第13話 第3章 引き返せない革命ー2『ジロンド派と山岳派の死闘』


3 【ジロンド派と山岳派の死闘】

93年4月5日マラーが議長になってジャコバン・クラブは国王裁判の際の「人民投票派」を根絶せよと声明を出す。これに対してジロンド派はマラーを「9月虐殺」の主導者として革命裁判所に告発。しかし結果はジロンド派に裏目と出た。マラーは無罪放免。革命裁判所への「議員の告発」という前例をジロンド派自身が作ってしまったのだ。これがじきにわが身にふりかえってくることになる。

5月中旬ふたたび攻撃に出る。今度はパリのコミューンが標的になる。エーベル*とヴァレンが逮捕された。エーベルは強硬な反ジロンド派の論客として有名であったが、コミューンの副総代でもあった。彼の釈放を要求したコミューンの代表に、このときの国民公会議長でジロンド派のイスナールが不用意な発言をしてしまった。「国民代表に攻撃が加えられるようなことがあれば、全フランスに訴えて、パリはなきものになるだろう」。


パリのセクションに集うサン・キュロットたちはパリ抹殺をほのめかした脅しに猛反発した。ジロンド派打倒の蜂起が準備される。エーベルは釈放されたが、事態は収拾されない。山岳派はセクションが連合した蜂起計画には乗って来ない。民衆運動はあくまで、山岳派を院外で支持する範囲にとどめておきたかった。

この蜂起は動員が不十分で未遂に終わるが、再度次の準備にかかる。国民公会ではロベスピエールやマラーがジロンド派追放をせまるが、議論が果てしなく続くだけ。実力行使は6月1日夜半からはじまった。2日、議場のまわりは群衆で包囲される。大砲の圧力のもと、ついに議会はジロンド派首脳の29名と大臣2名の逮捕拘束を決議した。ついに山岳派はジロンド派排除に成功したのである。しかし、この荒ぶるパリの民衆運動を統御することは、どうしたらかなうのだろうか。地方は大丈夫だろうか。


6月2日事件は地方ではかならずしも歓迎されなかった。自宅拘禁されたジロンド派の議員が脱出して、地方に散って巻き返しをはかっただけではなかった。6月末には60の県で反発が生じたのは、パリの独走が好まれなかったからである。リヨン、マルセイユ、ボルドー、ニーム、軍港のあるトゥーロンなど南にある重要な都市がジロンド派の手に落ちた。

山岳派は農民をつかむための政策を国民公会にとらせる。国有地の小区画での売却、住民が望むなら共有地の分割を認めること、領主権の無償廃止等は農村部において革命を不動のものにした。もはや、王党派が復活しても、貴族の封建制を許すものではなくなった。一方で土地を持った農民に対して、小麦を独占、隠遁したものに対する極刑の法を決めた。そして山岳派は憲法改正を急いだ。6月24日に採択された新憲法(共和暦第1年の憲法)は国民投票にかけられ承認された。この憲法は俗に「ジャコバン憲法」と呼ばれるものであるが、非常事態のなか実施は延期された。


史上最初の徹底した民主的憲法であった。普通選挙(21歳以上の男子)、労働や福祉や教育にたいする権利を規定して、より平等主義的な性格が強かった。

「各人は自由にその意志を表明する権利」を有する(26条)、そしてまた圧政に対する蜂起権(35条)が明記されていた。これが、山岳派が延期した理由である。理想的であるがゆえに、実施できなかったのである。かくて、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的であり続ける」と宣言する。


マラーが暗殺された。暗殺者はシャルロット・コルデ、ノルマンディの貴族の娘、もうじき25歳を迎える。兄二人は亡命し、コンデ公の反革命軍に参加していた。7月13日の朝、マラーの家を訪れ、面会を求めたがはたせず、夜7時再び訪問。朝夕訪ねてくるとは熱心なことと、マラーの妻が通してやる。皮膚に病を持っていたマラーはもともと医者で、治療のために薬浴しながら書き物をしていた。匕首が血染めの原稿の上に転がっていた。捕えられたシャルロットは死刑判決を受けて処刑された。彼の悲劇的な暗殺は、彼を革命の殉教者としての神話化がただちに始まった。


5月4日の小麦価格統制令はパリでしか有効でなかった。8月、ロベスピエールが議長となった国民公会は、国民総動員令を決める。民衆の要求をのんで、反革命容疑者の拘束法、革命軍という名の食糧徴発隊の結成が決定される。9月、ついに、小麦だけでない総価格統制令が可決された。国民総動員令、戦時経済体制、それらは山岳派が望んでいた強い権力を持った政府を必要とする。


93年7月、公安委員会の組み換えがおこなわれる。いわば、内閣の交代である。ジロンド派の排除を受けての措置であった。ダントンが退き、ロベスピエールが委員となった。12名の委員が決まる。8名は弁護士、平均年齢は35歳、若い情熱家たちであった。7名がジャコバン・クラブの会員だった。公安委員会のリーダーはロベスピエールで彼は名実ともに権力のトップの位置についたのである。

戦時体制の臨時革命政府は国民公会に21の委員会を組織する。外交・軍事・一般行政を担当する公安委員会と、治安維持にあたる保安委員会に強い権限が与えられた。地方の行政も、最終的にはこれらの委員会に集約される。報告と監視の仕組みに組み立てたてられる。強力な中央集権体制の成立、いわゆる恐怖政治で語られるジャコバン独裁体制である。


94年1月ロベスピエールはジャコバン・クラブで演説をした。「革命の行き過ぎ派」と「行かな過ぎ派」の批判である。行き過ぎ派はエーベルトその仲間、93年秋からさかんになった非キリスト教化運動、ないしはキリスト教否定運動をめぐって対立が先鋭化したのである。行かな過ぎ派はダントン派をさす。おなじ山岳派内でもダントンはすでに、93年秋から恐怖政治の行き過ぎを批判していた。ダントンはエーベルらのキリスト教否定運動にも批判し、寛容と普通の生活への回帰を説いていた。そろそろ革命を落ち着くところに落ち着かせなければならないという考えであった。

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