第63話 対談④

 唇に紅を引く。

 口紅ではない。指で引く。

 まるで血のように赤い唇に目を細めた。

 沈黙する。

 ……どうして、こんなことになったのか。

 和装の少女。天堂院七奈は、鏡を前にして思った。

 ここは、天堂院家の本邸にある彼女の自室。

 一応は本邸の敷地内にはあるが、森に覆われた、半ば別邸となっている屋敷だ。

 この二週間半、ずっとこの屋敷に引き籠っていたのだが、父の命により、今日、彼女はここから出ることになった。父より本邸の留守居を命じられたのだ。


(……私はどうして)


 眉を、キュッと寄せる。

 七奈は兄弟姉妹の中で、最も不出来な存在だった。

 系譜術クリフォトも、独界オリジンも発現しない。

 魂力は平均よりも高いといっても、八人の中では最も低い。完全な失敗作だ。

 自分が実験体と理解していたからこそ、七奈はいつも怯えていた。

 いつ処分されてもおかしくなかったからだ。


 しかし、父は、七奈を処分しようとは考えなかった。

 実験である以上、失敗も当然ある。

 むしろ、失敗作をどう生かすかを考えた。


『ふむ。とりあえず封宮師にするか。封宮は独界の入り口でもある。それが切っ掛けで独界に至れるかもしれんしな』


 父はそう呟くと、当時十三歳だった七奈に《魂結び》を行えと命じた。

 もちろん、第二段階までを前提にした指示だ。

 七奈には、断ることなど出来なかった。

 断れば、父の気が変わって処分……ということも考えられたからだ。


 そうして迎えた儀式。

 七奈の初めての隷者は二十歳の青年だった。天堂院家の分家の青年だ。

 あの日から常に七奈の傍にいる、今の隷者筆頭でもある。

 彼は、今も部屋の外で待機してくれている。


 彼は優しい人だった。

 いや、彼だけではない。

 七奈の隷者たちは、みな優しい人ばかりだった。

 いっそ、この屋敷から逃げだそう。そう言ってくれた人もいた。

 けれど、七奈はこの二週間半、心配してくれる彼らと言葉も交わしていない。

 それどころか、今となっては、もう彼らの顔を見ることも出来なかった。


「……ごめん、なさい」


 グッと自分の胸元を強く掴む。

 ……どうして、こうなってしまったのか。

 言い訳ならできる。

 は――圧倒的な暴威だったからだ。

 七奈とは違う、限りなく完成体に近いと呼ばれている少年。

 気紛れだろうが、彼に狙われた以上、出来損ないの七奈に抵抗する術はなかった。

 しかも、同世代と比べても貧相である自分の体のどこが気に入ったのか、毎夜のように七奈の元に訪れる。


 もう逃げることも出来ない。

 七奈は、このまま心を閉ざすつもりだった。


 ……そのつもりだった。


『七奈ちゃん! 七奈ちゃん!』


 あの少年は、いつも笑顔を見せてくれた。

 歪な少年だと思っていた。

 けれど、夜を越えるたびに、少しずつ理解できた。

 彼は歪というよりも、どうしようもなく『素直』なのだと。

 常識がない。気遣いもなく、優しさもない。

 ただ、純粋に。

 素直に、七奈のすべてを求めていた。

 体はすでに奪われていた。彼が触れていない部位などない。

 八夜は、彼女の心さえも求めたのだ。

 七奈を気遣う彼女の隷者たちは、そこまで求めることはなかった。


「……八夜くんの馬鹿」


 七奈が表情を変えるだけで、彼は大喜びしてくれた。

 そんな彼を、いつしか可愛いと感じていた。

 そうして一度そう感じてしまうと、もうダメだった。

 心を閉ざすことも、彼を強く拒絶することも、七奈には出来なくなっていた。


 そして前日のこと。


『七奈ちゃん! ボクと結婚しよう!』


 彼は、七奈の部屋にやって来るなり、そんなことを言い放った。

 七奈にしてみれば、完全に寝耳に水だ。

 八夜から詳しく話を聞いて、複雑な想いを抱いた。


 ――異母弟の妻。

 自分でも歪な人生だと思う。


 どうして自分は、ここまで運命に弄ばれるのかとも思った。

 けれど、素直に喜ぶ彼の姿に、七奈は「……はい」と自然と頷いていた。

 彼は、大喜びして、彼女を抱きしめてきた。

 その場に偶然立ち会った隷者たちは、唖然とするばかりだった。

 彼らにしてみれば、訳の分からない事態だろう。


 本当に申し訳ない気分になった。

 自分は、彼らの信頼を裏切ったに等しい選択をしたのだ。


「……だけど」


 鏡の前で、七奈は一つの髪飾りを手にした。

 八夜から贈られた、雪華の髪飾りだ。

 七奈はそれをじっと見つめてから、髪に差す。


「……私は決めたの。彼と歩むって」


 散々な運命ではあるが、これだけは自分で決めたことだ。

 まずは、留守居をきちんと務めあげる。

 その後、彼の妻となって、彼をちゃんとする。

 彼はロクに教育を受けなかったせいで、あそこまで不純物がない状態になったのだ。

 怯えて、流されるだけの人生はここまでだ。

 彼の妻になる覚悟を決めた以上、彼をしっかりと教育し直す。

 彼を、怪物から、人へと変えてみせる。

 これは、そのための第一歩だった。

 七奈は、立ち上がった。

 そして自らの意志で襖を開ける。

 視界に広がる森に覆われた庭園と、長い渡り廊下。そこには膝を突く隷者筆頭がいた。

 いずれ解任になる予定と知ってなお、彼は七奈に忠誠を誓ってくれていた。

 七奈は申し訳ない気分を抱きつつも、彼を従えた。


「……参ります」


「……は」


 七奈は文字通り、新たな第一歩を踏み出した、その時だった。


「――七奈さま!」


 突如、渡り廊下の端から一人の男性が駆け寄ってきたのだ。

 天堂院家に仕える従者の一人だ。

 七奈は眉根を寄せた。

 彼は、七奈の足元で膝を突いた。


「どうしたのです?」


「大変です! 七奈さま!」


 男は、息も絶え絶えに報告する。


「八夜さまがッ! 八夜さまがッ!」


「八夜くん? 彼がまた何かをしたのですか?」


 七奈がそう尋ねると、


「ら、来客が……想定外の娘を連れていたので、まずは七奈さまにお伺いしようと屋敷に通したのですが、途中で八夜さまが……」


「想定外の娘? 一体誰が……」


「そ、それは……あッ!」


 その時、男は目を剥いた。

 彼の視線は森の木々の隙間。その先へと向けられていた。

 七奈も、隷者筆頭の青年もそちらに目を向ける。

 そしてギョッとした。


「………え」


 遥か遠く。数キロは先か。

 そこに途轍もなく巨大で広大な――壁が生み出されていたのだ。

 蒼い壁。恐らくは氷壁だ。


「は、八夜くん?」


 七奈は、ただ唖然と呟いた。

 あんな真似が出来るのは、八夜しかいない。

 しかし、あそこは天堂院家の敷地内だ。一体何があったのか――。


 天堂院七奈の第一歩。

 それは、いきなり波乱に満ちていた。


「な、何をしているの? 彼は」


 今はただ、茫然と呟くしかなかった。

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