第14話 第3章 引き返せない革命ー3『恐怖政治』


4 【非キリスト教化運動】

王政は打倒された。貴族の身分は廃された。第一身分の聖職者もアンシャン・レジームの一角を担っている勢力とみなされた。宗教の自由は憲法で認められたが、聖職者市民法による宣誓を求められ、宣誓を拒否したものは反革命勢力とみなされた。新たな宗教、ないしは宗教にかわるものが求められたとしても不思議ではない。


93年10月国民公会はキリスト教と結びついたグレゴリウス暦にかえて、共和政の樹立を起点とする「共和暦(革命暦)」の導入を決めると、「非キリスト教化運動」がおき、既存宗教を否定する運動に激化していった。パリ・コミューンはこの「非キリスト教化運動」を公式政策としたのである。「聖」のつく街路の名前は変更され、聖職者の衣服の着用が禁止された。11月にはキリスト教色のない「理性の祭典」がノートルダム大聖堂でおこなわれた。各地で、聖職者が聖職放棄や妻帯を強制された。教会が閉鎖されて「理性の神殿」に転用され、礼拝が禁止されたりした。キリスト教否定のこの運動は一時フランス全土の三分の二をおそったといわれる。


ロベスピエールはエーベルらのこの運動を強く非難した。教会に好意を持っていたからではなく、内外の多くの敵と戦わなければならない共和国の現状を考えると、カトリックを信仰している住民、特に農村部に与える影響を心配してである。国民公会は「礼拝の自由」に対する暴力と脅かしを禁じる法令を出す。

ロベスピエールは信教の自由を認めたうえで、キリスト教に代りうるものの必要を感じていた。それを理性を絶対視した「最高存在」として、94年5月7日『最高存在の祭典』を挙行している。彼の絶頂期であった。


94年3月、打倒ロベスピエールの蜂起を準備しようとしたエーベル派は結果的には、ロベスピエール派の思うつぼにはまって、公安委員会の指示で逮捕され「外国からの陰謀の手先」として処刑された。セクションは動かなった。

続けて4月、ダントン派の粛清に入る。ダントン処刑。インド会社清算に伴う横領及び収賄が逮捕理由であった。逮捕理由はいかようでもよかった、全ては「反革命」である。ダントンがギロチンへの道すがらロベスピエールの家の前を通りかかると「ロベスピエール、次は貴様の番だ!」と叫んだのを、道々の人は聞いた。


人物:ジャック=ルネ・エベール(1757~94年)

アランソンの裕福な金銀細工師の子として生まれる。両親の遺産も使い果たして放浪ののちパリに出る。パリでは劇場の検札係などの職を転々とする困窮した生活を送った。1790年に新聞「デュシェーヌ親父」を創刊。サン・キュロットの代弁者として頭角を現した。


5 【恐怖政治】

左右両派を切り落として終わりにはならない。革命政府の独裁はさらなる粛清のテロルとなる。丁度この頃、戦局が好転したのである。非常時のときであって、強力な独裁が支持されたのである。戦局の好転は却って革命独裁への風当たりとなってあらわれた。左右両派の粛清は当然、左右の批判と不満を呼ぶ。これに対し、公安委員会、保安委員会はさらなる革命裁判の強化で対処しょうとする。

ロベスピエールは態度を硬化させる。国民公会をも敵視しだす。粛清の嵐が吹き荒れる中、疑心暗鬼が人々の心を捉える。悪循環が繰り返される。


93年秋には王妃マリ・アントワネット、ブリッソらのジロンド派、オルレアン公フィリップそしてバルナーブやバイイの旧フィヤン派がギロチンにかけられる。それでも200人に満たなかった。地方ではけた違いの粛清がおこなわれた。94年に入ってはすでに述べた、エーベル派、ダントン派の粛清である。94年7月のテルミドールの反動で恐怖政治が終焉するまでの期間、約50万人のひとが反革命の容疑者として収監され、死刑の宣告を受けて処刑されたもの1万6千人。内戦地域で裁判なしで殺されたものの数を含めれば、4万人にのぼると、現在の研究では推計されている。それに外国との戦争の死者が加わる。革命とはすさまじいものであるが、なんと多くの命の上になされるものか。

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