第二章 そしていつもの朝が来る
第39話 そしていつもの朝が来る①
突き刺さるような夏の日差し。
エルナ=フォスターは、ふと気付くと見知らぬ街中にいた。
パチパチ、と瞳を瞬かせる。
眼前に広がる光景。
それは、とても不思議な光景だった。
(どこだろう? ここ?)
彼女がいるその場所は、見たこともない街だった。
本当に不思議な街だ。
見る限り、ビルなどはなく、凝った造りの建物ばかり。
それも、西洋と東洋の建築物が交じり合ったような街並みだ。
とても洒落てはいるが、まるで精緻なジオラマの中にでもいるような、少しこじんまりとした印象も抱く。
エルナが歩く道もまた不思議だ。
街中というのに、アスファルトで舗装されていない。整地はされているが、土がむき出しになっているのだ。発展した街でこんな公道があるのが驚きだ。
(変なの)
エルナは、街の様子を見やる。
多くの人が歩いている。ただ、彼らも少し不思議な感じがする。
紳士服の男性はともかく、どうも和服を着た人が多い。
特に女性は、袴や着物を着た人をかなり見かけた。
(あれ?)
そこで気付く。
今さらだが、自分も紫色の袴を着ている。手には何やら袋を持っていた。
(あ。これってフロシキって奴だ)
マジマジと手に持った袋を掲げて見つめる。
どうして自分はこんな物を――。
と、考えた時。
(あっ、真刃さんだ)
そうだった。
自分は、真刃にお弁当を届けに行くところだった。
今朝、彼が屋敷から出かける時、急いでいたので渡しそびれたのである。
まったく困ったものだ。彼は時々酷く寝起きが悪い時があるから。
そういう時は、彼女が部屋まで起こしに行くのだ。
そして彼は、少し駄々をこねる。それを彼女が宥めるのだ。
こればかりは一緒に暮らす彼女だけの特権だった。
(……ふふ)
お嬢さまの拗ねたような顔を思い出す。不敬と思いつつも笑みが零れてしまった。
実のところ、彼女も時々寝起きが悪く、寝ぼけることも多いのだが、それは棚に上げる。
ともあれ、エルナは上機嫌で街中を進んでいった。
目的地は彼の勤務先だ。
すると――。
「あ、真刃さん」
エルナは、表情を輝かせる。
勤務先に到着する前に彼を見つけた。
不思議なことに軍服ではない。黒い紳士服だ。
建屋の角で腕を組み佇んでいる。
「真刃さん!」
エルナは彼に声を掛けた。
すると、真刃はこちらに視線を向けた。
「……何だ。――か」
(え?)
エルナは内心で眉をひそめる。
彼が自分の名を呼んだ。それは分かるのにその声が聞こえなかったのだ。
「こんなところで何をしている?」
傍に近づいてきたエルナに真刃が尋ねる。
エルナは困惑しつつも、
「お弁当ですよ。真刃さん、忘れていったでしょう」
口から出てきたのは、とても朗らかな声だった。
疑念などない声。事実、エルナの困惑はすぐに霧散した。
真刃は眉をひそめた。
「別に一食程度抜いたところで問題はない」
「もう! またそんなことを言って!」
エルナは、ぷくうっと頬を膨らませた。
「いつも言っているでしょう! ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ!」
「………分かった」
真刃は、渋々エルナの風呂敷包みを受け取った。
と、その時だった。
「……何をしているのだ」
不意に声がした。少し甲高い声。真刃の背後――路地裏からだ。
エルナは、顔を路地裏に覗き込ませた。
そこには一人の男性がいた。
歳の頃は真刃と同じ――恐らく二十代半ばほどか。
背は低く、中性的な――というより、かなり綺麗な顔立ちだ。
黒髪を肩辺りで切り揃えた小兵の青年だった。
青年は、若草色の紳士服を纏っていた。
「久遠。その娘は何なのだ?」
鋭い目つきで真刃を睨みつけて、青年は問う。
一方、真刃は、
「……お前に答える義理はないが」
そう前置きしてから、少し意地悪く口角を崩した。
「口は慎んだ方がいいぞ。この娘は――の妹だ」
「――なに! 分隊長殿の妹君だと!」
青年は目を見開いた。
一方、エルナは内心で訝しむ。
……分隊長の妹?
エルナにとって兄とは、異母兄であるゴーシュだけだ。
ということは、分隊長とは異母兄のことなのだろうか?
しかし、分隊とは何だろう?
異母兄が、どこかの部隊に所属していたことなんて一度もないはずだ。
エルナは首を捻りながら、真刃に尋ねた。
「真刃さん。この方は?」
「ああ。こいつか?」真刃は皮肉気に笑った。
その笑みにも違和感を覚える。
真刃のこんな自嘲じみた笑みは、初めて見るような気がした。
「己の首輪だ。我らが敬愛すべき総隊長殿が、わざわざご用意してくださったな」
「……久遠」
青年が真刃を睨み据える。
「貴様。総隊長殿への侮辱は許さんぞ」
「ふん」真刃は腕を組んで青年を一瞥した。
「あの男のお前の扱いは己でも知っているぞ。それでもあの男に忠義を尽くすのか?」
「当然だ。それが武人というものだ」
青年は言う。それから彼はエルナの方に頭を下げた。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。自分は御影刀一郎と申します。久遠同様に貴女の兄上殿の部下であります。兄上殿にはいつもお世話になっております」
「あ、そうでしたか」
エルナも頭を下げた。
「こちらこそ申し遅れました。私の名は――と申します」
………え?
エルナは困惑した。
今、自分が何と名乗ったか認識できなかったのだ。
まるで聞いたことのない名前を告げたような気がする。
「……? どうかしたか? ――」
真刃が心配そうな顔で彼女の名を呼んでくれた。
彼がこんな顔を向けてくれるのは、自分ともう一人だけだ。
そう思うと嬉しくて、些細な困惑など消えてしまった。
「いえ! 何でもないですよ!」
エルナは、満面の笑みを真刃に向けた。
それから、真刃の同僚であり、兄の部下でもあるという青年――御影氏にも笑顔を向けて。
「それよりも御影さま。丁度お昼時です。これから三人でお食事にでも行きませんか?」
そう告げた。
それに対し、御影は何とも困った表情を見せた。
ちなみに真刃もだ。
「いえ、その自分は……」「この男と食事だと?」
言い淀む二人をエルナは上目遣いで「……駄目ですか?」と尋ねた。
二人は「「……う」」と同時に呻き、
「いえ……自分は別に構いませんが」
「その男が、たまたま己の近くで飯を食うだけという話だ」
と、それぞれ答えた。
告げてから二人は互いを睨みつける。
実は相性がいいような気がする二人の様子に、エルナはクスリと笑う。
ともあれ承諾は得た。
彼らの気が変わらない内に、エルナは笑顔で告げるのだった。
「それじゃあ、二人とも行きましょう!」
…………………………。
……………………。
………………。
――チュン、チュンと。
遠くから雀の鳴く声が耳に届く。
エルナは、自室のベッドの上で、ポーっとした表情で座っていた。
寝起きなので当然、その姿は寝間着姿だ。
純白の下着がうっすらと見える、レース状の紫色のネグリジェ。
エルナが、決戦用にと密かに購入していた逸品である。
本来はここぞという時に使う予定の物だったのだが、今や彼女は、愛しいあの人に隷者にしてもらうことを確約してもらっている。
しかも、自分は最も彼に愛される者。妃の長たる壱妃なのだ。
もういつ何時、お呼びがかかってもおかしくない。
そのため、普段からこの
ただ、今のエルナには、そんなことは頭にない。
脳が全く機能していない。
完全に寝ぼけているのである。
「……ふえ?」
半開きの瞳で周囲を見やる。
ここはどこだろう?
(あれ? 私、確か真刃さんとご飯を……あれ? もう一人誰かいたような?)
分からない。
ここは一体どこなのか?
ただ、窓の日差しの強さから分かるのは、今が朝ということだけだ。
エルナは、しばしベッドの上でキョトンとしていたが、
「……あ、そうだ」
不意に、にへらと笑った。
「朝だ、朝。えへへ、きっとまだ……」
そしてポンと手を打ち、
「うん。早く真刃さんを起こしに行かなきゃ」
嬉しそうにそう呟くのであった。
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