第9話 保護者面談②
『私が憎い? かなた』
ベッドに座って母は言う。
生前の父がよくしてくれたように、かなたを膝の上に乗せて。
『憎いよね。私はお父さんを裏切ったのだから』
幼いかなたは、ブンブンとかぶりを振った。
悪いのは母ではない。これは仕方のないことだった。
父は《
だから、代わりに母は、あの男に隷者になるよう命じられた。
むしろ、あの男の狙いは、最初から母だったのかもしれない。
十代後半でかなたを産んだため、六歳になる子がいるとは思えないほど、母はとても若く美しかったからだ。
母は毎日、夜になると、あの男の元へと赴いた。
そう命じられているからだ。
時には朝に出かけて、そのまま丸一日、戻ってこなかった日もあった。
あの男が、母に何をしているのか。
幼かったかなたには、よく分からなかったが、きっと辛いことなのだろう。
戻ってきた母はいつも酷く疲れており、かなたが呼びかけても応えてくれない。
ただ、苦痛に耐えるように口元を強く結んでいた。
それが、母にとって父を裏切るような行いなのかはよく分からない。
けれど、やはり仕方がないと思う。あの父をも倒した恐ろしい男に命じられては、どんなことでも応じるしかないのだから。
『母さまは悪くない』
だから、かなたはそう告げた。
『違うの。違うの』
すると、母はかなたを抱きしめて泣いた。母の細い肩が震えている。
『本当はあの人の仇を取るつもりだった。実は何度もそうしたの。残されるあなたがどんな目に遭うかなんて分かりきっているのに』
『……母さま?』
『けど、ダメだった。あの男はずっと遊んでいた。わざわざ私の《制約》まで外して。なのに殺せない。何度も何度も失敗して、その度にあの男は私を……』
母は、ボロボロと泣き始めた。
『今日もやっぱり失敗して、罰と称して散々愛撫されて、焦らされて、私はとうとう自分からあの男を求めてしまった。あの時、私はあの人のことを忘れてしまったの。そんな私を見て、あの男は満足そうに笑ったわ。そして……』
母は、両手でかなたの頭を抱きしめた。母の長い黒髪が、かなたの頬に掛かる。
そこで、ふと気付く。三ヶ月前。この館に来た時に、母とかなたに着けられた赤いチョーカーが、母の首元からなくなっていることに。
これは文字通りの首輪だ。かなたたちが叛意を抱けば身につけた衣服を操って拘束する。衣服を身につけていなければチョーカー自体が喉を絞める。そういう呪いだ。
それが母の首元からなくなっている。
『私は、もうダメ』
『……母さま?』
『もうあの男を殺せない。私の心は完全に屈してしまった。彼からもう離れられない』
『……母さま……』
そんなことはないと、告げようとした時だった。
コンコン、とドアがノックされる。母が緊張した面持ちで『どうぞ』と告げると、執事服を着た男が入ってきた。フォスター家の執事。分家の引導師だ。
『ご当主さまがお呼びだ』
男は、苦笑じみた笑みを見せる。
『今日は「記念日」として、もう一度、お前を堪能するそうだ』
――隷者の義務は、一日一度だけと約束したはずです。
いつもの母なら、凜とした表情でそう返すのだが……。
『ゴ、ゴーシュさまが? は、はい。すぐに参ります』
母はベッドの横にかなたを降ろすと、熱病に浮かされたようにふらふらと歩き出した。
よく見ると、母の胸元が汗ばみ、白い肌が火照っているのも分かった。
娘の視線に気付き、どこか陶然としていた母の顔が済まなさそうに歪む。
だが、足取りは止まることなく、ドアへと向かっていた。
『……かなた』
そんな中、せめて一瞬だけでも母親の顔を見せて。
『あなただけでも、いつか自由になって』
母はそう告げた。
それからの母は、徐々に、かなたよりもあの男の傍にいることが多くなった。
かなたは、フォスター家に敗北した家系の者として、分家や他の配下たちに混じって訓練を受ける日々を過ごしていた。その頃には、母とは滅多に会わなくなっていた。
母を見かけるのは、あの男の近くにいる時だけだった。
あの男の傍らで佇む母は、娘の目から見ても、驚くほどに美しくなっていた。
身に纏う豪華なドレスだけではない。女として、彼女は生気に溢れていた。
それこそ、父が生きていた頃よりも、遙かに美しく、生き生きと。
かなたは、黙って、そんな母の姿を見ていた。
けれど、そんな日々は唐突に終わる。
五年前のある日。母が交通事故で帰らぬ人になったからだ。
かなたは、本当に一人になってしまった。そして、母の庇護をなくした彼女は、生き延びるため、フォスター家の役に立つことを示さなければならなかった。
牙を研ぎ、牙を隠し、感情を殺して自由になるチャンスを窺っていた。
だがしかし。
とある仕事にて、父を殺し、母を屈服させたあの男の、常識外の圧倒的な実力を初めて目の当たりにした時、心が折れてしまった。
――こんな怪物から、逃げれるはずがない。
絶望したかなたは、すべてを諦め、フォスター家の道具として生きることにした。
そうして、任されたのが今回の任務だというのに。
「………」
ベッド以外、ほとんど物のない殺風景な部屋。
かなたは、固定電話の受話器を取った。
そして――。
『……何だ?』
威圧的な男の声が響く。
「……ご当主さま」
かなたは、告げる。
「申し訳ありません。トラブルが発生しました。ご報告したいことがございます」
……――数日後。
空港のロビーにて、かなたは、とある人物の到着を待っていた。
大勢の客が降りてくる。かなたはその流れを、視線を変えずに見つめて、
「……………」
無言のまま、恭しく頭を垂れた。
「……ふん。ここが日本か。初冬だというのに存外日差しがキツいな」
白いスーツにサングラス。手にはトランクケース。
年齢は三十代前半ほど。身長は百九十センチを越える。銀色の髪と顎髭、服の上からでも分かるほどに筋骨隆々なその男は、サングラスをずらして、かなたを凝視した。
「……かなたか?」
「……はい。ご当主さま」
「お前と会うのも四年ぶりか。存外美しくなったな。見違えたぞ」
「光栄です。ご当主さま」
銀髪の大男はトランクケースを片手に歩き出す。かなたもその後に続いた。
「俺は三日しか滞在できん。面談は今日の夕刻だったな?」
「はい。お忙しいところ、申し訳ありません」
「構わん。妹を教育するのもまた兄の役目だ。それと、お前の報告にあった
「はい。担任教師からそう聞いております。ですがまだお嬢さまが隷者になったとは……」
「ふん。甘いな。エルナはその男ともう半年以上も同棲しているのだぞ。すでに手遅れだな。まったく。何のためにお前をつけたのやら」
男は、サングラスの下の蒼い双眸を細めた。
「とは言え、卵ではなく本物の引導師相手では仕方がないか。フォスター家の直系の娘に手を出すなど大家の者なら避けるのだが、在野とは盲点だった」
そこで足を止めて、かなたを見やる。
「かなた。前髪を上げてみせろ」
「はい」
かなたは前髪を片手で上げた。黒曜石のような瞳がはっきりと現れる。
男は「ほう。これは想像以上だったか」と呟いた。
「もう下ろしても宜しいでしょうか?」
「ああ。構わん。しかし、お前は本当に美しくなったな。母にも劣らんぞ」
「……恐縮です」
表情を変えずに、そう返すかなた。男は「ふむ」とあごに手をやる。
「お前は、まだ男を知らんのか?」
「……はい」
「ほう。それは良いことを聞いた。よし。決めたぞ」
男はニヤリと笑った。
「今回の騒動の罰だ。今夜、お前と《
「…………」
数瞬の沈黙。かなたは微かに目を見開き、静かに喉を鳴らした。
ドクン、と心鼓動が跳ね上がる。
だが、感情が揺らいだのは、その一瞬だけだった。
――やはり、母同様に自分もこの男からは逃げられない。
そう思い、かなたは瞳を閉じた。
「返事はどうした?」
「……はい」
そして、すべてを諦観し、彼女は「承知しました」と頷いた。
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