夕日・文庫本・割れたマグカップ

「昔の人は面白いことを言ったもんでね。皆さん、『覆水盆に返らず』なんて言葉、ご存知ですかね?


これは昔、中国の太公望ってえ人がですね、奥さんに復縁を迫られた時にとった行動から生まれた言葉だそうで。復縁を迫られた太公望は、盆の上に水を持ってきてですね、あろうことかそれを地面にぶちまけたってんです。そしてこう言ったわけですな。


『この水を盆の上に戻す事は出来ないように、私たちの仲も元に戻る事は無い』


そこから、『一度起きてしまった事は二度と元には戻らない』ってえ意味の『覆水盆に返らず』という言葉が生まれたそうです。昔の人は、まあ洒落た断り方をしたんですねえ。


あたしの場合、機嫌を損ねちまった家内に『機嫌なおして』だなんて言った日にゃあ、もう色んなもんが飛んでくるに違いありません。この頬、見てくださいよ。大きくキズがついてるでしょお? これね、激怒した家内にマグカップを投げつけられたんですよ。その割れたマグカップがですね、頬を掠めまして。おお怖い怖い。


でもあたしゃね、この『覆水盆に返らず』ってえ言葉、あんまり好きじゃあないんです。だってそうでしょう? 世の中は取り返しがつかないことだらけだなんて、やっぱり寂しいじゃあないですか。


あたしは落語家の端くれですからね。何かをやらかしちまった時ぁ、笑いで取り返さなきゃあなって思うんです。こう見えてあたしゃね、『なぞかけ』が得意なんです。何かお題をいただければ、即興で答えてみせましょう。


……おやおや。今日のお客さんは恥ずかしがり屋さんばっかりだ。皆が皆、顔を真っ赤にして、だんまりでいらっしゃる。真っ赤な丸い顔がこちらを向いていますと、まるで夕日のようですな。


おお、ではじゃあ『夕日』をお題としましょうか。

夕日、夕日……。はい、整いました。


『夕日』とかけまして、『株価』と解きます。


……本来であればね、お客様に『その心は?』と言っていただくんですがあ、どうもそんな雰囲気じゃあないので、あたしが自分で言いましょう。かーっ、恥ずかしいねえこりゃあ。


ええと、ごほん。

その心は!


どちらも、沈むのは一瞬です。


……おや、あまり反応がありませんね。あまり上手いこと言えてなかったですかねえ。『夕日』とかけまして『ギャンブル』ととく、その心は、どちらも巡ってくるのは『ツキ』です――なんてのも思い浮かんだんですがね。あれ、これも面白くない?


でも先ほど言いましたよね、あたしゃ『覆水盆に返らず』って言葉が嫌いでね。やらかしちまった時は、笑いで取り返す主義なもんで。まったくへこたれませんよ。さあて次のお題といきましょう。


これまた皆さんだんまりだ、弱ったなあ。

ん? そこにいるのは、この前に芥川賞を取られた作家さんにインタビューをしていた記者さんですよね? いやあ、あたしは記憶力がよくってですね、『あなたにとって執筆活動とは?』なんてあなたがされた質問がやけに印象強くてですね、覚えているんですよ。


あの本、よかったですよねえ。さすが芥川賞を受賞されただけはある。あたしもね、あの作品読みましたよつい最近。文庫本になってましてね、お手軽に買えたんです。


そうだ。じゃあ次のお題は『文庫本』にしましょう。

文庫本、文庫本、文庫本……。はい、整いました。


『文庫本』とかけまして、『リレー競技』と解きます。その心は――


どちらも重要なのは、『安価アンカー』でしょう。


……あれ、これも駄目かあ。むしろ皆様方、その夕日みたいな顔をさらに真っ赤にしておられる。ぷるぷると震えてもいらっしゃる。この間の激怒した家内を思い出しますなあ。あの時も――」




「いい加減にしてくださいよ! 私たちはね、あなたの落語を聞きに来た客じゃないんですよ!」


「師匠、ベテラン女優の奥様と別居状態というのは事実ですか? その理由が、あなたの不貞行為によるものだという噂もありますが」


「つい最近、奥様とお話されたんですか? 割れたマグカップで怪我をされたのは、その時ですか?」


「何か言ってくださいよ! 笑いじゃあ、この不祥事は取り返せませんよ!」


「奥様とはどうなりますか? やはり離婚というかたちになるんですか?」



「ええ、ええ。記者さんたちの意見もごもっともだ。ではやはり落語家らしく、やはり謎かけでお答えしましょう。ごほん。『あたしたちの夫婦関係』とかけまして、『親不孝者』と解きます」


「……その心は?」



「どちらも、『盆にりません』。おあとがよろしいようで」

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