第41話 そしていつもの朝が来る③

 その頃。

 ――ピチョン、ピチョン、と。

 水滴の音が響く。

 フォスター家の住人の一人。

 杜ノ宮かなたは、シャワーのレバーから手を離した。

 直前まで浴びていた水が、彼女の素晴らしい凹凸を持つ肢体に沿って流れ落ちた。

 髪からも雫を落とし、かなたは、浴場の鏡に映った自分の姿に目をやった。


「………」


 無言で見据える。

 年齢を重ねるたびに、自分は母に似てきていると思っていた。

 顔つきも、体つきもだ。

 けれど、最近はさらに母に似てきていた。

 それも、幼い頃の思い出の中の母よりも、前の主人の傍にいた時の母の姿にだ。

 あの頃の母は、本当に生き生きとしていたから。


(私は……)


 小さな吐息を零す。

 自分でも、もう理解している。


(私は、あの人に惹かれている)


 亡き父にも似た、優しいあの人。

 今のかなたの主人。

 いや、はっきり言ってしまえば、彼女の所有者と呼んでもいい人物だ。

 そういう意味では、道具風情が想いを寄せるなど不敬なのかもしれない。

 けれど、


(…………)


 かなたは、自分の裸体の胸元に片手を置いた。

 同時に瞳を閉じて、あの人の姿を思い浮かべる。

 トクン、と。

 鼓動が高鳴った。

 かなたは、再び小さな吐息を零した。

 やはり確かめるまでもないようだ。

 かなたは、鏡越しに自分の姿を見やる。

 肌に大きな傷跡はない。それどころか、わずかな傷さえもなかった。

 胸元の手を、大きな双丘に沿わせつつ、そのまま腹部辺りまで下ろした。


 かなたは、改めて自分の容姿を分析してみた。

 流石に、北欧の血を引くエルナには一歩劣るが、自分の胸には充分な大きさがある。さらに言えば、腰は引き締まっているし、自分でも中々のものだと思う。少なくとも、自分の年齢でこのスタイルは少ないはずだ。少しだけ、母に似たことを感謝する。


 恐らく自分の容姿は、そこまで悪くはないはずだ。

 なのに、あの人は、自分に《魂結び》を行おうとしない。


(……やはり一度確認を取ろう)


 かなたは浴場から出ると、バスタオルを取って自分の体を拭いた。

 髪もドライヤーで乾かして、少し梳かす。

 次いで、下着と黒いタイツを履き、用意していた白いセーラー服と、愛用の黒のカーディアンを身に纏うと、バスルームから出た。

 すると、


『おっ、お嬢。出てきたか』


 そう言って、かなたの肩までしゅるりと上ってきたのは赤い蛇。

 あの人の従霊である赤蛇だ。普段はかなたが首に巻くチョーカーに憑依しているのだが、今はチョーカーを変化させて、やたらとリアルな、ぬいぐるみ製の蛇となっていた。

 かなたは、赤蛇を一瞥することもなく廊下を歩き出した。


『お嬢? どうしたんだ?』


 赤蛇が聞いてくる。かなたは視線を向けずに答えた。


「……確認したいことがあるの」


 それだけを告げる。

 かなたが呼ばれないのは、エルナが愛されているから。

 そう思っていたが、実のところ、違う可能性も脳裏に浮かんでいた。

 もしかすると、壱妃であるエルナさえも、まだ儀式を済ませていないのではないだろうか?

 そう思い始めていた。


(……可能性としては、充分にあり得る)


 かなたの今の主人は、とても優しい人だ。

 かなたに対しても、エルナも対しても、傷つけるような真似は絶対にしない。いつも気遣ってくれている。ぶっきらぼうに見えて、本当に優しい人なのだ。

 そして、かなたとエルナは、体つきや見た目こそ大人びているかもしれないが、実際のところは、まだ十四歳の少女に過ぎない。心も体もまだまだ未成熟だった。


 そんな彼女たちを気遣って、あの人は待ってくれているのではないのだろうか?

 未熟な彼女たちの、心と体に負担をかけないように。

 かなたとエルナが成長するのを。


(……もしそうだとしたら)


 かなたは、キュッと唇を噛む。

 気遣ってくれることは嬉しい。とても嬉しかった。

 けど、その考えは受け入れられない。

 魂力の総量は、生存率に大きく繋がる重要な要素なのだ。

 もし自分を気遣ったせいで、あの人が戦死でもしたら考えただけでゾッとする。


(……それだけは、絶対にヤダ)


 もう、一人ぼっちは嫌だった。

 父を失うことにも、母を失うことにも耐えた。

 けど、あの人を失うことだけは耐えられそうにない。

 あの人の優しさに触れて、また孤独に耐えられるほど、自分は強くなかった。


(だから確かめないと)


 もし、本当に推測通りなら、あの人を説得しなければならない。

 エルナはともかく、少なくとも、自分の方は気遣わなくてもいいのだ。

 かなたは、フォスター家の従者だ。

 昔から、いつかは隷者にされることを覚悟していた。

 特に、自分は魂力が相当高い。

 恐らく、体が成熟しない内に、それを命じられると考えていた。

 フォスター家の誰かに、それこそ、力尽くで奪われることさえも想定していた。

 それに比べれば、今の状況は本当に恵まれている。

 だから、自分を気遣う必要など一切ないのだ。

 それよりも、戦場に打てる手を打たずに出ることの方が問題だった。


 そんなことを考えながら、かなたは歩き続けた。

 マンションの一室であるフォスター家は他の部屋と違って、訓練場も兼ねて四フロア分を繋げていた。そのため、意外と広い。

 数十秒後、かなたは、ようやく真刃の部屋近くにまで辿り着く。

 普段ならば、この早朝時間は、きっとエルナがだろうと思い、かなたが真刃の部屋に訪れることはなかった。主人と壱妃を立ててこその弐妃だ。

 しかし、かなたの推測通りならば、あの人はきっと一人で睡眠をとっているはずだ。


 かなたは、ドアをノックしようと近づいて……ふと気付く。

 何故か、ドアが開いている。


「……?」


 かなたは眉をひそめながら移動し、部屋の中を覗いた。


「――ッ!?」


 そして、かなたは固まった。

 それはあまりにも想定外――いや、ある意味、想定通りの光景があったからだ。


「……エルナ。いい加減、目を覚ましてくれ」


 心底困った様子の真刃に、


「えへへ、ダメですよォ、だって真刃さんまだ起きてないじゃないですかぁ」


 しっかりと抱き着いて甘えるエルナの姿だった。

 しかも、何とも凄いネグリジェ姿だ。

 二人は、ベッドの上に座って重なり合っていた。真刃は、エルナの細い腰をしっかりと抱き寄せていた。実際はエルナを暴れさせないための対応だが、かなたは知る由もない。

 かなたは、ただただ頬を強張らせた。


「…………」


 言葉もない。

 これは、どう見てもだった。

 いや、むしろ、これからなのだろうか……。

 いずれにせよ、自分の推測は完全に的外れだった訳だ。


 自分が夜に呼ばれない理由は、極めてシンプルなことだった。

 それはただ、偏に、エルナの方が愛されていただけの話で――。


 と、その時、真刃がかなたに気付いた。


「ッ! かなたか! 良かった。エルナを――」


 引っ剥がしてくれ。

 と、言いかけたところで、真刃は思わず言葉を止めた。

 正直、本気で驚いたのだ。


「か、かなた?」


 それは、初めて見る姿だった。

 あのかなたが。

 冷静沈着で、いつも無表情なあの娘が。


「…………………」


 まるで幼児のように。

 瞳に涙を溜めて、大きく頬を膨らませていたのだ。

 そして――。


「……真刃さまのいじわる。嫌い」


「――かなた!?」


 唐突な批評に、真刃は目を剥いた。

 しかし、かなたを引き止める前に、彼女は廊下を走り去っていった。


「待て! かなた! どうした――ええいッ! いい加減目を覚まさんか! エルナ!」


 真刃は、未だ抱き着いて離れないエルナの両頬を引っ張った。

 それで、ようやくエルナは目を覚ます。


「あれ? お師さま?」


「よし。起きたな」


 真刃はエルナの腰を掴むとひょいっと持ち上げて、自分の横に動かした。

 それから、まだ少し寝ぼけているエルナを置いてかなたを追った。

 その後、従霊たちの力も借りて、どうにかかなたを見つけて捕獲。ほぼ一か月ぶりに我儘モードに入ったかなたを必死に宥めるという大仕事をこなすのだった。


 そうして――。


「……何故、己は朝からここまで疲れておるのだ」


 朝食時には、この上なく疲れ果てている真刃であった。

 かくして。

 今日も、彼らの朝が始まったのである。

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