第5話 俺は叔父さん
赤字の入った校正原稿から目を離して息をつく。最終章に取りかかったところで、視界がかすみ始めた。視線を手元から室内にうつして、目についた家族写真の並んだ一角で、銀のフォトフレームと花嫁の写真が異彩を放つ。
三ヶ月前か、とカレンダーを確認してため息をつく。
基本的に写真を飾る習慣はないのに、兄がご丁寧に写真立てに入れて持ってきたのだ。孫が生まれたら同じことをするに違いない。成長過程と一緒に年々写真立てが増えていく様子が安易に想像できて、さらにため息がもれた。
写真を眺めていると、似ているなと思う。自分に、兄に、――そして、初恋の人に。自分の初恋の人は、ありきたりな「近所にすむお姉さん」だったが、物語のように劇的な経緯で兄の妻になった。
今となっては初恋だけが明確で、ほかの恋愛がうつろな思い出になっていた。
はす向かいにある加納さんというお宅。母親同士が仲良く、なにかと面倒を見てもらっていた。そこが、初恋の人――加納美代子さんの実家だった。
共働きの両親はともに家庭を顧みない人で、加納さんのところのお母さんに育ててもらっていたと言っても過言ではない。両手両足では足りないほどお世話になり、毎週タッパーでおかずがきた。それを届けてくるのが、美代子さんだった。
美代子さんの目当てが兄・啓介だということは小学生にもなるとうっすらと気づいていた。自分も美代子さんに憧れを抱くと同時に、子供心に初恋の人の恋を応援していた。
とはいえ、美代子さんがいつの間にかその恋を実らせていたことには気づかなかったし、兄の啓介は当たり前のように何も言わなかった。
だから、その日におきたことは、自分のなかで突拍子もない出来事だった。
紅葉に染まった通学路をいつものように通り過ぎ、自宅の玄関にはいると、そこからいつもとは違う様子だった。普段は二~三足程度しかない玄関に、五組以上ある。兄が知り合いでも連れてきたのかといぶかしみながら、リビングに向かう。
この時点で両親に意識が及ばないあたり、当時すでに両親の夫婦関係が難しい状態になっていることを察していた。一方で、美代子さんの靴があるのは毎日確認している。
「ただいまー」
リビングに入ると、神妙な顔の兄、父、美代子さんとその両親がいた。
「なにがあったの……?」
両親は『そろそろ浩介も中学生になるから』を合い言葉に、小学校六年生になった頃から家に帰らない日すら増えていた。そうしたなかで、家に帰らない筆頭の父が、十七時という自分の学校帰りの時間に自宅にいることが、自分にとって異常の証だった。
自分が場違いだとはわかっていたものの、馬鹿みたいに尋ねるしか打開策はないように思えた。自分の父が不愉快を露わにし、目をそらす。一方で、美代子さんのご両親が神妙な顔で見つめる。
結局、美代子さんが両親に小声で話しかけてから立ち上がり、俺を近くの公園までつれて行ってくれた。
「ねぇ、だれが父さんに怒られてたの?」
美代子さんが自販機で買ったペットボトルを受け取りながら聞いた。
「ふふ、わたし。怒られちゃった」
美代子さんが怒られたという事実に驚くのはもちろん、起こったのが自分の父親だということに、少しの理不尽を感じた。日頃の親近感は、明らかに美代子さんよりだったので。
いま笑ったのは、自分を気遣ったからだと思ったから。
「美代子さん、受験で忙しいのにあれこれやってくれてるじゃん! なんで父さんが怒るんだよ」
ベンチに腰掛けた美代子さんに向かって、少し強めの声で言った。さっきみたいに気遣ったような笑い声じゃなくて、いつもみたいににっこりと笑ってくれないかと思って見つめていると、どんどん顔がうつむいていく。
丸まっていく背中が意外で、近づくこともできなかった。
「あー、受験か、受験……うん、受験はできないかな」
歯切れがよくない回答だった。思えばここで悟ることはできたかもしれない。
でも、美代子さんは決意した様子で、俺にいった。当時小学校六年生でしかない、俺に。
「啓介くんとの赤ちゃんができたから、受験はできなくなったんだ」
少しの苦笑いとともに、「こーすけくん、おじさんになっちゃうんだよ?」なんて言われて、浮かんだ笑みは求めていた、いつもの笑みだったけれども。
その日から初恋の人は、「兄の恋人」そして「兄の妻」――義姉になった。
美代子さんは大きくなるおなかを抱えながら、臨月の状態でなんとか卒業した。高校は初めての事例ではなかったようで、比較的柔軟に対応してくれたらしい。むしろ、そこそこ優秀だった美代子さんが受験できなかったことを惜しんでいる節もあったらしい。
兄は絶縁同然で実家から追い出され、その年の年末年始は実家に顔を出すこともしなかった。父と母は現実から目をそらすように、仕事に打ち込んでいった。もちろん加納家から毎日提供されていたおかずが消え、夕食もかねて高額のお小遣いが支給された。
コンビニでお弁当を買って自宅で食べる生活は、二週間と持たなかった。
逃げるように美代子さんのいる家――兄のアパートに通った。なんとなく両親は察しているようだったが、自分にとっての家庭料理は美代子さんの料理で、美代子さんと囲む食卓だった。
小学校六年生だったのだ。あと半年もたたずに中学生になる現実なんて、何の意味もないこどもだった。
クリスマスも初詣も、思えば新婚の初めてのイベントをすべて邪魔するように一緒にいた。兄夫婦は邪険にすることなく、笑顔で出迎えてくれた。
そうして七月。銘子が産まれる。
兄は二週間だけ育休をとり、俺は夏休み中ずっと兄の家に住んだ。兄と、美代子さんと銘子。その三人の様子に、自分にはなかった『家庭』を当てはめて、涙が出るほど幸せに見えた。理想だった。
だから、自分が独立しても、兄夫婦と銘子は自分の中の特等席にずっと座っていた。
銘子は日に日に、初恋の人に似ていった。複雑な思いを幾度となく去来させながらも、俺のことは永遠に「叔父さん」だったように思う。
迷うことなく、自分の道を歩んでいった。
笑顔の花嫁写真は、そんな彼女の一つの物語を感じさせる。ひたむきな姿にきっと、血縁がなくても説得させられていた気がする。どうだろうか。
ふっと笑みがこぼれ、インターホンが現実に戻す。来客までに終わらせたい仕事だったが、仕方がない。
男は初恋を思い出したら、走馬灯のようによみがえらせてしまうのだ。
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