幕間一 永遠の秘密

第46話 永遠の秘密

 先日、母が死んだ。

 生まれながら体が弱い人ではあったが、いよいよだったらしい。

 享年三十九歳。早すぎる死だ。

 しかし、母の死に顔は、とても安らかなものだった。


 夜を、駆ける。

 ――大正九年。六月三日。

 御影刀一郎は、魂力を足に込めて地面を蹴った。

 使用した魂力は僅かな量。

 けれど、それだけで彼は軽々と宙を飛び、音もなく近くの屋敷の屋根に移った。

 そのまま、屋根の上を駆けていく。

 深くかぶった軍帽。闇に紛れるような黒い外套。

 手には、刀身のない柄を握りしめている。

 標的の姿は、まだ見えない。


 彼は、任務の真っ最中だった。

 帝国陸軍の中でも独立した部隊・《陰太刀》。

 総隊長を筆頭に、十三の分隊で構成された秘密部隊に、刀一郎は所属していた。

 階級は伍長。いわゆる、国家引導師と呼ばれる存在である。


(……母上)


 刀一郎は、双眸を細める。

 母のことは、疎ましく思っていた訳ではないが、特段親しくもなった。

 ただ、母が苦しまずに逝けたことには、少し安堵する。

 そんな母と、最後に交わした言葉があった。


『刀一郎さん。あなたは、もう「桜華」に戻ってもいいのですよ』


 後に、死を迎える床で、母は自分にそう告げたのだ。

 ……初めて知った。

 それが、自分の

 自分に名付けられるはずの名前だったとのことだ。

 ……なんと、今さらの話か。

 あなたが最初に男児を産まなかったから、自分は『男』に成ったというのに。


(……母上)


 刀一郎は、思う。


(今さら、自分にどうしろというのです)


 刀一郎が生まれて十年後。母は男児を産んだ。

 待望のの男児だ。

 父の喜びようは、刀一郎もよく憶えている。


(自分は、もう「女」に戻ることなどできない)


 刀一郎は、刀身のない柄をすっと構えた。

 ようやく標的が見えた。

 屋根の上。進路上に六本足の巨大な蜘蛛がいる。

 牛のごとき巨体。人の顔を幾つも浮かび上がらせた不気味な怪物だ。

 いわゆる、集合体と呼ばれる我霊だった。

 この帝都で、幾人もの女性を食らった化け物である。

 蜘蛛は、自分を追ってきた刀一郎に気付いたようだ。無数の顔に怒りの表情を浮かび上がらせて、刀一郎に襲い掛かる!

 対する刀一郎は、速度は緩めず、わずかに重心を落とした。


 すっと、柄を構える。

 過分な魂力は込めない。余計なものは、すべて削ぎ落す。

 鋭く、どこまでも鋭くした魂力を用いて、熱閃の刀身を生み出した。

 闇の中、無数の光条が煌めく。


 ――ザンッ!


 決着は一瞬。蜘蛛の脚、胴体は無残に斬り裂かれた。

 だが、それだけでは終わらなかった。


「ッ! チイッ!」


 刀一郎は、舌打ちする。

 斬り落とした蜘蛛の鋭利な脚が、刀一郎に迫ってきたのだ。

 刀一郎は、咄嗟に重心を逸らして脚をかわした。


「――クッ!」


 しかし、完全にはかわしきれなかった。

 鏃のような脚の表面に、軍服が引っかかってしまう。

 ――ビリリッ!

 軍服は胸板辺りから、引き裂かれてしまった。

 その下にあった、さえも……。


「……くそッ!」


 白い肌が、闇の中で露になる。

 男性ではあり得ない、豊かな胸が外気に晒される。

 強い苛立ちが、胸中を灼く。

 刀一郎は、片手で自分の胸を抑えて、屋根から路地へと飛び降りた。

 次いで、人の目を気にしつつ、予備のさらしで胸を覆う。大きな胸がしっかりと押さえつけられるのを確認してから、止血用に持っている針で破れた軍服を強引に縫い付ける。


「…………………」


 刀一郎は、渋面を浮かべた。

 こればかりは、嫌でも思い知らされる。

 やはり、自分は紛い物。本物ではないのだと。


(……いや、そんなことは、今はどうでもいい)


 重要なのは任務だ。

 刀一郎は、すぐさま立ち上がった。

 まだ敵はいる。仮初だが、同僚であるあの男が追っているはずだ。

 刀一郎は、自分の姿が完全に『男』であることを確認してから走り出した。

 再び屋根の上に跳び移り、疾走する。

 帝都の闇は深い。しかし刀一郎は躊躇いもなく走り続けた。

 そして、ようやく彼を見つけた。

 その青年は、屋根の上に佇んでいた。

 炎が噴き出す、岩の巨腕を携えて。


「……何だ、御影か」


 どこか寂し気な眼差しをした青年――久遠真刃は、刀一郎を一瞥して言う。

 彼の背後には、巨大な我霊の死体が横たわっていた。

 異形の死体に、漆黒の衣。そして炎の巨腕。

 雲が晴れて、月光が彼の姿を照らす。

 その姿に、思わず刀一郎は魅入ってしまった。


 ――まるで王。

 万物をねじ伏せる破壊の王だ。


 あの巨腕は、どれほどの破壊の力を秘めているのか?

 圧倒的な魂力を宿すあの男の肉体に、自分の刃は通じるのだろうか?

 それを考えるだけで、背筋に歓喜が奔る。

 試してみたいと、心が躍る。


 そして同時に思う。

 もし、敗北したらどうなるのか?

 力及ばず、あの男の両腕に捕らわれたら。

 あの男の手で、すべての偽りを剥ぎ取られたら。

 刃を折られ、虚勢さえも奪われて。

 ありのままの自分を、あの男の前で晒してしまったら。

 果たして、自分はどうなってしまうのか。


 ――いや、予感はある。

 恐らく、その時こそ、自分は「女」に戻れるのではないのだろうか。

 そんな、確信にも近い予感があった。


 ――トクンっと。

 押さえつけてあるはずの胸の奥。

 密かに宿すこの想いに、鼓動が強く高鳴った。

 刀一郎は、渋面を浮かべた。


(……もしや、母上は自分の変化を……これを見抜いていたのか?)


 だとしたら、流石は母親といったところか。

 微かに嘆息する。と、


「どうした? 御影」


 久遠真刃が尋ねてくる。


「なんだ? 傷でも負ったのか? よもや我霊を取り逃した訳ではないだろうな?」


 社交性が皆無なこの男は、意外と任務に対しては忠実だった。

 恐らく、世話になっている分隊長殿に迷惑をかけるのが嫌なのだろう。


「ふん、莫迦にするなよ」


 刀一郎は、言う。


「少々手間取りはしたが、問題なく討ち取っている」


「……そうか」


 久遠真刃は皮肉気に笑った。


「この程度の輩で手間取るとはな。呆れたぞ」


「五月蠅い。確かに自分は未熟だ。だがな」


 刀一郎は一拍おいた。

 そして彼――いや、彼女は、久遠真刃を睨みつけて言う。


「いつか貴様さえ斬ってみせよう。それが自分の望みだ」


 いつの日か、この男に挑む。

 その想いは、ずっと彼女の胸の奥に宿り続けた。


 何年も。何年も。

 あの男が、手の届かない、遠い場所に行ってしまった後でさえも……。


 消えることなく、その想いは、ずっと宿り続けていた。

 それが彼女の秘密だった。

 彼女は、それを誰にも語ることなく、心の奥に秘め続けた。


 ――そう。いつまでも。永遠に。

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