4 入江にて
どこかでまた、大きく氷が砕ける音がした。それが頭の中でぐわりぐわりと反響する。
衝撃で海面がゆらゆらと揺れていた。ラピスは流氷に自分の「力の刃」である打刀を突き刺し、そこに体重をかけ前のめりになってその海面を空っぽの頭で眺めていた。
「おい、大丈夫か?」
隣にいるジルが、声をかけてきた。手にはあの薙刀がある。
「大丈夫、じゃ、ない……。」
ラピスはそのままずるりと流氷の上にべしゃりと倒れ込んだ。上着を通り越して腹が冷たい。
ラピスが先程薄氷の上に乗っかって氷が割れ海に落ちたのにも関わらず、こんな寝そべるという平気なことをしているわけはこの乗っている流氷があそこよりも比べ物にならないほどに分厚いからだ。
ラピスは流氷を自分が乗っていた氷くらいの強度か、それより少し硬いくらいかに思っていた。
実際はこうだ。
ラピスがしゃがみこんで海をながめても、ジルが流氷の上を走ってみても、シイナが大きく踏み込んでも流氷は欠けたりヒビ入ったりもしなかった。
何でもここの流氷はこの当たりでも一二を争う厚さらしく、少なくとも50センチはあるらしい。
シイナに簡単な割り方を教えてもらったが刀という細いものを使っているせいもあるのか、全くといっていいほど割れなかった。
氷を叩いてみても刃が少し突き刺さるだけで、衝撃が刀から手へ、さらに全身へと侵入してきてそのたびにラピスは悶絶していた。
さらに時折流氷が擦れあって耳を劈き体の芯がビリビリと揺れるような大地の悲鳴も鳴り響いた。
その慣れない不快な轟音もあってラピスの集中はあっという間に削がれて今に至る。
「冷たくないのか?」
「冷たいよ。氷だし。」
ジルが目の前に浮いていた少し小さめの流氷を叩き割った。明らかな力の差というのがあるのは百も承知だがなんとも簡単に目の前で割られるのでラピスは少し腹が立ってきた。
さらにその先にはシイナの姿がある。先程から流氷にあの重厚感のある鉈でせっせと割れ目を入れている。
その割れ目は一直線になっているようで、予定の数入れ終えたのかシイナはその割れ目の線の端に立った。
そして鉈をゆっくりと持ち上げて、一気に振り下ろした。
ガツンという堅い音がしたすぐ後に、バキッ、バキバキと割れ目に沿って流氷全体にヒビが広がっていく。
バキンと一際大きな音がして、流氷は一気に砕け落ちた。白い飛沫や流氷に積もっていた粉雪が舞い散り、ざああと海面が大きく揺れた。
砕かれた流氷はごぼごぼと不安定に浮き沈みをしばらく繰り返していた。
これがシイナ曰く、1番簡単な割り方らしい。大きな流氷も比較的簡単に割ることができるので大体の人がこれをしているとのことだった。
だが、ラピスはそもそも十分な割れ目を入れることも出来ない。シイナが砕いた氷をさらにちまちまと砕くのにもこの様であった。ああいうふうになんとか割れるようになるにはしばらく程遠いだろう。
シイナがゆらゆら揺れる氷の上を飛び跳ねて、ラピス達の方に向かってきた。
踏み台にされた流氷はふわふわと波にのって流されていく。小さいのは直ぐに流されてしまうので不安定らしい。
「大丈夫?休憩する?」
シイナが寝そべっているラピスを見下ろした。ラピスはむくりと起き上がって頷いた。
日はちょうど自分たちの真上近くに上がっている。だいたい昼手前といったところか。空はラピスのどんよりとした気分とは相反する小さな雲が申し訳なくあるだけの晴天だった。
3人は流氷の上を通り、陸にたどり着いた。陸から海を見てみると、最初見た時より流氷は砕かれ小さくなっていた。
「意外と結構割ってたんだな。遠くから見ないと気づかないや。」
「割ってる間は乗っかってるからね、流氷の上に。私もずっとやってるけどこの感覚は抜けないよ。」
小さく砕かれた流氷を眺めて、三人はちょうどいいかんじの岩に腰を下ろした。
シイナが置いてあった水筒を手に取って、軽い素材のカップにお茶を入れてくれた。
「あ、なんかいる。」
ラピスがお茶をすすりながら指を指した。指の先は海へと向かい、流氷の上で動く白い影を捉えていた。
ジルがしばらく目を細めて、じっと目を目を凝らした後に気づいたように声を上げた。
「ほんとだ。白くて同化してるから気づかなかった。」
白い影は四足歩行で氷の上を歩いて、何やら地面に鼻をつけてひっきりなしに匂いを嗅いでいる。
「あれはユキクマだね。」
シイナが二人に答えた。その言葉にジルの眉が動いた。
「シロクマじゃないのか?」
「うん。シロクマにしては大きいし……。ほら鼻の先も白いでしょ?」
シイナがそう言うと、ジルは確かにと、納得したように頷いた。
「シロクマ?ユキクマ?」
ラピスはぽんぽんと現れた二つの単語にはてなマークを浮かべていた。
それを見たシイナが説明をしてくれた。
「ユキクマはいま目の前にいるあれだよ。モンスターの仲間で鼻の先まで真っ白、シロクマは普通の動物でユキクマと似てるけど鼻の先が黒いよ。」
シイナの説明を受けて、ラピスは再び流氷の上を歩くユキクマを眺めた。
ユキクマは未だに地面をひっきりなしに嗅いでいる。
「あれは……まだ子供かな。親から離れたばかりの。」
「へぇ、あの大きさでか。」
ジルがぽつりとそう呟いた。
目の前のユキクマはここからでも、その体の大きさがわかった。だいたい3メートル弱といったところだった。
それを見てラピスが口を開いた。
「シロクマはもっと小さいのか?」
「うん。シロクマはあの大きさだったらもう立派な大人なんだよ。」
「へぇ…………それってやっぱりもんすたー?、だからとか?」
ラピスの言葉に、シイナは軽く感嘆したようだった。直ぐに「鋭い!」という言葉が彼女の口から飛び出した。
「動物にも私たちと同じように魔力ってのは流れていてね………普通だったら全然弱いよ。ほんとうにちょっとあるかないかくらいの。けど……」
シイナはさらに続けた。
「動物の中にはね強い魔力をその体に流していたりね、ちょっとした魔法が使えたりするのもいるんだ。それが「モンスター」や「魔獣」に分類されるよ。で、魔力ってのはやっぱり体の発育とかにも関係するらしくてね、モンスターは全体的に大きめになるらしい。」
遠くに見えるユキクマがとぷりと海に飛び込んだ。
そして、しばらくするとまた海面から顔を出した。のそのそと流氷の上に上がってくるが口に何か長いものを加えていた。
それをズルズルと引きずって歩いていく。
「ユキクマは大人になると4メートルくらいになるよ。けどそのわりに食べてるものは海藻とかで草食だよ。」
シロクマはシイナの言葉に答えるかのようにゆったりと流氷の上に座り込んで海藻を食んでいた。
どんどん黒く細長いものがその胃袋に収められていく。
「はぁ、意外だなそれ。」
「シロクマは肉食なのにな。」
シイナはこくりと頷いた。
「あと賢いから普通にしつけることもできて、この辺りでユキクマを飼ってる人は何人かいるよ。それに乗って移動したりもてぎる。」
「へぇ………。」
ラピスがユキクマの方を見た時、ユキクマは腹を満たし満足気に流氷の上に寝そべっていた。
「こんなに寒いのに生き物がいるのかぁ。あそこは全然だったのに。」
ラピスはそう言うと、残った茶を飲み干した。続いてジルが口を開いた。
「生き物ってのはその環境に適応してしまえばどこにだって住むことはできるさ。ただその適応してしまうまでが大変なだけ。要は慣れてしまったら、溶岩の中だって深海だって生き物は生きていける。」
「じゃあ、僕らもいずれそうなったりするの?水の中に住んだりとか。」
「それはどうだろうな………かなり時間かかるし人間は他の生き物よりは上手くは行かないと思うけど………。あ、でもこの辺りの人間は暑さには慣れてないとかならあるか。」
ジルは腕を組んでしばらく考え込んだ。たまにジルはこのようなラピスの質問に関しても案外付き合って考えてくれたりもする。
「シイナは暑いのは嫌い?」
ジルの言ったことを思い出し、ラピスは今度はやり取りを見ていたシイナに問いかけた。シイナは少し考えた後答えを出した。
「うーん……。まずこの辺はそんなに暑くはならないからどんなけ暑いかによるけど多分ダメだろうな………。夏はあると言っても普通に雪とかは残るくらいだから。ラピスちゃんはどうなの?」
「僕も寒い方が慣れてるかもしれない。」
ラピスが以前住んでいた荒廃都市があった所はほぼ砂漠のど真ん中に等しい。だが、基本なかなか気温は上がらず1年を通して乾燥はしているが涼しいところではあった。
どちらかというと温度が上がらないというよりは、だいたい1年を通して同じ気候という方が正しいのかもしれない。ラピスは冬や夏という季節の概念は知っていたがそれらしい気候というものを経験したことは無かった。
「そうかー。一緒だね。」
「そういや、傭兵はどうなんだ?」
「たしかジルは……出身はちょっと南の方じゃなかった?」
シイナがジルに尋ねるも、何かを考えていたようで反応が遅れた。慌ててジルが2人の方を見る。
「あ、悪い………。えーと…なんだって?」
「寒いのか暑いのかどっちが好きかって。」
「俺は………暑い方が楽、かな。」
ジルの言葉に対して、ラピスはふうんと返事をした。
そして理由を訪ねようと口を開いた時、ぎしぎしと氷が唸る音が聞こえた。その歪な音に三人は直ぐに視線をそちらに移した。
先程自分たちがいた所よりもさらに向こうにそびえ立つ巨大な白い柱が見えた。それがぐらりと揺れる。そして、ずぶずぶと藍色の海に沈みこんだ。
厚い氷が擦れ、再び大地が泣き叫ぶように雄叫びをあげる。先ほどとは比べ物にならなきほどの悲鳴にラピスは思わず耳を塞いだ。
耳をつんざく轟音は流氷や三人の体を大きく震わせ、海面を激しく揺らす。浜に零れた波が危うく三人の足元まで迫ってきそうだった。
「すっごい音………。」
ラピスが耳から手を離してぼそりと呟いた。耳の奥に未だあの悲鳴が残響する。ラピスがちらりと隣に立っているシイナを一瞥した。彼女の顔は眉間に皺を寄せ、険しいものだった。
「あれだけ大きいのは珍しいね………。」
海から雪をまいあげる冷たい風が吹き、三人を撫でた。何故か幾分冷たく感じられた。
ジルが巨大な流氷を指さした。
「あれも割るのか?」
「そう。………ああゆうのが本命、かな…。」
シイナの黒い鋸を握る手に力が入り、軽く冷たい空気を吸い込んだ。
あの大きさの流氷が流れてくる時はそこまである訳では無い。だいたいここにたどり着くまでに細かく砕けてしまったりする。
だが、元の流氷が大きかったり、条件が重なって崩れずに流れてくるとこういった大きさとなる。分厚く硬い氷はぶつかれば小舟はもちろん、中型船だって無事では済まない。
海は悲しいほどに冷たく酷く暗い。投げ出さればラピスの時ほどすんなりとは助けることは難しいだろう。
だから砕く。
流氷から船乗りを守る。それが「冬守り」の仕事だ。
「じゃあ、やってくるね。」
シイナはそう言うと、流氷の上に降り立ち駆けだした。彼女が踏み込んだ流氷が大きく揺れていた。たちまち駆けていく彼女の姿は小さくなっていく。浜にとり残された二人は黙ってそれを見ていた。
シイナが流氷の近くにたどり着いた時に改めてその流氷の大きさを知らされた。流氷は彼女の背丈の何倍もありその圧巻の存在感を知らしめていた。
果たしてどのようにこの白い柱を崩すのか。
シイナは走る足に力を入れ、流氷を踏み込んだ。シイナは流氷の上を飛び跳ねるように進んでいく。
そしてあの白い柱が目の前に迫る。シイナは流氷を力いっぱい踏み込み、上へと飛ぶ。その勢いを殺さず、上手く流氷の突起を足に掛け上へ上へと登っていく。
その姿は岸にいるラピス達にも見えている。
「すごい………。」
ラピスは思わず言葉を漏らした。その姿は彼女の柔らかな印象とは違う堂々として勇猛な確たるものだった。
シイナは流氷の頂上にたどり着くと、大きく飛び跳ねた。その際に巻き上げた氷の屑が輝く。シイナは身を捻って、黒く光る鋸を白い流氷に振り下ろした。
鋸が巨大な柱に突き刺さる。それとほぼ同時にびきびきと歪な音と共に亀裂が走る。
一瞬流氷が傾いたかと思うと、次にはばらりと砕けていた。氷の塊が海に向かって落ちる度に白い飛沫を作り上げた。
シイナは落ちていく氷を足場にして、その間を縫うように移動する。そこに無駄などは感じられない。
そのまま進んでいきシイナは落ちた中でもまだ大きな流氷に足を付けた。またそれを砕くつもりなのだろう。
だが、その時だった。
「あ。」
ここまでずっと黙って見てきたジルが声を発した。
ラピスは飛沫が視界をぼんやりと白く邪魔をして気づくのが遅れた。
シイナが足場にしようとして飛び乗った場所が突然ぼろりと崩れたのだった。
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