ブドウ・SNS・スナック
ここは場末のスナック、『ぶどう』。
今日も今日とて、飲んだくれの常連たちがやいのやいのと騒いでいる。
「ママ、梅酒をロックでちょうだいなー」
「明美ちゃん、シゲさんに梅酒ロックで入れてあげて」
「俺ァさあ、ママが入れた酒が飲みたいんだよ。10年以上『ぶどう』に通ってるけど、ママが入れてくれた酒飲んだことないよ」
あたしはこのくたびれた店で、くたびれたママをやっている。
もう30年くらいになるだろうか。年数を数えるのもめんどくさくなる程度には、『ぶどう』で来る日も来る日も酔っ払いを相手している。
「あたしゃ煙草吸うのに忙しいんだよ」
「かぁー、シゲさん駄目だよ。ママは絶望的な舌音痴なんだから。梅と間違えて何入れられるかわかったもんじゃないぜ」
「うっさいね、ほっといてよ」
酔っ払いたちと、いつものようにくだらない話をして、あたしも酒を飲み煙草を吸う。相変わらずの、変わらない日常だ。
「ところで、なんでこの店って『ぶどう』って名前なんですか?」
すると、常連シゲさんが連れてきた若い男の子があたしにそう尋ねた。
それを聞いた店中の誰もが、ピクリ、と動く。
「おいおい駄目だよ新人くーん。この話するとママったら長いんだから」
「そうそう、俺たちゃもう100回は聞いたあね」
常連や店のスタッフたちがやれやれといった表情をしている中、あたしは煙草の火を消し、カウンターを出て、男の子の隣の席へと腰かけた。
「知りたい?」
「え、ええ」
「そうねえ……、あたしの若いころの話になるんだけどね――」
あたしは再び煙草に火をつけて、若かりし頃に思いを馳せる。
初めて心から愛した、あの男。目を閉じると、今でも鮮明に思い出せる、あの優しい顔をしたあの男。
あたしは中学を卒業したのち、家を出た。
ただ都心に出る金も度胸もなく、東北のとある都市で年齢を偽りキャバレーで働いていた。
そんな時だ。彼に出会ったのは。
キャバレーの客としてやってきた彼は、あまり酒も飲まず、口を開くのも少なかった。後で聞いた話だが、酔った伯父に無理やり連れてこられたそうだ。
そんな彼の接客を担当したのが、あたしだった。
酒が回った彼は、あたしにぽつりぽつりと身の上話をし始めた。
彼は東北のとある企業の御曹司で、次期社長となる人物だそうだ。ただ彼は実家に嫌気がさしており、跡を継ぐのが心底嫌だということだった。
まあキャバレーで働いていれば、こんな客もいるだろう。
ただその日、あたしも大分酒が回っていた。そのせいだろうか、あたしも身の上話をつらつらと彼に語ってしまっていたのだ。なんてことはない、貧乏な大家族に生まれ、暴力的な父に苦しんでいたことを、だ。
互いに不満のある家庭について吐露したせいだろうか。酒が苦手な彼だったが、あたしに会うために足繁く店に通い始めた。そんな彼とあたしが親密な関係になるのに、時間はかからなかった。
『僕と駆け落ちしてほしい。あの家で飼い殺される生活はこりごりだ。明後日の深夜1時、港に来てほしい』
そう言われて、断る理由はなかった。
彼と二人、愛の逃避行。新天地で二人、幸せになる。あたしの頭にはそれしかなかったのだ。
期待と不安、その両方を胸に携えて、約束の時間、約束の場所へと赴いた。
そこに彼の姿はなく、紙袋がひとつあるだけだった。紙袋の中には、手紙が一通と、数えるのも憚れるほどの札束、それにブドウが一房入っているだけだった。
あたしは震える手で、手紙を開いた。
『申し訳ない。家族に君とのことがばれて、家から身動きが取れない。信頼できる友にこの紙袋を託した。君に届いてくれているといいのだが。僕が用意できるだけの金を詰めた。君はこれを持って東京に行ってほしい。必ずいつか迎えに行くから、僕の大好物のこれを目印に、どうか待っていてほしい』
「――ってことがあって、あたしは店を開いた。店に、彼の好物である『ぶどう』て名前をつけてね。まあ、もう数十年も前の話さ。あたしも諦めてるし、あいつだって生きてるかどうか」
話し終えたのは、ちょうど4本目の煙草を吸い終えた時だった。それを見て、周りは『お、終わったか、やれやれ』といった反応で再び酒に口をつけた。
「か、感動しました」
そんな周囲の反応とはうって変わり、若い男の子は目尻に涙を溜め、下唇を噛みしめている。
「きっと家から出られなかったか、そもそもあたしと一緒になるつもりなぞなかったか……。真相はわからず仕舞いだあね」
「きっと彼もママに会いたかったはずです、間違いありません」
若い男の子は、店中に響き渡る声をあげ、すくっと立ち上がる。
「まあまあ落ち着けよ新人くん」
「ママ、僕はママの最愛の人を信じます。絶対今でもどこかでママを探してるはずです。彼を探しましょうよ」
彼は店内の客や店員、そしてあたしに力説する。皆は酒や煙草に伸びる手を止め、視線を彼へと注いだ。
「で、でもどうやって」
「皆さん、SNSってご存知ですか」
「ああ、聞いたことはある。それが何だってんだい」
「要するに、世界中の人と繋がって情報を共有できるサービスのことです。ママの最愛の人に関する情報を全国の人に拡散して、なんとしてでも見つけましょう」
あたしたちは、目を丸くして男の子の話に聞き入っていた。
あたしが『ぶどう』を開いて彼を待ち続けて数十年。時代は大きく進歩したのだ。あたしはよく知らないが、現代ではネットを使った人探しなんかもできるのか。しかも、手当たり次第探すよりも効率がよい。
「い、いいよ別に。もうあいつとは――」
「でかした新人!」
「坊主!俺たちからも頼むぜ!ママのフィアンセを探してくれねえかい!」
「そうよそうよ、私たちからも頼むよ!ママの最愛の人、見つけておくれよ!」
やんわりと断ろうとした最中、店中はあたし一人を置き去りにして大いに沸き立った。もうこいつらの頭の中は、彼を見つけること一色になっているようだった。こうなったらもうこの酔っ払い共は止められない。
「ママ、やりましょうよ」
「……もう好きにしておくれ」
全てを諦めたあたしは、全てを彼に任せることにした。
半分の呆れと、半分の期待を胸に秘めて。
それから1ヶ月の時が流れた。
あの日から男の子から何の報告もなく、進展はせずやはり見つからなかったのだろうと、この話題事態を忘れかけていた。
「ママ、フィアンセが見つかったよ」
そんなある日のことだ。例の男の子が、開店と同時にやってきた。
あたしは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしたが、彼のばつが悪そうな顔を確認し、すぐさま冷静さを取り戻した。
「その反応からすると、もうおっ死んでたかね」
「……い、いや。実は今日、来てもらってるんだ」
その言葉を聞いたあたしが固まるのも束の間、男の子の後ろから、白髪の老人が姿を現した。
「あんた……」
「随分、待たせてしまったね」
見間違うことがあろうか。
この数十年、待ち焦がれた最愛の男。顔は皺だらけ、髪の毛は薄く白く、背中は曲がっているが、間違いない。彼に違いない。
吸っていた煙草を投げ捨て、あたしは彼のもとへと駆け寄り、膝から崩れ落ちた。
「あんた……、来るのが遅すぎるわよ……」
「すまない。あのあと5年経って、僕はやっとの思いで家を出れたんだ」
感極まっていた心が、急に冷えてゆくのを感じた。
なんだ。この違和感は。今、5年と言ったか。ではこの男は、5年後にはもう東北を離れていたのか。
「待ちなさいよ。じゃあなんで今まであたしを迎えに来なかったのよ」
「すまない……。ずっと君を探していたんだが、見つからなくて……」
「見つからないわけないじゃない。あんたの言う通り、あたしはあんたの好物を目印にって、あんたの好物を店の名前にまでして――」
「僕が送ったあれ、ブドウじゃなくて、マスカットなんだけど……」
いつだったか常連の酔っ払いが言った、『ママは絶望的な舌音痴なんだから』という言葉が、あたしの頭の中を駆け巡った。
ばつの悪そうな顔をした男二人を眺めながら、あたしは再度膝から崩れ落ちた。
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