第28話 幸せは巡る⑤

「――お師さまっ!」


 エルナは跳んだ。十数メートルの距離をただの一足で。

 空中で両手を広げる姿は、完全に無防備である。

 心から真刃を信頼している証だ。

 そして事実として、そんな無防備なエルナを真刃が避けることはない。


(……やれやれ)


 真刃は微かに苦笑を零して、彼女を両腕でしっかりと受け止める。

 どれほど勢いがあっても少女一人ぐらいの体重で揺らぐような真刃ではない。

 ただ、揺るがない反面、彼女の豊かな胸が真刃の胸板で押し潰されることになるのだが。

 相も変わらない破壊力。

 やはり、年齢離れしたボリュームである。


「お師さま!」


 エルナは、真刃の首筋に両手を絡めて満面の笑みを見せる。

 真刃は少し困った顔をしつつも、両足が浮いている彼女の背中を片手で支えた。

 彼女の頬にかかる横髪を、指先で動かす。


「大事はないか? エルナ」


「はい!」


 エルナは元気な声で応える。

 そんな少女を真刃は両腕で軽く抱き寄せた。

 エルナの顔が赤く染まり、傍にいるかなたがムッとするが、真刃の視界には入らない。

 今は確かに感じる少女の温もりに、密かに安堵していた。

 いかに猿忌の守護があっても戦場では万が一はあり得るものだ。エルナが真刃の身を案じていたように、真刃もまた、ずっと彼女の身を案じていたのである。

 まあ、不安を顔に出すような真似はしなかったが。


(……どうやら事なきを得たようだな)


 エルナの髪を撫でつつ、真刃は優しく目を細める。

 かなたを救えても、代わりにエルナを失っては話にもならない。

 やはり、エルナは真刃にとって特別な少女なのだ。

 失うことなど考えられない。


「お師さまも無事で良かったぁ」


 一方、愛する人の腕の中で、頬を染めつつも、エルナは幸せを噛みしめていた。

 今まで抱いていた恐れや不安が、瞬く間に霧消していく。

 両足が宙に浮いている不安定な状態でも、深い安堵感の中で微笑む。


「……かなた」


 それから、エルナはかなたにも視線を向けた。

 彼女に対しても、心から、ホッとした表情を見せる。

 見た限り、かなたに大きな怪我はない。我霊に憑依されている様子もなかった。


「……良かった」


 自然と安堵の声も零れる。

 ある意味、かなたへの心配は真刃以上だった分、本当に良かったと思う。


「うん。かなたも無事だったんだね」


「……はい。お嬢さま」


 そう答えるかなたに、エルナは微笑むが、


(あれ?)


 少し不思議に思う。

 相変わらずの無表情だが、かなたの感情が少しだけ読めたからだ。

 どうも、どこか不機嫌なように見える。


(それに何か、立ち方が少しぎこちないような気が……)


 そう思っていると、


「ふむ。かなたも無事だったか」


 おもむろに、ゴーシュが口を開いた。


「これで役者は揃ったな。ではこちらに来い。かなた」


 続けて、そう命じるが、彼女は動こうとしない。ゴーシュは眉根を寄せた。


「どうした、かなた?」


「ご当主さま。私は……」


 そう呟くと、かなたは真刃の傍らに寄り、彼のスーツの裾を掴んだ。

 真刃は、ポンと彼女の頭に手を置いた。

 ゴーシュは、双眸を細める。


「……ああ。なるほど。そういうことか」


 よく見れば、かなたの瞳の輝きが違う。明らかに変化している。この短期間で。

 一夜にして『女』がああなる状況を、ゴーシュはよく知っていた。


「堪え性のない男だな。少し目を離した隙に『贈呈品』にもう手を出したのか。まあ、時間ならほどほどあったし、ここまで空き部屋がなかった訳でもないしな」


「………え?」


 未だ真刃に片腕で支えられたままのエルナは、異母兄の台詞にキョトンとした。


(え? それって、え?)


 徐々に目を見開いていくエルナ。

 エルナは青ざめた顔で、何度もかなたと真刃を見比べた。

 ――いや、まさか……。


「その上、決戦前に魂力を上げておく大義名分まであったな。余裕があるのなら、むしろ手を出さない理由の方がないのか。しかし……ふむ」


 ゴーシュは、微かに足を震わせて、青年に寄り添う少女を一瞥した。

 皮肉混じりの苦笑を零した。


「随分と消耗しているな。処女だというのによほど激しくされたのか。いや、むしろ処女だからか。《魂結び》にかこつけて、足腰も立たないほどに精でも注がれたか?」


「……違います」


 かなたは、確かな意志を以て否定する。


「真刃さまは、私に幸せを注入してくださっただけです」


 ただ、その言語の表現は、あまり否定した感じではなかったが。

 エルナは、完全に無表情になった顔で真刃を見つめた。


「……いや、エルナよ」


 それに対し、真刃は額に指先を当てて深々と溜息をついていた。


「……お師さま」エルナが言う。「後で詳しい話を聞かせてもらいますから」


「いや、詳しい話も何も……」


「……


 エルナが、ムッとした表情を見せて頬を膨らませた。

 彼女の眼差しは、真刃を捕らえて離さない。


「う、む」


 真刃は、かなり困ってしまった。

 美麗な顔立ちである分、今のエルナは真刃であっても結構怖い。


(……む?)


 ただ、彼女の紫色の瞳に、何故か懐かしさを覚えた。

 これは、昔、どこかで見たことのある瞳だ。


(……これは)


 どこで見たのか。

 真刃は少し疑問に思ったが、思考を切り替えた。

 いずれにせよ、エルナは酷く怒っている。その対処が先決だった。


「まあ、その、落ち着け。エルナ。その話は後でしよう」


 とりあえず、真刃は幼児にするようにエルナを抱きかかえ直した。

 それから、ポンポンと後頭部を叩く。完全に子供扱いである。

 時折、エルナの髪も優しく撫でた。

「……むむ」とエルナは不服そうだったが、数秒も続くと「も、もう。仕方がないですね」と表情が和らいだ。普段から機会があればハグをねだっているが、思えば、真刃からのハグは初めてのことだ。子供扱いだと分かっていても、幸せを感じてしまう。


「もう。仕方がない人ですね。真刃さんは」


 頬ずりせんばかりに真刃の首元に抱きつくエルナ。もう完全に蕩けていた。

 このままベッドまでお持ち帰りしても全然OKだろう。それぐらいご機嫌だった。

 ただ、かなたの方の不機嫌度指数は少し増したようだが。


「ほう。見事な手腕だな。かなたを一晩かけずに落とし、エルナも完全に調教済みか」


「うるさい。黙れ、ゴーシュ=フォスター」


「いや。黙れと言われてもな」


 ゴーシュは、真刃の袖をギュッと掴んだままのかなたに目をやった。


「エルナはともかく、かなたはまだ俺の部下だ。本人から聞いているかもしれないが、お前に渡す予定の『贈呈品』だとしても、現時点でお前側に完全につかれるのは不愉快だな」


 そう言って、指を掲げた。


「俺に刃向かった罰は受けてもらうぞ……なに?」


 そこで、ゴーシュは軽く目を剥いた。

 かなたの首に、チョーカーがないことに気付いたのだ。


「……貴様」


 ゴーシュは、すぐさま真刃を睨み付けた。


「俺の術を解いたのか?」


「まあな」真刃は不敵に笑う。「不快か?」


「……いや」ゴーシュは目を細めた。


「本当に大したものだ。貴様、本当に在野の引導師なのか?」


「在野だよ。己はどこにも帰属しておらん」


 正確にはどこにも帰属できなかったというのが、正しいがな。

 小声でそう呟く。


『いずれにせよ』


 その時、黒鉄の虎が口を開いた。次いで主人と黒髪の少女を見やり、


『どうにか間に合ったようだな。主よ』


「ああ。相当危うかったがな」


 そう言って、真刃はかなたの腰に左手を回して抱き寄せた。

 あっさりと両足が浮く。無表情だったかなたも、「え?」と目を丸くした。


「お師さま? かなたに何を――あ」


 元々右腕に抱いていたエルナも、より強く抱き寄せた。右腕に壱妃エルナを。左腕に弐妃かなたを抱いた状態だ。二人の少女は困惑しつつも、それぞれ真刃の肩を掴んだ。


『真刃さま』


 真刃の傍らに控えていた刃鳥が、両翼を大きく広げた。

 赤蛇もぬいぐるみながらも、かなたの肩の上で牙を剥く。


「……ふん」ゴーシュが鼻を鳴らした。「ゆっくり会話もできないとはな」


 真刃は、嘆息する。


「仕方があるまい。ここでは我らの方が不法侵入者なのだからな」


「おいおい。久遠よ。それを言うのなら、奴らの方は不法占拠者じゃないか」


 言って、ゴーシュは、最も巨大な女性の肖像画に目をやった。

 真刃も、エルナとかなたも同じ場所に視線を向ける。


「……え?」


 かなたが目を剥いた。

 絵の中の女性は、微笑んでいた。

 先程までは表情などなかったというのに。

 その直後、


 ――ケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタケケタケタケタケタケタケタケタケタケタケタ。


 女性の絵が、大口を開けて笑い出した。

 それに呼応するように、周囲の絵画からも声が響いた。


「な、何これ……」


 エルナが怯えた様子で、真刃の肩を強く掴んだ。

 かなたは無表情だが、それでも無意識からか、真刃にしがみついている。


「さて、と」


 そんな中、真刃は笑う。


「いよいよ決着をつけようではないか」

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