第15話 第4章 揺り戻される革命-1『テルミドールの反動』
1 【テルミドールの反動】
エーベル派、ダントン派の粛清は、ジャコバン・クラブ自身としては、その勢力を縮小したことになる。過激ではあったが民衆運動に近かったエーベルの粛清は民衆運動との距離を遠くした。右派寛容派としてのダントンを失ったことは、国民公会で多数を持つ平原派との接点を切ることにつながる。孤立したロベスピエール派、左右のしめつけをさらに強める。94年3月から4月にかけて人民クラブ、民衆協会は公安委員会によって「反革命」の名のもとに、あらかた解散されてしまっていた。セクションでも積極的な活動家の多くも同じ容疑で排除されていた。気がつけばロベスピエール派は全く孤立の中にあったのである。
そしてテルミドール(熱月)の9日がやってくる。94年7月27日、国民公会はロベスピエール、その弟、サン・ジェスト、クートン、ルバら5名のロベスピエール派議員の逮捕・拘留を決定した。
ロベスピエールは国民公会にも、公安委員会にも、1カ月もの間顔を出していなかった。議員の間には次なる粛清の不安が広がっていた。ロベスピエールが久しぶりに議場に姿をみせ、「犯罪的な同盟」を告発する演説をぶつ。左右両派からロベスピエール攻撃ののろしが上がった。一人の議員が叫ぶ「国民公会の意思を麻痺させた男はただ一人。その男、ロベスピエールだ」と。
それでも、パリ市のコミューンが蜂起し、彼らを市庁舎にとり戻す。国民衛兵を含め3000人の民衆が集結していたとされる。ただちに武装攻撃を国民公会にかけていれば、事態はまた変わっていたかもしれない。しかし、ロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。ここまでを読まれていたなら、ロベスピエールの心情はおわかりになるだろう。国民公会を否定する気は彼にはなかった、それをすることは革命を否定することになるし、エーベル派を粛清した理由がなりたたない。彼は革命に殉ずる決意をしたと理解するべきであろう。
衛兵や群衆たちは指令が出ぬまま午前1時を過ぎて散会していった。その直後、国民公会側の武装衛兵が市庁舎を制圧した。ロベスピエールはピストル自殺をはかったが(撃たれたの説もある)、失敗。血まみれのまま5名は再び逮捕され、革命裁判所は彼らを含む、ロベスピエール派22名を処刑した。翌日には70名のコミューンのメンバーがロベスピエール派として処刑された。孤立していたとはいえ、最後民衆に守られたこの事実は、ロベスピエールらにとっては、救いであったろうと思われるのである。
このあと、総裁政府が樹立され、左右にぶれる不安定さの中で、ナポレオンによるクーデタで革命派収拾されるのであるが、民衆運動としての革命はここで終わったのかも知れない。
テルミドールの反動は、反動であっても反革命ではない。革命政府の継続を望むテルミドール左派にしても、革命政府の解消を考えるテルミドール右派にしても、国王を処刑して共和政をとった責任は共有していた。何より、外国との戦争はまだ続いているのである。
なにより人々はテロルの応酬による恐怖政治に倦んでいた。テルミドール右派が主導権をとったのは自然のなりゆきであった。公安委員会の権限縮小、革命政府の編成替え、政府によるパリ市の管理、ジャコバン・クラブの閉鎖、価格統制令の廃止と矢継ぎばやに決定された。恐怖政治がとり除かれて、お洒落や飽食を富裕層が楽しみ始めた。『フランス革命史』の著者、ミシュレは10歳である少年を登場させ、パリの街の変化を両親に尋ねさせる。「ロベスピエールが死んで大変化がおこったのだと」両親は少年に答えるところで終えている。
しかし、民衆の生活はいぜん苦しかった。統制令が外され、闇市場はなくなったが、アッシニア紙幣の暴落とインフレがさらに昂進した。
こうした状況に耐えかねて、95年パリの民衆は「パンと憲法」を求めて2度蜂起をした。山岳派によってなされた民衆運動の骨抜きは、かつてのような力をサン・キュロットから奪い去っていた。議会の中でも呼応する議員はいない。この蜂起は失敗に終わり、パリの民衆運動は息の根を止められ、1830年まで、大規模な民衆運動はなくなった。
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