第40話 そしていつもの朝が来る②

 その日。

 珍しく真刃は早朝から起きていた。

 正確に言えば、無理やり叩き起こされたのだ。

 朝からかかってきた電話のせいで。


『ふはは! 日本に行ったのは正解だったな!』


 野太い声がスマホから聞こえる。

 真刃はしかめっ面を浮かべるだけで何も答えない。

 しかし、通話相手は気にせずに語り続ける。


『雫の料理は絶品だぞ! お前に食わせてやれんのは残念だ!』


「……そうか」


 ベッドに腰をかける真刃は嘆息した。

 雫というのは通話の主――ゴーシュ=フォスターと共に、旅立った女性のことだ。

 真刃としては、心苦しさが残る女性である。

 しかし、


『夜の方も相変わらず初々しくてな! たどたどしい仕草がまた愛らしいのだ! 今夜も精力的に愛してやるつもりだぞ! 夜だけにな!』


「…………」


 真刃の額に青筋が浮かぶ。

 ああ、やはりこの男はこんがり焼くべきだったと思う。

 そろそろ、本気で電話を切りたいのだが、この男は仮にもエルナの異母兄だ。エルナのためにもあまり無下には出来ない。

 ゴーシュは、さらに絶好調に続ける。

 いかに雫が愛らしいのかを熱心に語りかけてきた。

 真刃はうんざりする。と、


『ところで義弟おとうとよ』


「……誰が義弟だ」


 ボソリと返すが、ゴーシュは気にしない。話を続ける。


『お前の方はどうなのだ? エルナとかなたはちゃんと可愛がってやっているのか?』


「…………」


『俺としてはエルナを優先して欲しいとは思う。早く甥っ子の顔も見たいしな。だが、かなたも忘れてやるなよ。あれも俺にとっては娘も同然だしな』


 と、そんなことを宣う。

 その娘に手を出そうとしたのは一体どこのどいつだ。

 思わずそう返したくなったが、言っても意味がなさそうなので別の台詞を告げる。


「……お前に言われることではない」


 淡々と事実だけを続ける。


「エルナとかなたは己の庇護下にある。決して無下に扱ったりはしない」


『うむ。そうか』


 ゴーシュは、一拍おいて返してきた。


『それを聞いて安心したぞ。何せ、俺の妹と娘を託しているのだからな。ただ、義兄としてアドバイスをするとな』


 少しだけ気まずそうにゴーシュは言う。


『愛してやる機会をあまり偏せさすなよ。俺も最近は雫ばかりに構っていたせいでな。サーラがうるさいのだ。ゲス野郎、ゲス野郎と会うたびに言われてな』


 サーラという女性も知っている。

 年齢的にはまだ十代の少女らしく、雫の前に隷者になった人物と聞いている。

 まだ隷者となって日が浅く、色々と我儘な娘とも聞いていた。

 帰国してから、ゴーシュは、知りたくもない近況報告をしょっちゅうしてくるのだ。


『だから、今夜は二人同時に愛してやるつもりだ。そうだ、義弟よ。お前もたまにはそういったプレイも――』


「やかましいわッ!」


 流石に我慢の限界が来た。

 真刃は問答無用で通話を切った。

 そして、ふうっと疲れ果てた嘆息して、スマホをベッドの上に投げ捨てた。

 何というか、朝からぐったりした気分だ。

 すると、


『相変わらずだな。あの男は……』


 ぼぼぼっと部屋の中に鬼火が現れる。

 それは骨翼を持つ猿の姿になった。従霊の長。猿忌だ。


『だが、あの男の話にも一理あるぞ。いい加減、エルナとかなたを愛してやったらどうだ?』


「……お前な」


 真刃は青筋を浮かべて猿忌を睨みつけた。


「何度も言うが、己にその気はない」


『……主よ』


 猿忌は深々と嘆息した。


『我も何度も言うが、これは主が平穏に暮らすために必要なことなのだ。すでにエルナもかなたも受け入れている。エルナはもちろん、かなたの好意に気付いていない訳ではあるまい』


「………」


『我ら従霊の総意としては、参妃を迎える前に壱妃と弐妃は愛してやって欲しいのだ。でなければ、どんどん後がつかえることになるからな』


「……お前らは」


 真刃は額に手を当てて、かぶりを振った。


「己の魂力を偽装するために、エルナたちを隷者にしたように見せかける。百歩譲ってその計画に乗るとしても、それなら、素直にエルナたちに協力を申し出ればよかろう。《魂結び》を行ったという芝居だけでも問題ないはずだ」


『いや、主よ』


 猿忌は呆れるように呟いた。


『その場合、エルナたちはどうなる。今代では引導師の夫婦は当然のように《魂結び》を行っている。主と《魂結び》を結んだままでは、あの娘たちはどの家も受け入れてくれんぞ』


「………む」


 真刃は、眉をしかめた。

《魂結び》は隷主が破棄すれば、再び誰かと結び直すのも可能だ。

 しかし、二重契約だけは出来ない。

 さらに言えば、隷者は隷主になることも出来なかった。

 すなわち、真刃がいる限り、エルナたちは他の家に嫁ぐことも出来ないのだ。


『幸せは巡るもの』


 猿忌は、言う。


『エルナたちは、きっと主を幸せにしてくれるだろう。ならば、主もまた彼女たちを幸せにすべきではないのか?』


「…………」


 従者の言葉に、真刃は沈黙した。

 しばしの静寂。真刃は瞳を閉じた。

 脳裏に浮かぶのは、二人の少女の姿だ。

 守れなかった少女と、泣かせてしまった少女。


「……己のような」


 真刃は瞳を開けて、ボソリと呟く。


「己のような、人擬きに酷なことを言うな」


『……主よ』


 猿忌は、とても深く嘆息した。


『やれやれ。あの時代よりは少しは改善したと思っていたのだがな。自分を卑下するその悪癖はまだ抜けきっていないようだな』


「……ふん。放っておけ」


 真刃は、ベッドの上に身を投げ出した。

 不貞腐れた様子で、両腕を枕にする。


「己はしばし眠る。あの男のせいで睡眠を邪魔されたからな」


 子供じみた主人の態度に、猿忌は呆れたように溜息をついた、その時だった。

 不意にドアがノックされた。

 真刃と猿忌は、視線をドアに向けた。


「……エルナか?」


『うむ、朝食に呼びに来たのか? いや、それには早いな。まだ五時半だぞ』


 主従がそう語っていると、おもむろにドアが開かれた。

 真刃は「返答する前にドアを開くな」と、文句を言おうとしたが、絶句した。

 そこにいたのは、やはりエルナだった。

 しかし、いつもの白いセーラー服ではない。

 大きく開けた胸元に、少し上気した白い肌。

 彼女はかつて一度だけ見たことのあるネグリジェ姿で立っていたのだ。

 猿忌は『おお!』と目を剥き、真刃はただ唖然とした。


「エ、エルナ?」


 そして真刃が彼女の名と呼ぶと、


「……えへへ」


 エルナは、ぼんやりとした眼差しで笑った。


「やっぱり真刃さん、まだ起きてない」


「は? 何を?」


 当然ながら真刃は起きている。ただベッドの上で横になっているだけだ。

 どうも様子がおかしいエルナに、真刃が上半身を起こそうとした時だった。


「真刃さぁんっ! 起きてくださぁいッ!」


 いきなりエルナが駆け出し、ベッドの上――要は真刃の上にダイブしてきたのだ。


「お、おいッ!? エルナッ!?」


 下手にかわすとベッドの上でも危ない。

 真刃は、彼女を受け止めるしかなかった。

 ベッドが大きく揺れた。エルナの豊かな胸が真刃の胸板の上で押し潰される。


「何をするのだ! エルナ!」


 真刃はエルナの頬に添えて、彼女の顔を上げた。

 そして「ぐッ」と呻く。

 彼女の紫色の瞳は、どこかトロンとしていた。

 これには見覚えがある。瞳の色も顔立ちもまるで違うが、かつて自分の世話をしてくれた少女が、時々朝に見せていた表情だ。

 要は、完全に寝ぼけている時の顔である。


「真刃さぁん……起きてくださぁい」


「いやエルナ!? 己はもう起きているぞ!?」


 と、真刃は叫ぶが、エルナは全く聞いていない。

 まるで、彼女の異母兄のごとくだ。


「ダメですよォ、えへへ。起きないとイタズラしちゃいますよォ……」


 言って、彼女は真刃の胸板に頬ずりをしはじめた。


「おい!? しっかりしろエルナ!?」


 真刃がさらに叫ぶが、やはりエルナの耳には届かない。


「……えへへ、真刃さぁん……」


 酔ったような口調で真刃の名を呼ぶと、大きな胸を様々な形に押し潰して真刃の上を移動し始める。それから両腕を真刃の首に回して、頬にキスまでしてくる始末だ。

 流石に真刃も青ざめた。これはどうみてもまずい状況だ。

 すると、


『うむ。どうやらエルナの方が積極的のようだな!』


 猿忌が腕を組んで、満足げに頷いた。


「おい! 猿忌!」


『さあ、主よ! エルナの気持ちに応えてやるのだ!』


「ふざけるな! 寝ぼけた娘を手籠めになど出来るか!」


 真刃が眉間にしわを刻んで叫ぶ。

 その間も、エルナはその色気に満ちた体を寄せてくる。

 下手に力を込めると彼女を傷つけてしまいそうで、真刃は振り払うことも出来なかった。


「おい! 猿忌! 早く助けろ!」


 と、従者に命じるが、部屋にはすでに猿忌の姿はなかった。

 猿忌は、すでに廊下の外にいたのだ。


『頑張れ、主よ。GOごおだ』


 不慣れな英語まで使って親指を立てる。

 それから、すぐに猿忌は、ぼぼぼっと消えてしまった。

 残されたのはベッドの上で茫然とする真刃と、彼の腕の中で甘えまくるエルナの姿だけだ。

 そして――。


「この糞猿が! 何がGOだッ!」


 真刃の本気の怒声が、廊下に響くのであった。

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