第四幕 滅びの運命 E
「はっ?」
小さい。
予想していたよりもはるかに小さい。
というかそれは、狂太郎の膝ほどの高さしかない生物。つまるところ、ただの子犬だった。
「た、ただの子犬……?」
狂太郎の臆病を笑いに来たかのような、愛らしい柴犬である。いわゆる豆柴というやつか。
「な、なんだよびっくりさせやがって……。子犬なんてものに俺はビビってたのかよ」
狂太郎はため息を吐き、地面へと目を落とした。これからまた張り込みを続けなければという陰鬱な思いが浮かぶとき――
「ガルルルルルルルルルルルルル!」
豆柴がその愛らしい容姿に似合わない荒くれた鳴き声で吠えた。思わず狂太郎は顔を上げる。そして、豆柴の身体を見ると……
「わ、わ、わ……」
狂太郎はヘンな夢でも見てるんじゃないかと一瞬思った。だが、これは現実である。
目の前の豆柴が、なんと、巨大化していたのだ。
幻覚のように巨大化した犬。全長は2メートルほどとなり、犬というより、オオカミのようであった。しかし現代の日本ではオオカミは絶滅している。
じゃあいったい、目の前の怪物は何者なのか……。
(まさかこれが、俺たちが待ち焦がれていた暴漢の正体……)
その暴漢の正体は、美少女でも、異常者でもなく、人間でもなかった。それは突如巨大化した、オオカミの怪物であった。
怪物、そんな存在と狂太郎は渡り合わなければならない。
(だがまぁ、怪物だろうがなんだろうが、魔王の娘に比べたらなんでもないな)
だが、狂太郎は天才だ。
そしてリリスという魔王の娘を倒した経験があるため、異形のモノに対してわずかながら耐性があった。もしかしたらこうなるのかも――と、ある程度は予想していたのだ。
もしかしたら勇者でも現れるのかと期待していたのだが。
(あんなの、ただのイヌッころだ。どうにでもなる)
狂太郎は心の中でその異形を鼻で笑う。そして――
「やあやあやあ、夜分遅くにようこそ巷で噂の暴漢さん。俺は市民の平和を脅かすため、学校の平和を脅かすため、お前を血祭りにあげて英雄になってやる! そして支持率急上昇だ!」
「ガルルルルルルルル!」
大きくなったケモノは、鼓膜を突き破らんばかりの声で吠えた。
「こらこら、そんなに吠えたらご近所に迷惑だ。そんな迷惑な犬には制裁が必要だ!」
そう言うと狂太郎は、学ランポケットから“銃”を取り出した。
“銃”と言っても、それはプラスチック製の水鉄砲なのだが。
「さぁて、今宵はこの悪魔に見初められた狂太郎さまが、大魔王を喚び出してやろう!」
そう言って、狂太郎はロシアンルーレットするみたいに、こめかみに水鉄砲の銃口を当てた。神妙な顔で――目をつぶる。
「ぺ、る、そ、なっ……!」
「ニャぁあああ――!」
魔王が、召喚された。
闇に紛れていた黒いコートを脱ぎ捨てて、リリスはオオカミの前へと現れる。コートを剥いだリリスの身体には、狂太郎と第三種接近遭遇した際に見せた黒いローブと赤マント、骸骨の首飾りを纏っていた。あのときの服は鼻をつく異臭を放っていたが、狂太郎の念入りなドライクリーニング、ファブリーズによりいくらかマシになっている。
「呼ばれて飛び出てにゃにゃにゃにゃーんなのニャ! ワガハイは魔王になるオトコ、狂太郎の下僕であるリリスなのニャ! オヌシのような不届きもの、ワガハイが倒してやるだニャ」
「ガルルルルルルルル!」
「……えーと、その前に質問」
狂太郎がすっと手を挙げる。
「リリス、あのオオカミはなんなんだ?」と狂太郎は問うた。
「ニャー、あれはワーウルフだニャ」
「……なんで剣と魔法のないこの世界にワーウルフなんかいるんだよ! ニホンオオカミは絶滅してるんだぞ!」
「わ、ワガハイも分からないニャ、どーしてアンゲロス大陸のワーウルフがいるのかニャ!」
「アンゲロス……って、お前のいた世界か」
リリスのいた世界。その魔物がこの世界へと転生してきた。
それは至極荒唐無稽の話のように思えるが、しかしリリスという前例を加味すると“ありえない”話ではない。
「お前のにおいを嗅ぎつけてやってきた仲間……それとも刺客か?」
「わ、わからないニャ。あんな仲間はパパの下僕の中にもいなかったはずだニャ」
「じゃあ、なんだってんだよありゃ」
「ガルルルルルルルル!」
狂太郎たちにしびれを切らしのか、オオカミは飛び掛かる。その目ははっきりとリリスを捕らえている。
(やっぱりリリスが目的……)
なにせ大魔王の娘だ。あんなものに縁があると言えば、リリスしかいない。ならばなぜリリスを狙うのか――
(ま、まぁ何でもいい! こっちにゃ好都合だ。暴漢の正体は絶滅したオオカミってことにすりゃ、倒した後のインパクトは大きいハズ!)
狂太郎は無理やり前向きな思考となって、襲われそうになるリリスを見据える。
「リリス、やってやれぇ!」
「にゃあ!」
狂太郎の命を受け、リリスは喉笛目がけて駆けてくるオオカミのあごに向かてクロスカウンター。その小さな矮躯からでは考えられないほどの鋭い拳でオオカミをぶっ飛ばした。
「アォンッ!」
不意を突かれたオオカミは放物線を描いて地面へと叩きつけられる。
「ガルルルルルルルル!」
しかし、オオカミはすぐさま立ち上がる。そう簡単には瀕死になってくれないようだ。
「リリス! 相手が魔物だってんなら、出力を絞る必要はねぇ! 思いっきりやってやれ!」
「にゃ、にゃあー」
なぜか、会心の一撃を放ったリリスは汗を額に浮かべて調子が悪そうである。
「どうしたリリス、顔色が悪いぞ……」
「きょ、キョータロウ……わ、ワガハイ、なんだか……」
「なんだか……?」
「お腹が空いてチカラが出ないニャー」
「お腹が…………って、お前の胃袋は宇宙かよ!」
たったあれだけの攻撃で空腹を訴えるとは……。
「バッカ野郎! 根性出せよリリス!」
狂太郎は飲みすぎると死ぬと言われる栄養ドリンク『デスブルー』をリリスに投げ渡す。リリスはそれをキャッチするとプルタブをプシュっと起こし、それを煽るように飲む。
「うニャー、元気百万倍!」
「さぁて、たったととどめを刺そうぜ」
オオカミは荒い息を漏らしながらゆっくりと四足で起き上がろうとしている。叩くなら今だ。魔王さまに卑怯も姑息も詭道もない。
狂太郎は魔王――というより、軍師となった感じでリリスに命を下す。
「リリス、10万ボルトだぁ!」
「りょーかいだニャ。『遠雷、招雷、雷霆下せ! 紫電礫(ライザー)』」
リリスはポケットのモンスターよろしく、その身体から雷を放出する。科学的におかしくとも、リリスの攻撃は魔法なので突っ込むべきではない。
ただ、雷の弾が空気を絶縁破壊して一直線に突き進む――
とはいかず。
「……なにゃ?」
「は……」
リリスの突き出した手から――1ボルトほどの電気も放出されず。ただ、いたたまれない沈黙の空気があたりを制圧していた。
「おい、どうしてリリス。なんで魔法が出ないんだ! 呪文を間違えたのか?」
「ち、違うニャ。ワガハイ、この世界に来てからすっかり忘れてたニャ」
「なにを」
「わざののこりポイントがない! にゃ……」
「どういう事なんだぁ!」
「RPGでいうところのMP《マジックポイント》切れ、つまり魔力が切れちゃったのニャ」
「な、魔力だとぉ!」
狂太郎はオーバーに驚いている。
「ワガハイの使う魔法には、魔力が必要だニャ。魔力は有限で、ちゃんと貯めておかないといつかはすっからかんになってしまうニャ。どうりで最近、食べても食べてもお腹いっぱいにならなかったり、けだるかったりしたんだニャ」
「なんでこんな時に見計らったように魔力切れなんか……!」
「ニャー、たぶん魅了の魔法で、使いすぎちゃったニャ」
「くそぉ、あの魔法のツケが回ってきたってのかよ! ああもう、今はわめいている場合じゃない! お前の魔力ってやつはどうやったら回復するんだ! エリクサーか!」
「食べ物や飲み物じゃ回復できないニャ。なにか魔力の流れる物や場所に行けば回復が……」
「リリス!」
リリスがこてんと、前のめりになって地面に倒れ込んだ。
狂太郎はワーウルフを目に入れず、ただただリリスのもとへと駆ける。
「しっかりしろリリス! まさか魔力切れで疲労したのか!」
「そんなところだニャ。メンボクないニャキョータロウ、ワガハイ、もう魔法が使えないニャ。これじゃーワガハイはただのイエネコニートだニャ」
「前からずっとそうだったろうがよ。まったく……」
狂太郎はリリスを怒る気になれなかった。なにせリリスはなんのかんの言いつつ、狂太郎のために力を振るってきたのだ。
生徒会選も、そして今も。リリスなくては今がない。
(こんな俺のために……)
狂太郎は弱弱しく唸るリリスに目を落とし、胸が締め付けられる思いに駆られる。
だが、感傷に浸ってばかりはいられない。
「ガルルルルル……」
「あっ……」
狂太郎の怠惰のツケを突きつけるかのように、ワーウルフは吠えていた。今の狂太郎は絶体絶命である。頼みの綱の最終兵器幼女たるリリスは『MPがたりない』魔力切れ状態である。
残ったのは、体育の成績2の狂太郎だけである。
「わ、わんちゃーん、ほらほら落ち着いてぇー。おすわり、お手、チンチン!」
「ガルルルルル!」
「ぎゃああああ! 助けて天国のかあさぁーん!」
もはや狂太郎は天に“いのる”しかない。
目の前のワーウルフはクラウチングスタートとする陸上選手みたいに後ろ足を曲げて、ロケットスタートの準備をしている。足が地面から離れたとき、狂太郎の身体はR15指定のエグイ状態となってしまう。
涙目を浮かべる狂太郎の瞳の中――に映る、ワーウルフはしかし、狂太郎を見つめていなかった。
(あいつ……)
ワーウルフは狂太郎なんか目に入れてなかった。ただ、狂太郎の腕の中で眠るリリスに狙いをつけていた。
そもそも、狂太郎は数々の小ずるいことをしてきたが、人に殺されるような悪行はやっていない。おおむね善良な一般人なのだ。
対するリリスは――魔王の娘。
善良な一般人と魔王の娘、狙われるとするならどちらか。そんなこと、知能指数の低いケモノでもわかることだ。
(つまり最初っから狙いはリリスで、俺は……無関係?)
つまりさんざん涙目になっていた狂太郎であったが、命の危険はあまりないそうだ。
報告のあった暴漢の被害者も殺されていないのだ。前の被害はなにかしらの誤解があったのかもしれないが、暴漢もといその正体であるワーウルフの狙いはただリリス一匹であったのだ。
そういう話なら、狂太郎はただこの場から離れるだけで――生き延びられる。
「…………」
人間、追いつめられると保身に走りたくなるものだ。
なんやかんやいって自分が一番カワイイのだ。命を脅かされることのない、この日本でぬくぬくと育ってきた狂太郎ならそう思うのがふつうである。
こんなこと、一般人が関わるようなことじゃない。だから目を背けろ。忘れろ。ただそれだけでいい。ただそれだけで、自分の命は助かるのだ。
「でも……」
その代わり、リリスの命が――
「キョータロウ、ありがとうだニャ」
「はっ……」
保身ばかり考えていた狂太郎に、なぜかリリスは感謝の言葉を告げる。なぜかそれが、別れの言葉のようにも聞こえた。
「ワガハイは、パパとママのように殺される運命だったニャ。この世界に居ちゃいけない存在だったニャ」
「そんなこと……」
「ワガハイは魔王の娘。だから、キョータロウに迷惑をかけてしまうニャ。そんなこと、聡明なワガハイはずっとわかっていた。でも、ワガハイは子供だからついついキョータロウに甘えちゃったニャ」
「……お前は子供だか大人だか、時々わかんなくなるよ」
「ワガハイはまだまだ子供……だったニャ。あんなワーウルフ、全盛期のワガハイなら小指一本で倒せただろうに……」
「全盛期とかジジ臭いこと言うなよ。どこのスポーツ選手だお前は……」
険しい顔の狂太郎。なぜか笑顔のリリス。二人はいつものように顔を付け合わせている。
「キョータロウ、ワガハイを置いて逃げるニャ」
「な、なに言ってんだよお前は!」
「ワガハイはキョータロウの下僕だニャ。だから、ワガハイは命を人身御供してでもキョータロウを守らなきゃならないニャ」
「こんな時にカッコイイこと言いやがって! そんな言葉でいままでのぐうたらを帳消しできると思ったら大間違いだぞ!」
「ニャー、キョータロウとの生活、短かったけどとっても楽しかったニャ。ずっと、こんな日が続けばいいと思っていたニャ」
「お前なに死亡フラグポンポン苗植えるみたいに立ててんだよ!」
「ここでタバコを吸うのがお約束だニャ」
「もう死亡フラグは立てんなよ!」
狂太郎とリリスのやりとり。そんないつものめちゃくちゃを、なぜかワーウルフが静かに眺めていた。ただ、目の先はずっとリリスに向かっている。
「このやろぉ、そんなにこのリリスが欲しいのかよ犬公が!」
「ガルルルルルルルル!」
いよいよ、ワーウルフは牙を剥く。それは狂太郎に対する最後通告。逃げなければ、お前も巻き込まれる。ケモノのくせになぜか相手は理性的である。
「わけがわかんねぇよ! 魔王の娘だか何だか知らねぇが寄ってたかってリリスをイジメやがってよぉ! リリスが一体何をしたっていうんだよ!」
父を殺され。母を殺され。一人異世界へと落されたリリス。
その独りぼっちのリリスと出会ったのは――狂太郎。
狂太郎はリリスと同盟を結び、『世界征服』を誓った。そんな盟約、法的効力もない。狂太郎が守る義理もないのだ。プラグマティズムな狂太郎が、命を擲ってでも守るものでもない。
だけど――
「ガウッ!」
ワーウルフが後ろ足を発条にして発進。弾丸のようにそれは飛ぶが、狂太郎の目が見る世界は火事場のバカ力でゆっくりと処理されるようになる。
その瞬間、ただ狂太郎は自分の心に従った。
ぎゅっと、リリスを握りしめる。
「きょ、キョータロウ!」
ただ、あったかかった。その小さな猫耳で無邪気な黒髪は。どこか莉々と似ていて、まったく違うそれは、狂太郎の心を震わせた。
リリスを抱き留め狂太郎は脅威のスピードで走った。走ったというより、それはもつれた足を引きずったような無様なものだった。数歩歩いた後狂太郎は足を絡ませて地面へと滑り込む。
狂太郎の数ミリ先の地面を――ワーウルフが通り過ぎた。
「か、神回避だぜっ……」
「キョータロウ! なんで、なんでワガハイをかばうのニャ! ワガハイを守ったところで、もうワガハイは魔法が使えないニャ」
「黙ってろ猫ヤロウ!」
リリスの耳を狂太郎は二本の指で押さえた。
「キョータロウ、そんなにもワガハイのことを想って……」
リリスはとろんとした目で狂太郎を見つめた。のだが……。
「は? バカ言うなっての。俺は愛とか友情とか、そんなもんに振り回されねぇぞリリス、お前には借金を返してもらわなきゃなんねぇからな。俺と過ごした家の家賃、光熱費、電気代、食費、俺への迷惑料、その他諸々……全部合わせて一億だ!」
「た、高すぎるニャ!」
「全部返してもらうまで、俺はお前を返さないぞ!」
狂太郎はリリスの手を取った。罪人を捕らえる手錠のように。
「お前は俺の大切な下僕であり、最終兵器幼女だ!」
「もーちょっとカッコイイ名前にしてほしいニャ」
「っるせぇ! とにかくだ、俺はお前を守ってやる。俺はお前が必要だ」
「キョータロウ! ワガハイもキョータロウなしでは生きられないニャ! ニボシの次にキョータロウは大切だニャ!」
「俺はニボシ以下かよ。まったく、俺たちゃ締まらねぇな」
「にゃっはっはっはっは!」
「はっはっはっはっはっは!」
狂太郎たちは邪悪な笑い声をあげた。そう、狂太郎は善良な一般人なんかじゃない。天才であり、そして“魔王”になる男だ。
「さぁかかってこいワーウルフ野郎! 俺たち最凶タッグがお前をフルボッコにしてやる!」
力もなく、魔法もなく。その上策もない。それでも狂太郎とリリスはすでに勝負がついたかのように笑っている。
その異様な笑い声に、ワーウルフは……
「オマエたちは、いったいドウイウカンケイなんダ?」
「シャベッタアアアアアアアアア!」
たどたどしい口調であるが、ワーウルフは人語を発していた。
「な、なんでおもむろに言葉を……。俺はドリトル先生か!」
「ニャー、そういえばキョータロウの世界の生き物はみんな言葉を発しないニャ」
「そりゃしゃべるチンパンジーとか居たら怖えし……」
「ワガハイのいたアンゲロスでは、魔物の場合、人語を話せることもあるんだニャ」
「ワタシは魔物ではない」
おもむろにワーウルフが割り込んでくる。
「ま、またしゃべりやがった。なんだこのびっくり映像……」
「ワタシは魔物ではない、アンゲロス神の使い――マーナガルムだ」
「マーナガルムって……またファンタジーな名前だな」
「ニャー、どこかで聞いたことがあるニャ。マーナガルム、キョーカイの神の使いとして崇められているロウジンだニャ!」
「老人? いや、狼神なのか?」
日本でも狼というのは神の使いとして崇められていたりするものだ。それは異世界でも似たようなもので、マーナガルムのような巨大な狼は崇めざるを得ない存在なんだろう。
崇める――というより畏怖の念というものがあるのだろうけど。
「ワタシは神の使いであって神で非ず。ただの狼だ」
「ただの狼がそんなに大きくないだろうが……」
「ワタシは教会の命を受けて、この異界の地に降りたのだ」
不真面目な狂太郎たちとは反対に、事務的にマーナガルムは話す。
「ワタシは、言うなれば教会の犬だ」
「犬って……狼が犬なんか言ったらややこしいじゃねぇか」
「この世界の人間には理解しにくいかもしれないが、教会はアンゲロスの安寧を脅かす存在を排除する仕事を行っている」
「俺たちの世界でいうところの、エクソシスト的なものか」
「それの軍隊版と思ってもらっていい」
「どうしてこう、お前たちの世界のやつらはすんなり日本語をしゃべれんだよ……」
言語の壁がないのはいいことだが。どうもしっくりこないものである。
「まぁ、この世界の言葉は広辞苑で調べて……」
「その身体でどうやって広辞苑を! よく捕まんなかったな!」
狂太郎の絶叫のツッコミに、マーナガルムはすまし顔である。
「で、とにかくワタシは教会に所属する犬だ。その犬の使命として、ワタシには魔王討伐の任が下されていた」
「魔王……ねぇ」
「パパ……」
「魔王は教会の代表である――“勇者”に倒されたのだがな」
つまり教会は“勇者”の組織である。魔王と敵対する、正義(笑)の組織。
そいつらがリリスの父親を、魔王を倒した。そしてマーナガルムはその教会の仲間だそうだ。
「ワタシは教会の命を受けて、『次元の水晶』でこの世界へ降り立った」
「訊くまでもないが……。結局のところ、お前の目的はなんなんだよ」
「魔王の娘の――抹殺だ」
狂太郎は思わず噴き出した。噴き出すべき場面でない――ゆえに、なぜか笑わずにはいられなかった。
「魔王の娘を追っかけてここにやって来ただぁ? おいおい、お前の世界の教会ってのはどうなってるんだよ! 魔王の娘を倒したいなら、フツーに勇者さまが来ればいいじゃねぇか。なーんで犬っころなんか連れてきてんだよ!」
「『次元の水晶』は危険な魔具でな。ちゃんと“魔王の娘”のいる世界に行けるかどうかの確認のために、ひとまずワタシが送り込まれたというわけだ」
「有人ロケットは危険だから、ミスってもいいように宇宙犬で実験する……みたいな話か?」
「おおむねそういう感じだ。しかしワタシには魔王の娘の抹殺の任が下されている。ワタシが魔王の娘を抹殺できさえすれば、勇者さまの手を煩わせずに済む」
「なんにせよ、お前は俺たちの“刺客”ってわけか」
狂太郎はフンと鼻を鳴らす。
「ややこしい話はどうでもいい! とにかくリリスに手をかけるってんなら俺はお前に立ち向かってやるぜ!」
「……どうしてだ」
「は?」
「どうしてお前は、魔王の娘の肩を持つのだ?」
それは当然の疑問である。
「はっ、そんなの決まってんじゃねぇかよ! そのほうが面白いからだよ!」
「…………」
「魔王を倒すRPGなんてマンネリなんだよ! 勇者が正義とか自分の価値観他人に押し付けんなって話だよ! その勇者ってのが社会主義者なら、はたして本当の正義かって話だよ!」
「キョータロウ……」
狂太郎の荒唐無稽な物言いに、マーナガルムは表情を変えない。
「まさか、こんな物好きに魔王の娘が飼われていたとはな……」
「けっ、物好きで悪かったよ」
「しかしお前は……本当に魔王の娘の側に付くというのか?」
「ああ。全人類が敵になろうともな!」
「ならば……その娘のせいで、お前の世界が滅んでも構わないというのだな?」
「はっ?」
狂太郎は一瞬呼吸を止めた。
「世界が……滅ぶって……」
「文字通りの意味だ。その娘がこの世界に居座れば、やがてこの世界は地獄と化すだろう」
マーナガルムは淡々と述べた。
「ば、バカ言えよ。たしかに俺たちは世界征服を望んでる、だが別に世界滅亡なんか望んでねぇよ。そんなことしたら、そもそも俺たちが健康で文化的な生活を受けれねぇじゃねぇかよ。食いもんもロクに手に入らない、住居もない、人間が滅んでる、マンガもアニメもない世界を、リリスが願うと思うのか?」
「確かに、その娘は今は純真な子供だ。魔王の力を引き継いでいるが、その邪悪さは“まだ”現れていない」
「まだ……って、リリスが怪物にでも進化するってのかよ!」
「そうだ。魔王の娘は、魔王の血を受け継いだ存在。ゆえに、本能的に世界を滅ぼしてしまう。たとえ理性で押さえても、本能には抗えない。その魔王の娘は、世界を滅ぼすことが運命的に決まっているのだ。その娘の父、魔王ダチュラのようにな」
「なん……だって」
狂太郎は生唾を飲み込んだ。
「この世界の科学とやらでは、“遺伝子”という言葉があるが――」
おもむろにマーナガルムは言った。
「世界が違えど、ワタシとお前たちは生物の枠組みにある。それゆえ、遺伝子という情報が刻まれている。その遺伝子の、生命の設計図に従ってお前は生きている。好きなモノ、嫌いなモノ、そして、生命に備わる、絶対的に抗えぬ本能――に従っている」
いったい、マーナガルムはなにを言いたいのか。もったいつけた言い方に狂太郎はただただ腹が苦しくなる。
「魔王の血族には、『滅びの遺伝子(メア・ジーン)』が刻まれている。その遺伝子を刻まれた生命は、遺伝子的に、本能的に“世界”を滅ぼすことになる。物語の結末のように、それは決定されていることだ」
「は……」
狂太郎は呆けた声を上げる。マーナガルムの話であらかた理解はできている。だが、理解すればするほどに、リリスの顔を直視できない。
「世界を滅ぼす……。こいつが、遺伝子に従ってか……」
「ああ。いまはまだ、遺伝子のチカラは発動されていないが、その魔王の娘が“大人”へと成長したとき、遺伝子の力によって、理性を失って世界を滅ぼそうとするだろう。ちょうど私たちの世界、アンゲロスの“魔王”のようにな。このまま、魔王の娘を放置しておけば、やがてこの世界は魔王の娘によって滅んでしまう」
「そんな……」
「お前はそれでも、世界を天秤にかけても魔王の娘をかばい立てするのか?」
そう言葉を突きつけられた。
「ふざ……けるなよ! なにが“滅びの遺伝子”だ! カッコウが托卵で、他人のひな鳥を鏖するみたいに、リリスが本能的に遺伝子に従って世界を滅ぼすっていうのかよ! カエルの子はカエルで、魔王の子は魔王で――って、そんなこと……」
「これは事実だ。ワタシ、もしくはアンゲロスの人々は何百年にもわたって世界を滅ぼす“魔王”というのを見てきた。あいつらは、幼少の頃は案外ふつうの性格なのだが、成人すると悪魔に魂を売ったみたいに、恐ろしい存在になる。遺伝子故に抗えないんだ」
「くっ……」
「よいか、ワタシは親切心で言っているのだ。この世界がどうなろうと、ワタシの世界には関係ない。だが、魔王の娘をここで排除しておかなければ、この世界は滅んでしまう。見たところ、魔王の娘はおよそ110歳ほどだ。このままでは早くてあと1、2年で“滅びの遺伝子”が目覚めてしまう」
「…………」
「さぁどうする少年、世界か、その魔王の娘か。お前はどちらを救うんだ?」
「おれ……は……」
狂太郎という、世界の異端児のような存在に、世界の命運を託された。
笑いたくなる。腹の底から。心の底から。いったいぜんたいどうして、こうなってしまったのか。
ただリリスを助けてやりたかった。ただリリスと――一緒に居たかった。
このどこか妹に似た、破天荒で自由気ままで勝手気儘の覇王で魔王は、狂太郎の心の寄る辺となっていた。
世界征服。そんな自分の鬱屈した考えに唯一賛同してくれる存在。
そんな存在がいなくなったら、狂太郎はまた一人となる。
「キョー、タロウ……」
うつむいて黙っていたリリスが小さくつぶやいた。
「ワガハイは……なんとなく知っていたニャ。パパも自分の“ウンメイ”に苦しんでいた。そしてママも……いずれワガハイが、自我を捨てて完全なる魔王になることを恐れていた……」
「自分の遺伝子のこと……わかってたのかよ」
リリスは聡明だ。この世界の情報をすっかり吸収してしまうほどに。それゆえ、酸いも甘いも、良いも悪いも――すべてわかってしまう。
自分という、滅びの存在のことも、もとよりわかっていたのだ。
「やっぱり、ワガハイはこの世界にいてはいけなかったのかニャ……」
「な、なに言ってんだよお前……」
「ワガハイは嫌だニャ! ワガハイ、この世界に来て日は浅いけどこの世界が大好きだニャ! ごはんがおいしくて、いろんな食べ物があって、人がやさしくてあったかい。おもしろい娯楽がたくさんあって、泣けて、笑えて、愉快痛快だニャ! しかも誰も戦乱や飢饉で苦しんでいない。種族の争いも少なくともこの町にはなかったニャ。まるで楽園の世界で、ワガハイはこんな世界に来れて幸せだったニャ」
「リリス……」
「それもこれも、キョータロウがワガハイを下僕にしてくれたおかげだニャ。キョータロウはすごい男だニャ。ただでさえ面白いこの世界を、ほんとうに面白おかしくするために世界征服を企てて、ワガハイはキョータロウに救われたニャ」
「リリス……救われたのは俺のほうだ。俺は、ただのふがいない偏屈野郎だ……」
「キョータロウはたしかに偏屈かもしれないが、でも、とってもいいヤツだってわかってるニャ。そうでなきゃ、ワガハイのワガママを快く受け入れてくれないニャ」
「なに言ってんだよ……誰が、お前のワガママを快く受け入れるんだよ……」
「だからこそニャ。こんな幸せで、そしてサイコーの主のいる世界を滅ぼしたくないニャ。ワガハイはニンゲンが大好きだニャ。だから、ワガハイは……」
「ワガハイは……何だってんだよ」
そう言ったリリスは狂太郎の胸からゆっくりと這い出る。魔力切れとなり、ふらついた体のリリスはゆっくりとマーナガルムのもとへと向かう。
「ありがとうだニャキョータロウ。ふがいない下僕ですまなかったニャ」
「なにやってんだよ……お前!」
「こうするしかないニャ。ワガハイは、死ぬしか――」
その方法しかない。
世界と魔王の娘を天秤にかけた時点で、答えは出ている。偏屈の狂太郎であっても、自分が死にたいと思わないし、世界が滅んでもいいとも微塵も思わない。そもそも世界が滅んでしまえば“思う”こともできないのだ。
世界――地球一個と、ニンゲン70億人、そのほか有象無象が多量……。もしかするとこの太陽系も、もしくは銀河系、宇宙全体を指すのかもしれない。そのすべての“重さ”とリリスの命を比べてしまえば、考えるまでもない。
そう、考えるまでもない。狂太郎は――
「さすが魔王の娘、引き際も潔い――か」
リリスのもとに、マーナガルムがにじり寄る。
「魔王の娘、一食いでお前の首を食いちぎってやろう。恨むなら、己の運命を恨むがいい」
マーナガルムはパクリと口を開いた。
リリスは観念し、ぐっと目をつぶる。処刑人と罪人のいる空間。
こうして、魔王の娘はかわいそうにも殺されました。
めでたし、めでたし……。
…………。
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