第7話 最後のタバコ

 プロイス敗戦の事実は、師団長からの帰国命令とともに、各部隊長より兵士たちへ伝えられた。慌ただしく撤収準備を進めている様は、執務室からもよく見えた。マンシュタイン将軍は一度隣の寝室に置いた自分の荷物を整理すると、執務室に戻り、ベルーンで帰りを待っているであろう妻に宛てて手紙を一通したためた。一枚の便せんに端から端まで字を書きつけた手紙は、封をしてデスクの上に置いている。どうせ戦後の混乱の中では、郵便などまともに機能しない。祖国へ帰る部下の誰かに、預けるつもりでいた。装甲師団の連隊長二人には直接帰国命令を伝えたが、まだ面と向かっては言っていない部隊長もいる。抗議か別れの挨拶かは分からないが、訪問者は少なからずいるだろう。その別れ際に託すつもりでいた。

 ――砲兵連隊のオットーだとありがたいな。アレクに渡そうものなら、その場で破り捨てられそうで怖い。

 できるだけ温厚そうな部下の顔を思い浮かべ、自嘲気味に苦笑した。師団長として最後の最後に悩むことが、怒らなそうな人は誰か……など、いたずらをした子供のようだ。

 ――それでも、おっかない教師に見つかるよりはいいからな。

 ため息をつく。それから何気なく軍服の胸ポケットをまさぐる。右手の指先に、固く冷たい感触が当たった。目を細め、それを引き抜く。手には、銀色の平べったいタバコケースが握られていた。窓から差し込む夕日が蓋に反射し、視界がだいだい色に覆われる。静かに開けてみれば、最後の一本が横たわっていた。

 年の近い、快活だったヴィーンっ子の大隊長の笑顔が、脳裏に浮かぶ。胸からせり上がってくるものを感じ、将軍は歯を強く食いしばった。そしてほとんど衝動的に、細いタバコをくわえ、デスクの上に置いてあったライターを手に取った。

 火をともすと、泣きじゃくるように一気に吸い込む。苦くて不味い煙が胸の奥底まで侵し、思わずタバコを口から離して、ひどくむせ返る。しかし、先端で頼りなく揺れる小さな炎を見つめると、またゆっくりと口づけした。立ち昇る紫煙が目に入り、瞳が潤んでいくのを感じる。まったく不快な煙だが、今だけはありがたく思えた。肺の空気を絞り出すように、息をゆっくりと吐く。

 ――不意に、執務室の扉が叩かれた。タバコを口にくわえ、空になったタバコケースを両手で持ち上げる。名残惜しそうに銀の蓋を眺めていると、再度ノックが響く。フレッドは嘆息し、ケースを軍服の内ポケットへ大事にしまい込んだ。

「入れ」

 オットーかな? と思って目を上げると、デスクの前でブリュッヒャー大佐とザイトリッツ大佐が敬礼して立っていた。

「オットーじゃないのか」

 不満げに呟くと、ザイトリッツが丁寧に腰を折る。

「ミュラー大佐に何かご用事でしたか? 先約があれば、僕たちは……」

「いや構わん。特に、そういうことではない」

 タバコの煙を長く吐き出す。それを不思議そうにブリュッヒャーが見つめる。

「閣下が喫煙されるとは知りませんでした。たしかお嫌いだったはずでは」

「ああ、嫌いだ」

 はあ? と思わず大佐は首を傾げる。フレッドは灰皿に短くなったタバコを押し付け、火を消した。

「何でもない。気にするな。で、何か用か?」

 尋ねるとザイトリッツ大佐が神妙な面持ちで切り出す。

「実は閣下にお願いしたいことがございまして」

「何だあらたまって。金を貸せと言うなら断るぞ」

「そんなことは申し上げませんよ。実は撤収の準備に際しまして、処理に困る事案が発生しておりまして、現場までご足労願いたいのです」

「まずは説明をしてくれ」

「それが口頭では何とも申し上げづらいのです。一度現場を確認いただいた方が、はるかに早く状況をご理解いただけますので」

 妙な話だと眉間に皺を寄せるが、すでに日は沈みかけ、敗戦の日が終わろうとしている。この花の都を取り戻さんと連合軍が大挙してやってくるまで、もはや秒読みだろう。時間がない、トラブルは速やかに解決すべきだ。合理的にそう判断し、フレッドは嘆息しつつ立ち上がる。

「現場に案内してくれ」

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