葉に、巌は表情を変えずに報告する。


「……依存性がかなり強いとのことです。そして長期間に渡って使用した場合は、情緒が不安定となり、言語にも多少の影響が出てくると報告が上がっております」


『……出所は分かりますか?』


 杠葉の問いかけに、巌はかぶりを振った。


「そこまではまだ。ですが、恐らくは……」


『……天堂院家ですか』


 杠葉は、グッと唇をかむ。


「裏は取れておりませんが、意図的にあの一族が動いている可能性はあります」


 巌が確信を以て告げる。杠葉は嘆息するばかりだった。


『あえて、秘匿技術を流出させたということですか。引導師全体の底上げ。天堂院九紗殿が考えていることですね』


「……国内よりも、国外でより流通しているのは、ある程度の人体実験を兼ねているのではないかとも考えられます」


 と、巌が言う。

 御前の間に静寂が訪れる。


『……そうですね』


 ややあって、杠葉が口を開いた。


『まずは確証を取りましょう。引き続き、調査をお願いします』


「承知いたしました」


 そう告げて、巌は「それでは」と立ち上がろうとしたが、


『ああ。少し待ってくださいませんか』


「……? 御前さま?」


 杠葉に呼び止められて、巌は腰を降ろし直した。


「別命でしょうか?」


『いえ。ただ少々お聞きしたいのです。巌さん』


 杠葉は巌に尋ねる。


『燦との関係はその後、どうですか?』


「……………」


 巌を無言だ。杠葉は微かにかぶりを振った。


『親子なのですから、互いに歩み寄ることは出来ないのですか?』


「……あれは」


 巌が口を開く。


「自分の力を過信しております。いかに魂力が高かろうが、所詮は個人の力。多くの隷者を従えた引導師には及びませぬ。……例え先程のモノを使ったとしても」


 そこで、自嘲めいた笑みを浮かべる。


「いずれは気付くでしょう。個人の限界に。話はそれからです。隷者を受け入れ、更なる高みを望むか。引導師の道を諦め、隷者となるか。あれの歩く道はそのどちらかとなります」


『……………』


 今度は、杠葉が無言になった。


「蓬莱月子に関してもです。あの事件の際、蓬莱月子を救出し、見出したのは確かにあれの功績です。ゆえに今は好きにさせておりますが、所詮は系譜術を持たぬ者。いずれは、私の長兄の隷者に。十六を迎えた後には、正妻にと考えております」


『……月子さんは嫌がるでしょうね』


「それでも、あの娘の叔父とかいう男よりはマシかと。それに、相手は母が違えど、あれの実の兄。あれと義姉妹になることは、蓬莱月子にとっても悪い話ではないでしょう」


 杠葉の指摘にも、巌は揺るがない。

 すでに、彼の中では、燦の将来も、月子の未来も決定しているようだ。


『……そうですか』


 杠葉は、瞳を閉じた。


『呼び止めてすみません。では調査の方、よろしくお願いします』


「は。失礼いたします」


 言って、今度こそ巌を退席した。その後、御前の間に控えていた侍女の方も「では。御用があればお呼びください」と告げて退席した。

 御前の間に残されたのは、杠葉だけとなった。

 しばしの沈黙の後、


「……困ったものね」


 杠葉は呟いた。


「……巌さんの説得は、流石に無理かしら」


 美麗な眉をひそめる。

 巌の話には一理ある。燦と月子も頑張っているようだが、それでも、いずれ個人の限界の壁にぶつかることになるだろう。

 互いに支え合っても、魂力の総量の差だけはどうしようもない。

 そして、二人とも個人としては別格の魂力を持っている。

 将来、確実に《魂結びの儀》は挑まれることになるだろう。

 あれは基本的には合意の儀式とはいえ、理由もなく拒み続けることも出来ない。

 また、あの二人ほどの才を遊ばせている余裕も過酷な引導師の世界にはなかった。《魂結びの儀》は強く望まれるはずだ。


 そうして、いつの日か二人は……。


「……………」


 最悪の未来に、杠葉は唇を強く噛む。

 杠葉にとって、二人は孫のような存在だった。

 沐浴中だった杠葉の元に、偶然迷い込んでしまった二人の少女。

 そこは、杠葉以外の人間は立ち入り禁止の場所であり、結界まで張っていたのだが、どうも活発な燦が無茶をして、あの場所にまで来てしまったようだ。

 最初は杠葉も当惑したが、二人を溺愛した。

 燦に至っては、自分を「ひいお婆さま」と呼んでくれるぐらいだ。

 肉体的には十代でも、中身はお婆ちゃんである杠葉は、ホッコリとしてしまった。

 二人とも本当に可愛かった。


「ごめんね。役に立てないお婆ちゃんで……」


 その呼び名が全く似合わない美麗な顔立ちを曇らせて杠葉は呟く。

 あの子たちの未来に困難が待ち構えていることは、容易に想像できる。

 一族の誰よりも長く、この世界に居続けているのが自分だ。

 巌の語った未来は最も可能性の高い未来である。それを誰よりも強く実感する。


 けど、それでもだ。


「隷者も引導師も関係ない。あの子たちには、望む未来を叶えて欲しい」


 自分には、それは出来なかった。

 引導師の世界に囚われて、愛する人に刃を向けた自分には。

 だからこそ、未来を担う少女たちには願ってしまう。


「……燦。月子ちゃん」


 どれほど、多くの困難が立ち塞がったとしても。


「どうか、あなたたちは愛する人と結ばれてね」


 火神の巫女は、神に祈るようにそう呟くのだった。

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