第12話 第3章 引き返せない革命-1『国王の処刑』
1 【国王の処刑】
タンブル幽閉中のルイ16世の処遇が問題となった。ジロンド派は共和制に進んだ革命を放棄してしまおうとしていたわけではないが、ルイ16世を裁判にかけることは何とか避けようと模索した。裁判は国民投票に問えとした。国民主権の原理的考えである。山岳派はこの祖国の危機に、長期間を要する国民投票をすることは、国土を内乱の流血に投げ込むに等しいと反論した。国王追放、重禁固、執行猶予つきの死刑と、なんとか国王の死刑だけは避けようとした態度は、一つには外国軍が強硬になることを恐れたのであるが、中間派の不信を買った。
ロベスピエールも裁判には反対していた。ただし理由はジロンド派とは正反対で、彼は即時の処刑を求める。「人民を謀反者として告発した。しかし、革命と人民は彼こそが謀反者だと明らかにした。したがって、ルイは裁かれることをえず、すでに裁かれているからだ」と。
全く無名の弱冠25歳の議員がロベスピエールに同調する激烈な演説で注目を引いた。「あらゆる王は謀反者であり、権力強奪者だ。王が罪なく統治することはありえない。……ルイはその罪以前から市民ではなかった。まして重罪以後は全く市民ではない。彼に判決を下すということは、彼を市民として扱うという重大な過ちを犯すことではないか」
サン・ジェストの登場である。しかし、ロベスピエールたちの意見は議会内では少数派であった。
事態を一変させたのは、国王の秘密の戸棚がたまたま発見され、外国との書簡が見つかったのである。国王裁判は避けられなくなった。裁判は国民公会議員によってなされた、判決は公会議員の投票になる。この投票は傍聴席に民衆がつめかけるなか、議員の一人一人が口頭で賛否を明言し、必要なら意見を述べるという方式がとられた。いわば、民衆監視下に議員全員が態度表明を迫られたのである。まず、「国家転覆か」では有罪が圧倒的。続いて「処刑に処すべきか」、387対334で死刑が決定。ジロンド派は敗れた。革命はもはや引き返せないところに立った。自らの手で退路を断ったのである。処刑は93年1月21日朝、革命広場(現在のコンコルド広場)でおこなわれた。処刑されたルイ16世の首がかかげられると、革命広場につめかけていた民衆から「国民万歳」の声がいっせいにあがった。
国家を外国に売渡し、革命をつぶそうとした。ルイは死刑に価するか、しかり。今の私たちでは議論するまでもなく当然とすることでも、800年の王政の歴史を断つことには躊躇がいったのであろう。しかし、国王を裁かない限り革命が進まないことは必然であった。ジロンド派が国王の死刑に賛成であったら、革命によるギロチンの犠牲者は国王だけで済んだかも知れないのだ。
ついに国王が処刑された。ニュースはヨーロッパの王侯貴族のあいだを走り抜けた。その衝撃はいかばかりであったろうか!イギリスが反革命諸国側について参戦を決意する。対仏大同盟が結成されたのである。みずからのイニシアティブで戦争の道を選択したジロンド派は革命的高揚に燃える民衆を前にして、日和見をきめるわけにはいかない。最初開戦に反対したロベスピエール派も、ことここに至っては徹底抗戦の道しかない。ジロンド派も山岳派もない、外に向かっては愛国の一致団結であった。政府と議会は、イギリス、オランダにも宣戦布告し、全面戦争に突入した。
人物: ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト(1767~94年)
幼少期をヴェルヌイユの司祭だった伯父の元で過ごしたのち、ランス大学法学部に入学。入学後1年を経ずして学士号を取得した。ロベスピエールの右腕となって活躍した。その美貌と冷厳な革命活動ゆえに「革命の大天使」または「死の天使長」との異名をとった。かれもまた、テルミドールの反動で処刑された。27歳になる1カ月前であった。
2 【ヴァンデの反乱】
危機は国内でも生じた。西部のヴァンデ地方で農民の大反乱が起こったのである。小農、貧農が多い地方で、カトリックの信仰が生活に浸透している地域であった。彼ら貧しい農民には、革命はなんの恩恵も与えていない。93年国民公会は全面戦争に備え30万の徴兵を決定した。もともとパリに対する反発が強かった。そこへ、パリから徴兵の押しつけが降って来た。都市のブルジョワは金と引き換えに徴兵を免れているというではないか。パリからの押しつけと、革命から利をえて支配権を振るうこの一帯の小都市のブルジョワに反発したのである。自分たちのものでない戦争に、夫や子供を送りだせるか、自分たちは普通に生活したいだけだ。これが武器を取って蜂起した農民たちの心情であった。
この反乱をパリは無知な農民が反革命派に踊らされていると受け取った。派遣された鎮圧軍による弾圧はすさまじかった。非戦闘員の女性や子供たちまでしばしば殺された。93年の末までには戦争といえる状態は鎮められたが、その後もおりにふれゲリラ戦を農民は展開したのである。
内外の戦争が危機感を強める。パリのセクションやクラブのサン・キュロットの運動はこれまで以上に活発に高揚していった。セクションには多様な委員会が作られる。貧民救済委員会、革命監視委員会、軍事委員会などである。サン・キュロットはそれらで経験を積む。国民公安法令は、セクションの革命監視委員会を追認し、市町村レベルまで同じ委員会の作るように命じた。それに先立って国民公会は、反革命分子を裁くための革命裁判所を設置していた。革命裁判所は上級審のない、簡略にして強力な決定権を持った。93年4月、議会内で強力な権限を持つ「公安委員会」の設置が決定する。5月、小麦粉の価格統制令が決まる。民衆運動の高揚を背景にした一連の強硬措置はジロンド派の意向にはそわないものであった。これによってただちにジロンド派が敗北したわけではない。ジロンド派、山岳派、民衆運動の三者が綱引きをし、ジロンド派と山岳派の死闘が演じられるのである。
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