第17話 第4章 揺り戻された革命ー3『ナポレオン』
4 【ナポレオン】
ナポレオンについては多く語られているので、ここでは簡単に記す。
ナポレオンは革命の子であった。しかし革命を終わらせた人物でもあった。旧王制下に陸軍士官学校に入学した。最初に注目されたのはトゥーロン(軍港がある)をイギリスから解放した時であるが、そのまま順調に出世したわけではない。ロベスピエールの弟に注目され、ロベスピエール派に近づいていたことが、テルミドールの反動で問題視されたからである。テルミドール右派として総裁の一人になったバラスが彼に注目していて、引き上げたことは先に書いた。
イタリア戦役の活躍は知られるところである。その結果、フランスはベルギーを得てオーストリアと和約した。総裁政府は防衛から膨張に転じて、98年第二次対仏大同盟の干渉を再び受けることになった。これに対抗するため、ヨーロッパ戦線が関心のまとになってきていた。総裁の一人シェイエスと将軍ジュベールによるクーデタの可能性がささやかれていた。「第三身分とはなにか」を書いた彼である。
このような情報をつかんだナポレオンは遠征先のエジプトから単身帰国する(エジプトでのんきに戦争なんかしていられない)。シェイエスの計画には乗ったが、シェイエスの思うままになる気は毛頭なかった。クーデタ決行の日はブリューメル18日、議会は電光石火で制圧された。政局をたくみに泳いできたバラスは身の危険をほのめかされ辞職してパリをあとにした。
総裁体制にかわって、統領制が決められ、第1統領にナポレオン、シェイエスは第2統領、国民公会議員であったデュコの3人が統領に就任した。これはシェイエスが望んだクーデタではなく、ナポレオン主導の全くの軍事クーデタであった。
99年12月15日「共和暦第8年憲法」が発布され、統領政府は宣言した。「市民諸君、革命は開始当初の原則に固定された。これで革命は終った」と。軍人に何ができるとみられていたが、財政再建は、徴税機構の中央集権化、中央銀行としてのフランス銀行の設立によって好転した。政治の安定は経済を活性化した。富裕層も職人も労働者も賛成しないわけにもいかなかった。革命下になされた国有財産の分割売却も追認され、土地を得ていた農民たちはほっと胸をなぜおろした。ナポレオンは王政復古をねらうアプローチは断固として拒否する。
終身統領へ、そして世襲皇帝へと上り詰める。これだけなら王政の焼き直しに見える。事実そうであった。しかし、つねに国民の支持を訴える姿勢は「革命の子」であった。それをはっきりさせたのが、1804年に発布された「民法典」である。ナポレオン自ら積極的に意見を述べたとされる。ナポレオン法典と呼ばれるこの民法典は、旧体制との決別を確認して、法の前での平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由とを確認するものであった。国家秩序の安定のためには、家族関係の安定維持が目標にされた。その家族とは家父長的な家族である。
あとは、いかにして戦争を終結させ、平和をもたらすかである。宣戦布告したフランス革命政府(ジロンド派)は短期決戦だろうと思っていた。同盟側も最初の侵攻で簡単に首都を陥落出来ると思っていた。双方、大きく計算が違ったのである。ナポレオンが革命は終ったと言っても、相手はそうは思ってくれない。
ナポレオンは軍人である。「私の権力は私の栄光によるものであり、私の栄光は私の勝利によるものである。栄光と新たな勝利を権力基盤にしないならば、私の権力は衰退するであろう」と語っている。勝利による平和しかなかった。
オーストリアを破り、ライン左岸のフランス併合を承認させた。1802年イギリスとアミアンで和約を結ぶ。同年、ロシア、およびオスマン帝国とも講和条約を結んだ。やっと平和が訪れたのである。ナポレオンはそう思った。
そして国内統治に専念した。こうして民法典は出来上がった。ローマ教皇を招いて豪華絢爛な戴冠式がノートルダム大聖堂で行われた。05年ナポレオンはイタリア王国の王位に即位。これはイギリスを挑発することであった。イギリス、ロシア、オーストリア三国は3次対仏大同盟を結成。
フランス・スペイン連合艦隊はネルソン提督ひきいる艦隊にトラファルガル沖で大敗北を喫する。制海権はイギリスのものとなり、ナポレオンの企図したイギリス上陸作戦は失敗した。しかし、大陸ではオーストア遠征に成功。次々にヨーロッパの小国を従属させる。警戒したプロイセンにも大勝。プロイセンが失った地域にはワルシャワ公国が成立した。一方ロシアとの講和には領土の割譲も賠償金も要求しなかった。ロシアと友好関係を結び、対イギリス同盟を考えたのである。
残るのは、ピレーネ山脈の向こうのスペイン、ポルトガルである。しかしスペイン戦争は民衆のゲリラ戦にあい、大いに苦戦。多大の戦費をついやすことになった。こうしてヨーロッパ大陸を制覇したのである。制海権を取られたイギリスに対して大陸封鎖礼令を出す。これに非協力であったロシアに向けて自ら遠征軍の先頭に立つ。これが冬将軍の大退却になり、ナポレオン帝国の崩壊になる。
ロシア・プロイセン軍がパリに侵攻し、ナポレオンはコルシカ島に流される。イギリスにのがれていたルイ18世を立てて王政が復活。しかし流刑地から脱出してパリに凱旋(ナポレオンの百日天下)。沿道の民衆は熱烈に迎えたが、負け将軍にはパリの富裕層や名望家は冷ややかであった。ナポレオンは対全面戦争に打って出たが敗北。議会は退位を決議。ナポレオンはこれを受け入れ、大西洋の孤島セントヘレナに流され、6年後に亡くなった。同盟国列強はブルボン家の復活に好意的ではなかったが、イギリスの後押しがあったのである。
1814年パリは降伏、7月8日ルイ18世が再びパリに帰って来る。ブルボン朝の復活である。25年前革命が起きたとき、このような形で終わるとは誰が思ったであろうか。あまたの血が流れてこれである。果たしてこのまま終わるのであろうか。
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