コーヒー・喫茶店・無声音
『ひも理論』という言葉を知っているだろうか。
宇宙ひもだとか、弦理論だとか、超ひも理論だとかという言葉を、テレビや雑誌などの媒体で目にした人も少なくないと思う。物理学をかじったことのある人間であれば、多少なりとも知っているのではなかろうか。
極めて簡単にこの理論について説明するならば、すべての物質は超微小なひものようなもの――『弦』で構成されているといった理論である。物質を構成する素粒子について、もっとシンプルな要素単体で説明できないだろうかと考えた末に提唱されたものだ。革命的かつこれまでの力学を根底から覆す、そして宇宙の謎を解き明かす理論だと信じ、数多くの研究者がこの『ひも理論』に取り組んできた。
この革命的な理論である『ひも理論』は、あくまで仮説のようなもの――机上の空論にすぎない。だからこそ、数多の研究者はこの理論が確からしいことを証明すべく、日夜研究に励んでいるのだ。
「すみません。アイスコーヒーをひとつ」
私も、その一人だ。
研究に行き詰ると、私は決まってこの喫茶店を訪れ、決まってアイスコーヒーをひとつ注文する。客も少なく、コーヒーを淹れる音とささやかなジャズミュージックだけが流れるこの空間は、凝り固まった頭をリフレッシュさせるにはもってこいなのだ。
落ち着いたピアノの音に、色気のあるサックスの音、それに五臓六腑に染みわたるベースの音。それらの心地良い音色と、ミルが豆を挽く音とが絶妙に混ざり合い、なんとも言えぬ心地良さを私に提供してくれる。耳だけでなく、挽かれたコーヒー豆独特の香りが鼻腔をくすぐり、木目調で統一された店内は目に優しい。五感すべてが幸せ、この喫茶店にはそんな良さがある。
耳・鼻・目と、あらゆる器官が心地よいこの空間ではあるが、その中でも特段私の好みなのは、やはり耳――ジャズミュージックだろう。ジャズと言えばピアノとサックスのイメージが強いが、それを引き立てているベースが私は特に好きだ。弦についての理論を研究しているからだろうか、弦楽器には思い入れが強いのだ。
「――ッ!」
微かに聞こえるジャズミュージックの、さらに微かなベースに聞き耳を立ててたその瞬間、私に天啓のようなものが舞い降りた。これまで袋小路であった研究に、一筋の光明が差すような、革新的な理論がふと思いついたのだ。
私が今突如として思いついた理論が確かならば、この『ひも理論』をさらにシンプルかつ正確に証明することができる。私を構成しているであろう数億数兆といった弦が一斉に震えるような、共鳴するような、そんな感覚に陥った。
「――――」
歓喜の声を上げようとしたが、興奮する体は言うことを聞かず、喉の奥からようやく絞り出せたような無声音のみを発するのが精一杯だった。ぶるぶると震える体を何とか抑え、私は懐から万年筆を取り出す。
降り注いできた天啓を、忘れないうちに書き留めておかねばならない。だが不幸なことに、私はこの万年筆以外何も持参してきてはいなかった。この喫茶店では研究については一切忘れてコーヒーを楽しもうと、書類や紙の類は持ってこないようにしていたからだ。
「――――」
餌を求める鯉のように口をぱくぱくとさせ、声にならない声を出しながら、私は何か紙の代わりとなるものを探した。そして目に留まったのは、飲食店には必ず置いてある紙ナプキンだ。
文字や数式を綴るにはいささか心許ない代物だが、背に腹は代えられぬ。私は急いでそれらを掴み取ると、目を見開き一心不乱で頭の中に思い浮かんだことを書き殴っていく。
「か、完璧だ……」
どれほどその作業は続いたことだろう。すべて書き終え辺りを見渡すと、いつの間にか注文したアイスコーヒーが机には置かれていて、コップの中の氷はすべて溶けてしまっていた。辺りを見る余裕も、ジャズミュージックを聞く余裕もなく、長いこと理論を書き留めることに没頭していたことが窺える。
「これは、物理史に残る大研究となるぞ。ははは」
すべてをやり終えた私は、満面の笑みを浮かべながらアイスコーヒーを手に取り、ゆっくりとそれを口に運んだ。大分ぬるくなってしまっているが、疲弊した頭をすっきりとさせるには充分であった。
ふぅ、と大きく息を吐いて、ゆっくりとコップをコースターに置く。
「どれ、書いた数式をもう一度見直すとしよう」
興奮した頭が幾分冷えたところで、再度机に視線を落とす。だがしかし、大量の数式を書く殴ったはずの紙ナプキンはそこにはなく、あるのは小さなコースターのみであった。
おかしい。あれほど大量にあった紙ナプキンがそこになく、しかもアイスコーヒーの入ったコップを置いたはずのコースターがそのまま置かれている。
「まさか――」
そう思い、つい先ほどコップを置いた方へ目をやってみる。
びしょびしょに濡れたコップの下には、案の定というか、大量の紙ナプキンが敷かれていた。どうやら、コースターと間違えて紙ナプキンの上にアイスコーヒーを置いてしまっていたようだ。
私は急いでコップを退け、紙ナプキンを確認する。
ひどく濡れたコップは、紙ナプキンに綴られた万年筆のインクを滲ませるのには、十分であったらしい。多くの時間を費やして書き殴った理論式も、まったく読めなくなってしまっていた。
「――――」
私の体は再度、弦のように震える。
もちろんその口から漏れたのは、声になっていない無声音であった。
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