たけのこ1号

マツダシバコ

たけのこ1号

 河原には大きなタケノコが3本生えていて、それは僕が住むマンション棟でもあった。

対岸から眺めるそれは、まさにタケノコのような形をしているのだ。

マンション棟は1号館~3号館まであり、それに少し小ぶりな別館とがあった。

別館には住人専用の展望レストランがあり、バーがあり、映像室があり、大きなパーティーを開くためのスペースがあった。

それにもちろん、健康を維持するためのジムがあり、屋上にはプールとジャグジー。

それに高層部にはゲストのためのホテル施設まであった。

要するにこのマンション棟は、超が付く上流階級のためのタワーマンションなのだ。

僕は運良くこのマンションの住人になることができた。しかも賃料は無料。

例えば、僕がゴキブリで勝手にここに住んでいるとしたらどうだろう。このマンションに無料で住める理由は大いにあるのではないか。

でも、僕はゴキブリじゃない。仮にゴキブリだったとしても、あっという間にサーチされ、僕は抹消されてしまう。

このマンションは全てが清潔、安全に保てるようにシステムが整えられているのだ。


 ある日、僕は発見した。

対岸の河原を散歩していたときのことだ。特別棟と合わせて4棟あるはずのマンション棟が3本しか見えないのだ。

それは単に棟と棟が重なる角度の問題なのだけど、マンション棟を眺めながら対岸を歩いていると、4本あったタケノコが3本になる瞬間があり、バックして戻ってくるとまた4本に戻る瞬間があった。

僕は前に歩いたり、後ろ向きに歩いたりしながら、何度もそのことを確かめた。

3本、4本、3本、4本、3本、それはマジックのようにパッと消え、パッと現れた。僕はその様子を見て思った。

世の中には本当にマンション棟が3本しか存在しない世界が存在するのではないか。

そして試しに、マンション棟が3本しか見えないポイントからザブザブ川を渡ってみると、その世界に入り込むことに成功した。

 厳密にいうとそこは、マンション棟が3本しかない世界じゃないくて、マンション棟が3本しかないと思い込んでいる人たちが住む世界だった。

僕だけに4本目のタケノコは見えているみたいだった。

 そこで僕は、住宅棟に囲まれた中央にある少し小さめの別館に一人で住むことになった。僕はそのマンション棟を「たけのこ1号」と呼ぶことにした。

 僕はゲスト用に用意されたホテル施設の中でも、最上階のスイートルームを選んだ。そこから見渡す景色は、まるで世界を征服したような気分だった。

僕は大きく息を吐いて、吸い込んだ。とてもいい気分だった。

けれど、2週間も経つと僕は不安になってきた。誰も僕の存在に無関心なのだ。

僕は街に出て買い物をする。レストランに入り食事をする。挨拶をする。誰もが気持ちのいい微笑みを返してくれる。

でも、誰も僕にまったく無関心なのだ。

 ホテルの部屋はどんなに散らかして出て行っても、まるで形状記憶装置が作動したかのように、戻ってくるまでにはぴかぴかに整えられていた。

毎朝、8時になるとドアはノックされ、客室係が僕に朝食を持ってきてくれる。

カーテンを開き、レースのカーテンだけを引き、窓をわずかに開いて空気の入れ替えをしてくれる。

「やあ、今日もいい天気だね」僕は話しかけてみる。

「本当に。あなたのために用意されたような、輝かしい天気です」さわやかな笑顔が返ってくる。

その間にベッドの背が立てられ、目の前で手動式の圧縮機にかけられた絞りたてのオレンジジュースがコップに注がれ、僕好みの固さで焼かれたオムレツの朝食が並べられる。

部屋中はいい匂いで充満する。

「さて」

「さて?」

「さて、今日は何をしようかな」

「何をいたしましょう」

「そうだなあ」

「そうですね」

客室係は笑顔で僕の会話に付き合ってくれる。


 僕は川を越えて対岸に行ってみることにする。僕はタケノコが3本から4本に変わるタイミングを探す。何度も何度も同じところを前進したり、後ろ向きで歩いたりする。僕はタケノコが4本あると認識されている世界に戻りたいと思っているのかもしれなかった。

3と4、4と3、3と4、、、狭間に集中しようとすればするほど、何かがチラチラと見え隠れしてそれを邪魔した。僕は眉間の皺を寄せ、そのよくわからないものを見定めようとした。

見定めようとすればするほど、それは何だかよくわからなくなった。

最終的に僕が出した答えは「猫」だった。

「猫、なのか?」僕は思った。

するとマンション棟にのさばる巨大な猫がむくむくと出現した。

猫は僕の顔をじっと見ながら、マンション棟の1本に尻尾を絡めて建物を揺すぶった。マンション棟はあっという間に歯槽膿漏の進んだ歯の根元みたいに、根っこの部分をむき出しにしてぐらぐらになった。

「おい!」

僕は思わず対岸から怒鳴った。猫は丸い目をさらに丸くして僕を見つめたまま、体を反転させて地面に背中を擦り付けると、今度は後ろ足2本でマンション棟を挟んで、建物を揺さぶり出した。

「だからやめろって!」

僕は思わず川に飛び込んで対岸の猫に文句を言いにいった。

「大丈夫さ。タケノコは根がとても深いんだ」

マンション棟はすでに根っこの部分をむき出しにして宙に浮いたような状態だった。でも、糸の先がしっかり結ばれたバルーンのように、倒れる感じもしなかった。

「やっぱり、これはタケノコだったのか」僕は言った。

「君の概念の世界ではね」猫が言った。

猫はマンション棟の間をすり抜けるようにゆっくりと歩いた。

「おい!やめろよ」僕はまた猫に文句を言った。「君には見えていないかもしれないけど、そこには僕の住んでいるマンソン棟が存在するんだ」

「ちゃんと見えているさ」猫は言った。

「だったら、人のマンションの前でウンコするのはやめろよ!」

猫は真剣な顔つきで爪先立って、おじぎをするように尻尾を上下に動かしている。

「だって、君はさっき思ってただろ。いくら上等のマンションに住んだからって一人じゃつまらないって。豪華な分だけ余計に虚しいって」

猫は前足で砂をかける仕草をした。

「やめろ。エントランスに砂が入るじゃないか。確かにそう思ったかも知れないけど、それとこれとは話が別だ!」

「今、君が望んでいるのはこれだろ?」

猫はそういうと宙に爪を立てた。

ガラスを引っ掻くようなひどい音がして、空中が裂けた。

僕はとっさにその裂け目に飛び込んだ。こうして僕は、マンション棟が4本存在する世界に戻ってきた。

それは僕がまた貧乏な生活に戻るということでもあった。


とはいえ、僕はこの超威圧的なタワーマンション群から縁がなくなったわけではなかった。

「おはようございます。今日もさわやかな良いお天気ですよ。ここから見下ろす景色は最高です」

朝8時に僕はドアをノックする。

こちらの世界での僕は、たけのこ1号ホテル施設の客室係なのだった。

カーテンを勢いよく開き、部屋に風を通し、しぼりたてのジュースを提供する。

「あなたのために用意された素晴らしい朝です」

「さあ、今日はいかが致しましょう」

「ご要望があればお申し付けください」

僕は常にさわやかな笑顔で応対する。

僕は今まで泊まり客との会話にいまひとつ現実味がないのは、お互いの立場が違いすぎるせいだと思っていた。

「でも、違うんだ。お客様はあっちの世界に住んでいるんだ」

「あっちの世界?」

「そう。あっちの世界と一口に言ってもいろいろあると思うけどね」

彼女は呆気にとられたように僕を見た。

「ねえ、こんな風に感じたことはない?お客様と自分との間にビニールみたいな見えない隔たりがあるような変な違和感。お客様との会話がまるで心に入ってこない変な違和感。お客様が食事する姿を家畜が餌を食べている様子を見るように眺めてしまう変な違和感、とかね」

「ひどい。あなたってお客様にそんなふうに接していたの」

同僚の同じく接客係の女の子は、呆れたようにまじまじと僕を見た。

「でも、君だってお客様の会話でおうむ返しばかりしちゃうだろ」

「心をこめてね」

「そうかな」

「そうに決まってるわ」

「ところで僕って、ここ2週間ばかりって、仕事を休んでいた?」

「あなた、ちょっと変よ。何でそんなことを聞くの?」

「どうだったかと思って」

「あなたは毎日私とここで仕事をしていたでしょ」

「やっぱり、そうか」

「何よ、それ!」

彼女は憤慨したように目を剥いた。

「でもね、僕はこの2週間、このホテルの客としてここに泊まっていたんだ」

彼女は大きく息を吸い込んだきり絶句した。

「つまり、違う世界ではね」

「口にするのもバカバカしいけど、あなたはずっと私と一緒に働いていたし、奥悪様リストにはあなたの名前なんて一文字もなかったんだから」

僕は彼女の真っ赤になった顔を見て思わずかわいくなってしまった。

「僕だって最初は信じられなかったさ。でも、違う世界は存在するんだ。きっと、たくさん」


僕らはあの巨大猫が作った世界の裂け目を探しに行った。そしてそれはあっけないほどすぐ見つかった。

「これが世界の裂け目なの?」

彼女は無防備に垂れ下がったビニールのような裂け目をつまみ上げた。

「信じられないかもしれないけど、そうだと思う」

僕にも少し自信がなかった。

「ねえ、あっちの世界に行くつもりなの?」

僕は世界の裂け目に片足を突っ込んでいる彼女に慌てて声をかけた。

「当たり前でしょ」

「でも、向こうには巨大な猫がいて、食べられちゃうかもしれないよ。それに裂け目が見つからなくなったら、もう二度と戻ってこられないかもしれない」

「そんなときはちゃんと目印をつけておけばいいのよ」

彼女はそう言うとハンドバッグからピンク色のマニキュアの小瓶を取り出して、裂け目に塗っていった。

「でもさ、そんなことをしたらみんなが気づいて、あっちの世界に入って行っちゃうんじゃないかな」

「あなたって色んなことを考えるのね」彼女は手を止めて呆れたように言った。「あっちの世界に行きたいやつは行かせておけばいいじゃない。知ったこっちゃないわ」

彼女はマニキュアの小瓶をハンドバッグに放り込むとパチリと留め金をしめて、さっさと裂け目をくぐって向こうの世界に行ってしまった。

「待って、でも本当に大して面白くないかもしれないよ。面白くなくても怒らないでくれよ」

彼女はすでにぷりぷり怒っているみたいだった。そんなことは彼女の歩き方を見ればわかる。僕は彼女に格好いいところを見せたいのに、いつも格好悪いところばかり見せてしまう。


猫はいなかった。

でも、その痕跡を示すように、マンション棟は細い根っこに繋がれて飛行船のように宙に浮いていた。

「この世界ではマンションのタワーはタケノコなのね」

「僕の概念の中ではね」僕は猫に言われたことを付け加えた。

「私はトウモロコシっていうイメージだったけど」

「僕はとうもろこしでもいいよ。おいしいし」

「もう!あなたがそんな優柔不断なこと言って、世界がめちゃくちゃになっちゃったらどうするの?しっかりしなさい!」

彼女はぷりぷりお尻を振りながらタワーの中に入っていった。


「どう?」

「悪くないわ。っていうか素敵!」

彼女の瞳は夜景が映り込んでキラキラ輝いていた。

「僕と結婚したらずっとここに住めるよ」

思わず僕は言ってしまった。

「あなたって、そんな大胆なことを平気で言うタイプだったかしら」彼女はまじまじと僕の顔を見た。「それともこの世界の王様だからってわけ?」

「別にそんなつもりはないよ。でも、ここに一人でいてもつまらないんだ」

「そうでしょうね。でも、そんな暇つぶしに付き合うために私は結婚しないわ」

「違うんだ。誰でもいいってわけじゃないんだ。もちろん、君だからこそ、ここに一緒にきたわけだし」

「どうかしら?でも、どっちにしても魅力的なプロポーズじゃないわね。今度くるときまでに、もっとグッとくるやつを考えておいてちょうだい」

「今度って、帰るの?」

「当たり前でしょ。私は初めてのデートで男の人と泊まるような、そんな女じゃないんだから」

「でも、部屋は他にもたくさんあるし」

「帰るの」

彼女はそう言い切ると、ハッと気合を入れてガラス窓を蹴破った。

僕は呆気にとられた。

「やっぱりね。この世界ならこういうこともありなんじゃないかと思って」

彼女はかっこよく微笑むと、そのまま空中にダイブした。僕がパニックを起こす間も無く、彼女の姿はみるみる小さくなった。

絶体絶命と思ったとき、どこからともなくあの巨大猫が現れて彼女をキャッチした。

「覚えておいてねー。私は軽い女じゃないってこと~!」

猫の背中にまたがって彼女は僕に向かって手を振った。

僕は手を振り返した。


結局、僕はこの世界に一人取り残された。

彼女の後を追って僕も元の世界に戻ろうとした。

でも何故だかピンク色に縁取られた世界の裂け目はぴったりとくっついて開かなかった。

「そういうふうに私がおまじないをかけたの」

元の世界から遊びにきた彼女が自慢そうに言った。

「僕を閉じ込めたんだな。どうして?」

「さあ、どうしてかしら?でも、私にプロポーズをするなら、もっと責任感を持って準備をしてほしいの」

「責任感?準備?」

「ねえ。私に毎日会えなくて寂しい?」

「さみしいよ。当然」

「でも、私は寂しくないの。だって、元の世界ではあなたと毎日、顔を突き合わせて働いているもの」

「なるほど。僕らは仲良くやってる?」

「やってるわ。あなたはおっちょこちょいで、あなたは頼りなくって、あなたは要領が悪くって、そんなあなたを見てるとついつい手伝っちゃうの。でもね、最近はこの人と結婚して本当に大丈夫かしらって、思っちゃうの」

「僕だって自分でもそう思わないでもないけど、だけど、二人だったらなんとかなるんじゃないかな」

「ほら。そういう根拠のない楽天的なところ」

彼女は僕を指差して言った。

「だって。でも、ほら、こっちの世界にいれば食べることとお金に困ることはないんだし。どう言うわけか僕の財布にはいつもほどほどのお金が入っているんだ」

「ほどほどのね」

「不満?」

「全然。お金なんてほどほどにあれば十分だわ。でも、ビニールで隔てられた世界で、薄っぺらな食事をして、薄っぺらなサービスを受けて、薄っぺらな人生をたった二人で生きていくの?」

「うーん。でも、まあ、それもいいんじゃないかな。薄っぺらって起伏がないってことだろ。それって結構、平和なんだと思うよ、二人だったらね」

「二人がずっとずっと死ぬほど好き合っていたらね。でも、やっぱりそんなの退屈で嫌だわ。そんな世界からはすぐに出て行っちゃうんじゃないかしら」

「手厳しいね」

「真剣に考えているだけよ」

「ところで、最近、猫を見ないんだよ。君、見かけなかった?」

「知らないわ。猫も出て行っちゃったんじゃないの?」

「手厳しいね」

「真剣に考えてね」

彼女はスカートの膨らんだポケットから小さなプロペラを取り出すと、頭のてっぺんに取り付けて、地上49階の窓から飛び出した。

「やっぱりねー、私だって猫がいないと困るのよー。クッションがないと危なくて飛び降りれないじゃない。こうやって道具を買えばお金だってかかるんだしー。そういうこともちゃんと考えてねー」

彼女はそう言いながら徐々に降下していき、地上に降り立つと僕に手を振った。僕は手を振り返した。僕は下着が見えることを期待していたのに、彼女はスカートの裾を上手に押さえてチラリとも見せてくれなかった。


さて、どうするべきか。僕には何も思いつけなかった。

でも、とりあえず猫が帰ってきてくれれば、何とかなるような気がした。

僕は猫を探しに街中を歩き回った。

そんな風に探し回っているうちに、こんな探し方をしていたんじゃ猫は一生見つからないんじゃないかという気になった。

僕は立ち止まり、目を凝らして辺りを見回してみた。やがて人や店や道や空の境界線があやふやになって、代わりに型抜きのように猫の形が奥から浮き出てきた。

「やあ、ずっと探していたんだよ」

「僕はずっとここにいたけどね」

猫は切り抜かれた枠からふわりと出てきて毛を膨らませた。

ところが、猫は後から、後から、後から、出てきた。

「ねえ、そんなに出てきたら、街が猫で溢れちゃうよ」

返事はなかった。もはや、どれがあの猫かわからなかった。

巨大な猫の体はいつの間にか他の猫たちと同じサイズになっていて、猫は猫たちに紛れ込んでしまった。

「おーい」

呼びかけて見ても猫はニャーニャー鳴くだけだった。

結局、猫は見つからず。道という道は猫で埋め尽くされていた。

「猫は嫌いじゃないんだけどね」

「私もよ。これだけいればどこに落下しても怪我もしそうにないし」

「確かにね。でも、人がいなくなってしまった」

街の景色はすっかり変わってしまっていた。残ったのは猫型にくり抜かれた白い壁と見渡す限りの大量の猫だけだった。

「あなたの住まいはどうなっているの?」

「残ってるよ。マンション棟もね」

「でも、まさか猫はカーテンを開けて、朝食を用意してくれないでしょ。ホテル暮らしごっこもおしまいね」

「いや、それが」

「ご飯が作れるっていうの?」

僕は頷いた。

「でも、どうせキャットフードとかなんでしょ」

「いや、これが結構うまいんだ。知らなかったけど、猫ってなかなかグルメな動物なんだね。今夜も君のためにディナーを、、」

「やめて!」彼女は僕の話を遮って言った。「ねえ、こんな生活を望んでいるわけじゃないでしょ?あなたは猫にご飯を作ってもらって、それで満足なの?」

「まあ、でも、そういう生活も平和でいいかもしれないと思って」

「いいわけないじゃない。あなた、ちょっといらっしゃい!」

彼女はぐいぐい腕を引っ張って、世界の裂け目に僕を連れてきた。

僕は彼女と一緒に元の世界に戻れるのだと思ってよろこんだ。

彼女はハンドバッグから小型のナイフを取り出すと、世界の裂け目付近をざくざくと切りつけた。

僕はびっくりした。

「何をやってるの?」

「この辺りを裂いていけば、あなたにふさわしい世界の入り口が見つかるかと思って」

彼女の目はギラギラと光っていて、何だか僕は怖くなった。

「ねえ、やめなよ」

「どうして?あなたのためよ?」

「うん。でも、僕には君が猫のお腹をメッタ刺ししているみたいに見えるんだよ」

「そんな!ひどい!」

「ごめん」

「あなたのためにやっているのに、あなたは私を悪者にするのね」

「だって、、」

僕は彼女から目をそらした。

「私のことが嫌いになったの?」

「そんなことないけど、、」

「じゃあ、私のことを見て」

でもやっぱり彼女のことを直視することはできなかった。

「そう。もういいわ」

彼女はいきなり僕のみぞおちを蹴り上げた。そして、僕が膝をついて苦しんでいるうちに、世界の裂け目から元の世界に潜り込んだ。

僕も慌てて飛びついたけど、世界はすでに閉ざされた後だった。

「また、来るから。その間に、私の言ったこと、よーく、よーく考えておくのよ」

彼女は怒りに満ちた後ろ姿を残して、去っていった。


それほど間を空けずに、彼女はやってきた。

僕は対岸の河原にピクニックに行こうと彼女を誘った。

「ね、気持ちいいだろ?」

「そうね」

「人間にはこういうほっとする時間がたまには必要だと思うんだ」

「だって、あなたは暇を持て余して、毎日のんびり暮らしてるんでしょ?」

「だからさ、君のためにさ」

「私のために?」

「毎日、忙しく仕事をしてるんだろ?」

「そうね、もう一人のあなたとね」

「だからさ、僕もお世話になってるわけだし、たまにはゆっくりしてほしいと思って」

「余計なお世話よ」

「まあ、サンドイッチでも食べて」僕は彼女にランチボックスを差し出した。「猫のシェフが作ったんだ。すごくおいしいんだ」

「細かい毛がいっぱい入ってるんじゃないかしら?」

彼女はサンドイッチを取り上げるとまじまじと眺めた。

「大丈夫だよ。ちゃんと手袋をしているし、君も知ってる通り、何しろ猫はきれい好きだからね」

「そうかしら?猫なんてその辺にゴロゴロして汚らしいじゃない」

「君って、本当は猫があんまり好きじゃないんじゃないかな」

「どうしてそんなことを言うの?そんなこと勝手に決めなで。どうして私が猫が嫌いだなんて思うの?」

「だって、あんまり猫と仲良くなりたくないみたいだから」

「そうやって、私ばっかり悪者にするのね。私ってそんなに意地悪なの?ただ、思ったことを言っただけじゃない。私がぜんぶ悪いの?せっかくのピクニックも私がぜんぶ台無しにしてるのね?」

「そうじゃないんだよ。ただ僕は君と猫とのんびり過ごしたいだけなんだ。そんな風にしていると、とっても幸せな気持ちになるんじゃないかと思って」

「そうやって自分ばっかりいい人ぶるのね。私だって、いつもはこんなんじゃないのに」

「いいからこっちおいでよ」

僕は立っている彼女の手を引っ張って座らせた。

「いや、さわらないで」

「じゃあ、触らないから」

「本当よ。私、いつもはこんなに嫌な女じゃないの。だけど、あなたのことを真剣に考えれば考えるほど、あなたのことがバカに見えて、不安になって。私、苦しいの」

「わかるよ」

「何がわかるの?」

「僕のことを真剣に考えてくれているんだろ?」

「私、あなたと付き合ってから、どんどん嫌な人間になっていくみたい」

「だとしたら、それは僕のせいだね」

「わからないわ」

「ねえ、ちょっと横になってみなよ。僕の膝を枕にして。僕が嫌だったら僕は君にさわらないから」

彼女はそろそろと体勢を変えてゆっくりと僕の膝の上に頭を置いた。

「仰向けになって」

彼女はスカートの裾を気にしながら、仰向けになった。

僕はその辺に落ちていた子猫をすくい上げて、彼女のお腹の上に置いてあげた。

「撫でてみて」

彼女は両手で猫を静かに撫でた。

「どう?」

「かわいいわ」

彼女は顔を真っ赤にして泣き出してしまった。

「私、疲れているのね?」

「そう。僕のせいでね。君はまじめすぎるんだ」

「そうかしら」

「そうだよ。ねえ、やっぱり君のおでこに少しだけさわってもいいかな」

「いいわよ。いいに決まってるわ」

しゃくりあげて熱くなった彼女のおでこに触ると、僕の中に幸せがこみ上げてきた。

風が吹いて、猫がいて、いい匂いがして、お腹がいっぱいで、これ以上の幸せってあるだろうか。

 目がさめると辺りは暗くなっていた。

彼女と猫はいなくなっていた。

いよいよ本当に振られてしまったのかもしれないと、僕は思った。


 彼女も猫もいなくなってしまった。

対岸に目をやるとマンション棟は夜空の中に浮いていた。窓ガラスにライトを灯したそれは、幻想的でとてもきれいだった。

やがてタケノコたちはボッと音を立てたかと思うと、空中を自由に浮遊しはじめた。いったい、根っこはどこに行ってしまったのだろう。

3本の住宅棟がどこかに飛んで行ってしまうと、たけのこ1号は対岸から近づいてきて、僕を誘った。

たけのこ1号は窓明かりを煌々と黄金に輝かせて、正面の扉を開いた。

僕は川の中に降りて行って、たけのこ1号に乗り込んだ。何だか胸がドキドキした。

僕が乗り込むとたけのこ1号は、ロケットのように垂直に登っていった。

僕は窓に張り付いた。

僕の住む街が見渡せた。それはあまりに小さい規模だった。そしてそれが世界のすべてだった。

僕は少し唖然とした。僕の住む街が全世界だなんて。

ロケットたけのこ1号は大気圏を突き破り、再びボッと音を立てて宇宙へと突入していった。

とても静かで奇妙な感じだった。

やがて僕の体はひとりでに宙に浮いた。まるでテレビで見た宇宙飛行士みたいだと思って、僕は可笑しくなって笑った。

それから魚のように宙を泳いでみた。窓の外には深海のような暗黒の世界が広がっていた。

たまに星と出会った。大きさも距離感も現実味に欠けていて、目の前に見えているものがよく理解できなかった。星たちは僕に近づいたり、離れたりした。

でも、宇宙に歓迎されているのはよくわかった。宇宙は空間を震わせて、音のない音で僕に話しかけた。

それは聞けば聞くほど音のないことがわかる音だ。耳の奥に真空が広がっていく。僕はその不思議な音に目を閉じて聞き入った。

目を開けると、隣に猫が横たわって浮いていた。

「わっ!」

僕はびっくりして声をあげた。僕の声の波動で猫は、くるくると規則的に回転しながら遠のいていった。

「わあ!待ってくれ。君を探していたんだよ」

息を吸いながら僕がそう言うと、猫は吸い寄せられるようにあっという間に近づいてきて、僕の口元にぶつかってきた。

「ちょうどいいところにいてくれないかな」

僕はほとんど思っているだけと同じくらいに小さな声で言った。

「・・・・」

結局、僕らは横に並んで浮いているしかなかった。

 最初は小さな衝撃だった。しかしそれは次第に大きな波を呼び、とてつもない反動をもって加速していった。まるで次元を突き抜けてワープでもしているような、身体中が引き伸ばされるみたいな抵抗を感じた。

「なーんなーんだーぁあああ。こーれーはーぁああああ」

声だって引き伸ばされていた。

「うーちゅーのぉぉぉぉおおお、いーきーどーまーりーぃぃぃにぃぃぃ、ぶーつーかっっっっっっっつたんだぁぁあ」

「宇宙の行き止まり?」

「そう」

僕らは会話をテレパシーに切り替えた。

「そんなものはないだろ?」

「あるんだよ。君の概念の中ではね」

「僕はずっと君を探していたんだ。だけど、探し物は見つからない。なぜなら、探しているという現実を僕が作っているから」

「然り」

僕は頭を抱えたくなった。僕の作る世界はどこまでいびつで小さいのだろう。

宇宙の果てでバウンドした宇宙船はいつの間にか速度をゆるめて、僕の住む世界に近づきつつあった。

それはパズルのピースのように暗黒にぽっかりと浮いていた。

「まあ、そういうこった。でも君が思ってるほど、その世界は小さいわけじゃないのかもしれない」


世界に戻ると僕は板金屋の猫のとろへ行って、取っ手を2つ注文した。

「うちは車専門なんだけどな」猫は最初取り合ってくれなかった。

「宇宙船だって、車だって、それほど変わらないよ。だけど、車の修理より難しいのかもしれないな。何しろ髪の毛1本の隙間でも、宇宙では命取りなんだからね」

「そんなことないさ。車の方が難しいよ」

板金屋の猫は2週間後の受け取りを約束して仕事を引き受けた。

その足で僕は、宇宙服屋へ向かった。

「まさか、この小さな街に、こんな店があるなんてね」

「まあね、めったに客はこないけどさ。でも、町に一つぐらい、こんな店があってもいいんじゃないかと思って」

僕は猫に聞いた。

「君は宇宙へ行ったことはあるの?」

「ないさ。あるわけないさ。この世の中に宇宙へ行ける猫が何匹いると思う?」

「さあ」

「まあ、宇宙なんて行くもんじゃないよ。宇宙は行けないから、美しい。永遠の夢さ」

「そうかもね」

僕は店で宇宙ヘルメットと宇宙服を買った。

「ブーツはサイズを確かめてから、また次回買いにくるよ」

「今度とおばけは出たためしがないって言うよ」

「僕は今度じゃなくて次回って言ったんだ。それに君はお化けじゃなくて猫じゃないか」

「猫は気まぐれだからね。次回来たときには違う店になってるかもしれない」

「早めにくるよ」


 僕はたけのこ1号を観光用の宇宙船にするつもりだった。

僕は子供の時、宇宙飛行士になりたかったことを思い出したのだ。

「それに観光バスの運転手。二つ合わせて船長兼ガイド」

「ふん」

彼女は僕の夢にさほど興味はなさそうだった。

僕は彼女を宇宙に連れ出していた。

「また来てくれて本当にうれしいよ。僕はもう君に振られてしまったんじゃないかって思っていたんだ」

「私だって、もう行かないって決めていたのよ。でも、何だか気になっちゃうのよ」

「僕のことが?」

「わからないけど」

彼女は悲しげに窓の外を見ていた。窓の外にはこの間来た時と打って変わって、美しい星々がやたらめったら瞬いていて、悲しい要素なんて一つもなかった。

「きっと君のことを歓迎しているんだ」

僕がそう言うと、彼女はますます悲しい顔になった。

「どうしたの?」

「わからないわ。だって、あなたって能天気すぎて、、何だか悲しくなってくるの」

「じゃあ、僕が悲しめば、君は能天気になる?」

「そんなの無理よ。だって、あなたってば根が能天気なんだもの」

「君だって、一緒に楽しめばいいんだよ」

「そうしたいのにできないのよ」

「どうして?」

「わからないわ。でも、そんな自分がすごく嫌い」

窓の外にはマシュマロのお化けのような、見たこともないすごくかわいい生き物が、こちらを覗き込んでいた。

「ねえ、外に出てみようよ」

僕はとっておきのプレゼントを彼女に差し出した。

「君専用の宇宙ヘルメットだよ」

僕は自分の青いヘルメットをかぶってみせた。

彼女は手渡されたピンク色のヘルメットをじっと見つめていた。

「うれしくないの?」

「うれしいわ。すごくうれしいけど、今はかぶりたくない気分なの」

「あんなにかわいいやつが君を待ってるのに?」

僕が窓の外の生き物を指差すと、とうとう彼女は泣き出してしまった。

僕はあきらめてヘルメットを脱いで床に置くと、窓の外のかわいい生き物が悲しい顔をした。

僕が何かするたびに、みんなが悲しんでしまうみたいだった。

「この宇宙船はたけのこ1号っていうんだ」僕は言った。

「たけのこ1号のてっぺんにはね、取っ手を取り付けてね、僕と君とがつかまれるようにしたんだ。心配しなくていいよ。とっても頑丈な取っ手だから。猫のひげ一本入り込む隙のない精密で、安全な取っ手だよ、板金屋の猫とすみずみまで確認したから間違いない。その取っ手につかまって、僕らは宇宙船を運行する。ヘルメットにはね、マイクが内蔵されていて、僕らのアナウンスが船内にいるお客さんに向けて放送される。僕らは宇宙で見つけためずらしいものや面白いものをお客様に紹介するんだ。僕らコンビの漫才みたいなガイドが大ウケでね、船内はいつも笑顔に包まれている。たけのこ観光はいつも満席、大盛況。だから生活に困ることもない。安心だ」

「どう、りょくは、、?」

「えっ?」

「動力はどうするの?あなたはいつもお気楽に調子のいいことばかり言うけど、こんなに大きな宇宙船を動かすガソリン代なんて、払えないんだから」

彼女は鼻をすすりながら言った。

「動力は僕の噴射エンジンさ」

僕は自信を持って言った。「君は笑うかもしれないけど、僕のささやかなオチンチンだって、無重力の宇宙では立派な動力になるんだ」

彼女はあきれ顔で言った。

「じゃあ、私にはおならを連射する練習でもしろっていうの?」

「君には噴射ブーツをプレゼントする。ピンク色のヘルメットとブーツで君の姿をずっと近くで見ていることが僕の夢なんだ」

僕は床に置かれたピンク色のヘルメットを拾い上げ、差し出して言った。

「僕と結婚してくだい」

「いいわ」


 こうして、僕らは結婚することになった。

世界の裂け目はドレープ状にめくり上げられ、リボンで留められた。

そこをくぐってたくさんの招待客たちが、僕らの世界にやってきた。

猫たちが用意してくれた豪華な料理が並べられ、ガーデンパーティがはじまった。

もちろん、僕らの結婚をお披露目するパーティだ。僕らはそこで改めて愛を誓い合った。

たくさんの人と猫たちが祝福してくれた。

夜更けまでパーティは続き、僕らは踊り明かした。

明日、僕らはたけのこ1号にたくさんの仲間たちを乗せて、宇宙へ向けて試運転を行う。

記念すべき、旅立ちの日なのである。


                                         おしまい

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