第7話 ドクトル
「すまない。待たせたな」
9月6日正午前、マンシュタイン社長が仮事務所内のある一室へ駆け込む。ドアを後ろ手に閉めると、密室に充満した猛烈なたばこの臭いが鼻を突いた。目に自然と涙が浮かび、激しく咳き込む。
潤んだ視界には、閉め切った部屋の奥、紫煙の霧の向こうに、二人の女性の姿が浮かんで見えた。その内、小柄な背丈で、太いポニーテールが揺れる馴染みの影が手招きする。
「待ってたわよ」
その隣、すらりと高い背に、男性のような短髪のシルエットが、長く煙を吐き出す。
「社長はん、まいどぉ。忙しそうやねぇ」
が、呼ばれた当人は、二人の女性を無視して大股で脇を通り過ぎると、部屋の窓を全開にした。そして、顔を突き出し、9月の外気を肺一杯に吸い込む。何度かゆっくり深呼吸してから、振り向きもせずマリー! と声をかける。
「ドアも開けてくれ。換気が必要だ」
あー……という声の後、言われた通りドアを開け放す音がする。それから、フレッドはようやく室内へ振り返る。すると、マリーは気まずそうに、自身の手に握られたたばこを、吸い殻の山に押し付けて火を消していた。灰皿に盛られた殻の量に驚く。
「早死にする気か? そんなに吸って」
「いやあ、考え事するとき、つい吸っちゃうのよねえ……」
黒いつなぎの作業服を着たマリーが苦笑いを浮かべ、頭を掻く。その横で、白衣をまとったもう一人の女性が、紫煙をくゆらせる。
「たばこ苦手なん?」
「ああ。苦手だし嫌いだ」
それを聞くと、ボーイッシュな髪をしたその女性も、短くなったたばこを惜しむように一度見つめると、静かに吸い殻の山の中へ埋めた。
フレッドが一つ嘆息し、ようやく二人の立つ机へと近づいた。
「あらためて遅れて申し訳ない。色々立て込んでてな」
「分かってるから、構わないわよ」
マリーが柔和な笑顔で返す。もう一人の女性も、同じように笑顔を浮かべた。ベリーショートのこげ茶の髪を、右耳だけ出るようにかき上げる。それから緑色の瞳で、社長のやつれた顔を案じるように見つめた。
「社長はん、ちゃんと寝とるぅ? 顔色悪いやん……」
「いや、アンナ、それはいつものことだから」
マリーが苦笑して突っ込むけれども、それが真実だとしても良くはないだろう。……残念ながら事実そうなのだが。
とは言え、そんなフレッドの顔色が、普段以上に灰色になっていることは間違いない。マーリエンプラッツ宣言に応じて、全プロイスどころか、諸外国からも、入社や取引を希望する声が殺到しているのだ。彼は会社の本格的操業に向けて奔走しつつ、時間の許す限り来客との面談を重ねていた。ここ一週間近く、寝食の時間は、限界まで削られていた。
しかし、何とか二本の足で立って、笑顔を作る。
「気遣い感謝するよ、ドクトル。だが、立っている間は大丈夫だ。一度座ったら二日は起きない気がするがね」
冗談っぽく言うと、二人は心配そうにしながらも笑って流してくれる。それから、フレッドはドクトルに向けて続けて話す。
「加えて、あらためてドクトルには兵器設計への協力に感謝したい。本職を他にお願いしているにも関わらず、進んでマリーに力を貸してくれて、本当に助かっている」
「うちも本来は研究者やしぃ、むしろその本職の方が挑戦やねん」
そう言って微笑むのは、ドクトル・シュミットこと、アンナ・エリー・ルッサー・シュミット博士である。
柔らかい方言が印象的な地元ミュンヒェルンの人であり、航空力学と航空機デザインをヴィーン工科大学で研究していたマリーの先輩だ。自身も飛行機の操縦に長け、終戦の日に、連絡機でフレッドを敵地パリスより安全な地へと連れ去った張本人である。先日のダッハウブルク攻略戦にも参加し、即席の爆撃隊を率いて、合衆国軍第一四機甲師団の闘志を完全に屈服させ降伏を決定づけた。その功績や、戦中の航空技術局での働き、本人の希望や適性などから、スコーピオン自由軍に設立予定の空軍の総司令官に内定している。目下、ドクトルを中心に、正式な創設に向け様々な準備を進めている。
そんな中、戦前に工科大学で助教授をしていた際、公私両面で交流を深めていたマリーが主導する兵器開発を、積極的に手伝ってくれていた。
「出会った頃は学生やったのに、マリーはんたら、こんな立派になって……ほんま嬉しいわぁ」
大先輩の言葉に、マリーは珍しく頬を朱に染める。
「そ、そんな。アンナが
本来、彼女は先輩とは違ってプロイス国民ではなかった。むしろ生粋のヴィーンっ子であり、アンシュルス――
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