第3話 悲劇のカフェ
フリードリヒスハーフェンは、プロイス南端の都市の一つであり、高い山々に囲まれたスイス・アルペン共和国、および、歴史ある古き帝国オーストライヒそれぞれと、ボーデン湖を介して接している。一時は硬式飛行船の製造で栄え、航空機産業で富を築いた街だ。それが故、戦中、連合軍に徹底的な空爆を食らわされていた。終戦から数ヶ月以上経った今でも、市街地に瓦礫が溢れ返っているほどだ。
しかし、そんな中、街中で健気に店を再開したカフェがあった。そこを希代の将軍は、残酷な戦場に選んだ。
カランコロンと小気味いい音で、木戸が開く。
カウンターでカップを拭いていた店主が、入ってきた顔を一目見て硬直する。将軍の顔は、プロパガンダのおかげで国中に知れていた。そして、今更連合軍とドンパチやって撃退してしまったという話も、厳しい報道管制の網を抜け、噂ですでに知れていたのだ。老いたマスターは、興奮と、悪い予感の狭間で言葉を失い、挨拶もできず口をパクパクさせた。
その様子にわずかに視線を伏せつつ、皆を奥のテーブルへ着かせると、フレッドは嘆息して紙幣数枚を置いた。
「コーヒーを人数分。あとは……静かになるまで、奥でじっとしておいた方がいい」
マスターは言葉を失い、かすかに首を左右へ振った。しかし、紙幣を差し出し動かない将軍を前に、ついには肩を落とし、震える手でコーヒーを注ぐと、そそくさと店の奥へ姿を消した。
フレッドが、四杯のコーヒーが乗った盆を持って、席に着く。ニメールが恐縮して受け取り、シモンは相変わらず無言で会釈する。マリーは、もっと砂糖ほしいんだけど、とほざいたが、配給制だと返して黙らせた。
きれいに整えられた店内には、四人しかいない。まだ朝も早く、非常に静かだ。また眠ってしまいたくなるほどに。鉄火場になるとは、思えないほどに……。
「見つけて……くれるでしょうか?」
沈黙を破り、ニメールが躊躇いがちに将軍を見やる。若き元少将は、コーヒーを一口すすると、背もたれに身を預けた。
「奴らが本気なら、三十分以内には」
横の席で、シモンが静かに腕時計を確認する。時刻は9時5分であった。
「じゃあ、手洗いはまだ行かなくていいかしら」
「馬鹿、先行ってこい」
思わず本気で突っ込むと、冗談よ、と笑われた。技師はどこで淑女を落としてきたのだろうか……フレッドは呆れて天井を仰ぐ。
「仮にもヴィーンっ子を自称するなら、もう少し洗練された言動をだな……」
「自称じゃないわ! 正真正銘のヴィーン人よ。まったく失礼しちゃうんだから。舞踏会で私に会ってたら、さぞ驚いたでしょうに」
「テーブルマナーの悪さに?」
「違うわよ! 私のワルツの華麗さによ。本場のワルツを知ってるの? 本物の舞踏会を? ほんと北のお芋さんは、説教と食い意地ばっかりなんだから」
「この野郎、馬鹿にしやがって……」
「そっちが先に言ったんじゃない」
真正面から軽口を言い合い、互いにそっぽを向く。シモンは静観するばかりで、ニメールは、あはは……と苦笑いを浮かべた。
「マリーさん、きれいですから、きっと人気だったのです」
「さっすがニメールちゃんは、よく分かってるわね! どっかの意地悪な将軍と違って」
フレッドは鼻で笑い、またカップを傾ける。
「やはり口説かれることもあったのです?」
「そりゃもちろん! 黒いタキシードに下心を隠した紳士たちから、一晩に何度も言い寄られたんだから」
色っぽくウィンクして見せる。おさげ髪の少女は驚いて生唾をのんだ。
それから一転、ヴィーンの淑女は自信満々の顔になり足を組んだ。
「まあでも当然のことだけど、最愛のフリッツに勝る男性はいなかったわ!」
「……ご主人なのです?」
「そう願いたいが、たぶん違うだろ」
「ええ。私の弟よ」
当然じゃない! と胸を張るが、三人は目を見合わせ、かすかに首を傾げるだけだった。
「やはり弟に対する愛情としては、度が過ぎているというのが、一般の見解だな」
「そんなことないから! 普通だから!」
手をぶんぶん振り回して、頬を膨らませる。
フレッドは手に負えん、と呟くとコーヒーを手に取り、シモンも無言でカップに口をつける。そんな中、優しいニメールが声をかけた。
「弟さん、溺愛されているのですね」
「それはもちろん! 海より深く、山より高く愛してるわ!」
「そうなのですね。それほど魅力的な方でしたら、一度お会いしてみたいのです」
そうよね! とこぶしを握り、鼻息を荒くする。
「だからこそ、早く見つけて救い出さないと。ねえ、フレッド?」
カップをソーサーに戻し、黙って頭を掻いた。ニメールは、はてと首を傾け、様子をうかがうように二人の顔を覗き込む。
「今は……どちらにいるのです?」
「たぶん黄泉の国だ」
「ガーリーよ。って、ちょっと!」
マリーが少将に噛みつく。けれど、フレッドはつまらなそうに今度は額を掻くだけだった。普段は透き通るような青い瞳が黒っぽく濁り、痩せた顔の血色がますます悪くなる。
「すぐ陰気なこと言うんだから。ほら、また生気が失せてるわよ。希望も未来も、すっ飛んで逃げるわ、そんな土気色の顔見たら」
かすかに目を上げると、マリーの呆れたような目線がぶつかる。しばらく黙って見つめ返すと、一つ嘆息した。
「違うな。あまりの楽天家ぶりに衝撃を受けているだけだ」
「きっといい影響を与えてるのね」
「安心しろ。それは絶対にない」
何よお、もう、と頬をフグにする。シモンは小さくあくびをすると、ちらと腕時計に目をやった。
その時、カフェの戸が開いた。
意外に早いな、と呟き、フレッドは振り返る。しかし、そこに期待した姿はなく、眉をひそめた。
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