第16話 第4章 揺り戻された革命ー2『総裁政府』



2 【総裁政府】

テルミドールの反動は、しばらく息をひそめていた王党派を勢いつけた。王党派による白色テロが多発する。亡命貴族を中心とする軍勢がイギリス軍の支援を受けてルイ16世の弟をかついで王政復古を狙うが、革命軍に敗れ去る。

テルミドール右派の考える革命の着地点はブルジョワ的な共和政であった。所有権の絶対を明記した95年「共和暦第3年」憲法を発布した。参政権は財産資格を持った制限選挙に戻された。革命独裁を防止するために、元老院と下院にあたる5百人議会の2院政になった。政府は5人の総裁の集団指導体制をとる。オーストリアを除く、プロイセン、オランダ、スペインとも講和した。


国民公会は憲法を制定して解散する前に、従来の議員の3分の2が抽選で残ることを決めた。共和政の存続を大義名分としたものであった。95年10月王党派の武装蜂起が議会の目と鼻の先で起こる。議員のバラスが司令官となってこれを鎮圧する。このとき、バラスによって砲兵隊を任されて注目された軍人がいた。ナポレオン・ボナパルトである。この功績を買われて、鎮圧後に国内軍司令官に抜擢されるのである。


2つの新しい議会が発足し、5人の総裁が選ばれた。議員の構成は「3分の2法」にもかかわらず、テルミドール右派といえる共和派はやっと両院(741)の過半数。その内の穏健派140名ほどは立憲王党派に近いぐらいだった。右翼には王党派160名ほどが、ネオ・ジャコバンと呼ばれる共和派左派はわずか60数名。その他は態度のはっきりしないものであった。

総裁5人の中にバラスが入る。状況を悪賢く生き延びてきた元貴族のバラスは総裁政府の中で4年間総裁であり続けた。総裁政府の時代は右にふれたり、左にふれたり、時計の振り子政府といったものであった。リーダーシップを取れる人材は出てこない。それもそのはずだ。信念と責任をもって革命に立ち向かった革命家に値する人物は、テルミドールの反動までにほとんど姿を消しているのである。


総裁政府は最初、左寄りの位置で出発した。左派の一部やサン・キュロットの活動家が釈放された。総裁政府を右に旋回する出来事が起こった。「バブーフの陰謀」である。バブーフの妻への手紙で簡単に触れておいた。彼はその後、エーベル派の活動家と接触をもち、文筆家として活動した。停滞している革命への本格的批判を始めたのは95年10月であった。平等主義は私有権の制限にとどまらず、最終的には私有権を否定して共産主義に至らなければ解決しないというものであった。そのためには議会に圧力をかけるのではなく、権力の奪取を主張する急進的なものであった。スパイを送り込んで動きを察知していた総裁政府は、中核の活動家を一斉に逮捕した。今度は右に振れた。


ところが、97年の選挙では3分の1が改選されてみると、ほとんどが王党派の新人で占められた。総裁政府は軍隊の力を借りて、王党派議員の資格を無効とし、王党派から総裁の一人に選ばれていた議員を流刑に処した。バラスによるナポレオンの協力が裏であったのである。この出来事は政局にしめる軍部の役割が大きくなっていることを知らしめた。

王党派が一掃されたあとの98年の選挙ではこんどは、左派のネオ・ジャコバンが進出する。これはそれを予測していた総裁政府は先手を打って法律を変えていて、106名の左派を排除したのである。合法的クーデタと云える。次の99年の選挙では、またしても、ネオ・ジャコバンが勝利をえた。今度は議会が先手を打って総裁政府に対抗した。総裁バラスとシェイエスが土壇場で左派に寝返り、議会が言い分を通した。議会選挙制を持った政治システムとしては異常である。何のために選挙しているのかこれでは分らない。総裁政府への不信が増すのは当然であった。革命をおしつぶしたい第2次対仏同盟が組まれたのに、政界は機能不全を起こしている。強いリーダーシップが待ち望まれた。


3 【フランスの軍隊】

よくこれだけ混乱した国内状況で、対外戦争をよく持ちこたえていると、誰もが思われるであろう。フランスの軍隊・軍制に簡単に触れておこう。


国王軍(常備軍)

国王を頂点として軍管区に分かれていた。平時は、要塞守備隊や植民地軍などを除くと、連隊毎にフランス各地に駐屯しており、軍は戦時に再編制される。べルサイユやパリの周辺には各種の近衛連隊、警察組織などで、きまった部隊の駐屯はなかった。

革命が起きるまでは軍隊は20万人程。絶対王政期のフランス軍は貴族・志願兵・徴兵・外人部隊など様々な構成員からなりたっていた。あくまでも軍隊は国王の私設軍隊という扱いであった。士官クラスはほとんどを貴族が占めていた。これはヨーロッパ他国も同じようなものであった。


兵隊集めにはいつも苦労していたようである。形の上では常備軍は志願兵によって構成されることになっていたが、実際にはいろんな手をつかって、かき集めていたようだ。そのため、中には兵役を条件に牢屋から出してもらった犯罪者や、借金や女がらみのトラブルから逃げてきた者たちも多くいたという。

勿論、貧しい身からのし上がろうとすれば、軍隊はそれなりの魅力があった。将軍は別にしても、士官クラスに抜擢される者もあった。その代表がナポレオンである。

逆に兵士の仕事を食っていくための方便と割り切っていた連中も多くいた。中には戦争が始まりそうになるととっとと逃げ出し、他国の兵隊に潜り込む者もいた。外国人部隊の存在もこの時代の特徴である。1790年時点で79あったフランス軍歩兵連隊のうち、23連隊が外国人連隊だった。特に多かったのがスイス人連隊(11)で、これは昔からスイス人が傭兵として有名だったことによる。


市民軍⇒国民衛兵⇒革命軍

革命で市民は王権と対立したのである。自らの安全は自らで守る。武装するのは当然といえる。それがバスチーユの攻略になったのである。パリだけでなく全国にも作られ、国民衛兵(民兵組織・普段は生活に従事していて、ことあるごとに召集)と呼ばれるようになる。革命を守ることを使命とする部隊である。ときの革命指導勢力に従うのは仕方がない。最初は立憲王党派、共和派の穏健派、共和派の急進派と指導層の移りよって、行動も変わってくる。また、この中から義勇軍として多くのものが常備軍に合流していった。革命以前にも民兵組織は常備軍の予備部隊として存在していたが、革命とともに国民衛兵と再編成された。士官は選挙で決められた。


徴兵制度

93年2月に発令された30万募兵にもかかわらず、共和国軍の兵士の質は高いとは言えなかった。1793年8月のロベスピエールの「国家総動員法」での徴兵は、身代わり制度(富裕層はお金で代理を立てることが出来た)のある30万人募兵と違って、ブルジョワも下層民衆も全く平等に徴兵し、共和国軍に約100万の兵力を供給する道を開いた。しかしこれは革命終了までの臨時徴兵制度であった。国を守ることに加えて革命を守る、革命精神も教育された。1794年6月には士官学校が設立されている。


革命時のフランスの人口は2500万を越していた、イギリス1000万、独立時のアメリカは400万、ドイツは1500万ぐらいと推計されている。戦争に持ちこたえたのは、圧倒的な人口大国であったこと、いち早い徴兵制度の兵士数(一時150万も動員されたといわれる)と、兵士の革命精神といえるかもしれない。

また、戦争は前線の戦いだけではない。兵站こそが大事である。その意味では総動員法は機能した。武器や衣服の製造、硝石の生産など様々な分野で戦争に関連した動員が行われた。軍務大臣のブーショットはフランスにいる全ての靴職人に対して、10日当たり5足の靴を提供するよう命じたし、年間9000挺のマスケット銃しか作れなかったパリの軍事工場は、93年9月から13ヶ月の間に14万5千挺のマスケット銃を製造したという。

革命政府は内部の権力の変遷はあったが、一貫して革命的ではあった。国民軍対王国軍の違いといえる。

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