第87話 太陽の娘。月の少女③
その日。真刃は上機嫌だった。
時刻は四時を少し過ぎた頃。場所は繁華街。
個人店舗だけでなく、百貨店なども並ぶ大規模な繁華街だ。
真刃は、平日であっても人通りが多いその道を一人で歩いていた。
流石に鼻歌までは口ずさんでいないが、かなり上機嫌なのはすぐに分かる。
それもそのはず。
真刃は、ずっと楽しみにしていたとある
その名も『全国缶コーヒー試飲会』。
名前からすると、全国のご当地缶コーヒーでも紹介するような内容にも聞こえるが、要は各メーカーの新商品や、期間限定予定の品の試飲会だった。
真刃としては、実に満足できる催事だった。
エルナたちと一緒に出かけては色々と止められそうだったので、今日はこっそり一人で出かけた。流石に猿忌だけは付いてきているが、猿忌は口を挟めても、顕現しない限り物理的に止めることは出来ない。
そうして催事会場に着いた時、その品揃いに、真刃は思わず感嘆の声を零した。
しかも、どれもこれも銘品ばかりだった。
流石は各メーカーが力を入れて開発した新商品。まさに力作揃いだ。
『おお……これは何とも……』
渡された缶コーヒーを手に、喉を唸らせる真刃。
デザインもまた秀逸だ。このパイプを咥えた髭男シリーズはお気に入りだった。コーヒー缶の収集も趣味にしている真刃の部屋には、この髭男たちが大勢滞在していた。この新商品も販売され次第、すぐに買おうと心に決めた。
真刃は、催場を散策する。
各メーカーのブースごとに用意された、缶コーヒーの新商品。
それらをすべて、じっくりと堪能した。
まるで小宇宙から小宇宙へと旅をしているような気分だった。まあ、宇宙旅行など果たしてどんなものなのか、大正時代を生きた真刃には想像もつかないのだが。
ともあれ、今日ばかりは、缶コーヒーは一日三本までという約定も取っ払させてもらった。
真刃にとっては、大変大満足な一日であった。
『……主よ』
ボボボ、と宙空に出現するなり、猿忌は嘆息した。
『……情けない。隠れてこのような催事に赴くとは』
「黙れ。猿忌よ」
真刃は、小さな声で反論する。
「缶コーヒーは
『……それは否定せんが……』
猿忌は、かぶりを振った。
『何も妃たちに隠れんでもよいだろう。我らが王としては情けない姿だ』
「
と、真刃が言う。
事実、幼少時は一日の食事もままならない日もあった。
成人を迎えた後も、このような嗜好品を口にすることは稀だった。
「根が貧乏性である
と、言い訳もする。
猿忌としては、深い溜息をつくだけだ。
たまの贅沢が缶コーヒーの試飲会なのだから、それも情けない気がする。
そうこうしている内にも、真刃の足は進んでいく。
真刃は駐車場に向かっていた。ここまででは二輪自動車で来たのだ。
真刃は余韻に浸りながら、帰宅するつもりだった。
「……ん?」
と、その時だ。
真刃は、おもむろに足を止めた。
そこはビル同士に挟まれた、少し狭い路地裏だった。
そこから独特の雰囲気を感じたのだ。
それは、霊感の強い引導師でなければ気付けない空気だ。
『……ほう。ここは』
猿忌も目を細めた。
『……この独特の趣。もしや「裏市」か』
「……ああ。そのようだな」
真刃は頷く。
――『
大正時代にも存在した、全国各地にある引導師御用達の市場である。
引導師を証明するⅠDによる会員制の場所であり、昔は露天商が並ぶような風景だったが、今は一つのビルを貸し切り、その呼び名の通り『百貨店』となっている。
今は特殊な霊具であってもネットで購入が可能な時代だが、大量生産の市販品ならばともかく、掘り出し物となると、この場所でしか手に入らないものだ。
真刃もエルナの案内で近場の『百貨店』には行ったことはあるが、この場所は初めて来た。
「これもまた、缶コーヒーの導きか」
『いや。そんな導きはないだろう』
真刃の呟きに、猿忌がツッコみを入れる。
しかし、こうして見つけたのは、何かの運命だろう。
真刃は路地裏に足を向けた。
『寄るのか? 主よ』
真刃を追って尋ねる猿忌に、真刃は「ああ」と答えた。
「缶コーヒーの導きはともかく、昔からこういった偶然からの出会いは、掘り出し物が見つかりやすいものだ。エルナたちへの手土産もあるかもしれん」
『ふむ。そうだな』
猿忌は真刃の横に並びながら、あごに手をやった。
『確かに一理あるな。しかし、人擬きを自称する主だが、紫子や「あの女」の時といい、意外と妃に対してはまめなところがあるな』
「……五月蠅い」
真刃は、渋面を浮かべた。
そうして、一つのドアの前に立つ。
ドアの横には、スマホを読み取る小さなリーダーがあった。
真刃はスマホを
「金羊」
『ういっス』
スマホに憑依する金羊が答えて、モニターにQRコードを表示させた。
途端、カチャリと鍵が開く音がした。
真刃はドアノブを掴み、ビル内に入った。
そうして、
「……相変わらず」
その光景に、真刃は内心で驚く。
「時代の進化とは、凄いものだな」
そこには、まさに百貨店の光景が広がっていた。
入口こそ裏口のような形だったが、内部はまるで違う。開かれた店舗が幾つも並び、上階へと続くエスカレーターも見える。来店者の数も百貨店並みだ。多くの来客たちが店員と談話や交渉をしている。場所によっては、猿忌のような式神の姿もあった。
(ここにいる人間、すべてが引導師なのか)
真刃は、目を細めながら歩を進めた。
昔の裏市も人は多かった。活気づいていたことは記憶に残っている。
しかし、ここまでの規模ではなかった。
店内に目をやると、治癒薬から普通の衣服に模した特殊な装備。刀剣まで。中にはアプリ化した術の売買までしているようだ。売買されている物も実に多様化されている。
(……本当に様変わりしたものだ)
初めて裏市に訪れた日を思い出す。
あの時には親友と、二人の少女が傍にいた。
『真刃さん! 行きましょう!』
その内の一人、紫子の声を思い出す。
もし、彼女がこの光景を見たら、どれほど喜んだことだろうか……。
『ちょっと! 真刃! 真剣に選んでよね!』
……いや、むしろ、もう一人の少女の方が面白い反応を見せそうだった。
少しだけ口元を綻ばせて、真刃は足を止めた。
目の前には、百貨店の店舗案内が記されていた。
「……ふむ」
あごに手をやる。
九階まである階層。その店舗名に目を通していく。
そして、
「まずは、ここから出向いてみるか」
そう呟いて、真刃はエスカレーターへと足を向けた。
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