第11話 第2章 革命の勃発ー9『国民公会』
22 【国民公会】
ヴァルミの丘で革命軍が初めて勝利した日、立法議会は幕を閉じ、翌9月21日国民公会が開会し、共和国宣言がなされた。能動市民、受動市民の区別のない男子による普通選挙であった。選ばれた749人うち、国民議会、立法議会の経験者は280
名。3分の2は新人であった。議員の誰もが共和政を否定しないなかで、右派に立ったのはジロンド派、ブリッソ、コンドルセル、ヴェルニヨ*らであった。左派に立ったのは山岳派でロベスピエール、ダントン、マラーの名があがる。
両派とも、ジャコバン・クラブにまだ属しているが、クラブの運営に積極的だったのは山岳派で、ジロンド派はロラン*夫人のサロンのような上層ブルジョアを含む集まりに中心を移していた。両者の間には「平原派」と呼ばれた中間派(400名ほどの多数)がいて、彼らの投票行動が審議を左右した。発足当初はジロンド派が優勢であったが、革命の進行につれ徐々に山岳派が差をつめていった。
両派の違いは、コミューンやセクションの民主運動との関わり方にあったことは既に述べた。自由や平等といった抽象的理念をどう現実化するという点でもへだたりがあった。自由という点ではジロンド派の方が、個人や経済の自由をあくまで原則にしょうとし、山岳派の方は非常時に対処するためには統制措置もやむを得ないという立場に立った。所有権については絶対性を唱えるジロンド派に対して山岳派は非常時には制限され得るとした。革命の徹底のためには中央集権が必要だと考える山岳派、パリの独走を警戒して、分権的、連邦的な観点を持ったジロンド派、革命の進行とともに両者の違いはますます大きくなっていった。その違いは支持層の違い、上層市民層と中下層市民層、持つ者と、持たざる者との違いであった。
国民公会発足当初はジロンド派が圧倒的に優勢だった。8月10日事件以来の政情不安定、とくに9月の虐殺に示された混乱、これが議員選挙にあたって、安定を求める秩序維持志向に働いた。そして、ヴァルミの勝利がしばらくの安寧をもたらした。ジロンド派はそれをいいことにした。
議会とコミューンとの仲介役をやっていたダントンを左派だということで、金銭疑惑で切りすてた。活動的だったダントンは大臣として地方の反革命対策や情報収集(スパイ活動)に多くの裏の費用を必要としていた。ジロンド派の指弾に「箱入り娘でも使えというのか」と反論したという。
パリの急進的なセクションやクラブとの運動との関わりにあるマラー*やロベスピエールを9月の虐殺を煽った独裁者だと非難する。9月2日のロベスピエールのジロンド派リーダー逮捕計画を、ジロンド派は許さなかったのである。
ジロンド派自身、臨時行政評議会(臨時政府)として虐殺を放置したと責任を問われていた。ロベスピエールたちを叩くことによってそれの回避をはかった節もあった。
しかしこうした個人攻撃は裏目に出る。ロベスピエールは筋を通して論争することにかけてはずば抜けた力を持っていた。
「法が機能していないときに、公共の安全に必要な手段をとったからといって、既存の法でそれを判定するのか。だとすれば、革命も、王位の転覆も、バスチューユの攻略も非合法だし、自由そのものも非合法ではないか、諸君は革命なしの革命を求めているのか」と、ジロンド派の攻撃を切り返した。まさに革命の性格を見事に言い当てている。しかしこの考えは、のちの恐怖政治につながる考えでもある。ともかくジャコバン・クラブでは彼の信望は上がった。
ロベスピエールは民衆の革命的な情念がコントロールなしに放置された時の危うさを知って、民衆運動と連携しつつも、これを統御できなければと考えた。それには集権的なパワーがいると察知したのである。一種の前衛理論である。
ジロンド派であったデュムーリエ将軍が敵と内通し,国民公会を打倒しようとしてパリへの進軍を企てた事件が発覚して、両派の間は抜き差しならないものとなった。
人物:ロラン夫人(1754年~1793年)
平民の出であった。美貌に加えて並外れた知性と教養でサロンを主宰した。夫ロランンはリヨンで工業監察官の実務派であった。年齢差は24。夫の著作を手伝っていた。
革命が彼女の中に眠っていたものに火をつけた。パリに出て来て政治の中に身を置いた。夫ロランが内務大臣になってからは「内務大臣はロランではなくその夫人だ」と
まで言われた。サロンにはジロンド派の主だったメンバーが集った。彼女は静かな中に強い意志を持った女性だった。ジロンド派の黒幕的存在とみなされるようになっていた。議員でもなかったが、ジロンド派粛清の中で刑に問われた。
「ああ、自由よ。汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という言葉を残して断頭台の露と消えた。ノルマンディへと逃れていた夫のロランも、夫人の処刑の報を聞き後を追った。
ピエール・ヴィクトリアン・ヴェルニョー(1753年~1793年10月31日)
ジロンド県のブルジョワジー出身。テュルゴーの援助で、パリで学び弁護士となる。ブリッソーと共にジロンド派の指導者の一人になる。雄弁家で“ジロンドの鷲”の異名をとった。ルイ16世の死刑を宣告した時の国民公会の議長であった。ロベスピエールと対立し、他の同志とともに処刑された。
シャルル=フランソワ・ドゥ・ペリエール・デュムーリエ
国王軍の将校の子として生まれ、57年に志願してフランス騎兵隊に入隊。革命勃発と共に、ミラボー、ラファイエット、などの立憲君主派に接近、その後ジロンド派に属する。92年ジロンド派内閣の外務大臣に就任。開戦論者であった。
6月の内閣解散で、外相辞任後、北方軍の司令官となった。ヴァルミーの戦いでプロシアに勝利した司令官であった。政府の方針を無視してベルギー、オランダに侵攻して失敗した。その責任をロベスピエールに追及される。国王処刑に至った時点で、彼は革命が行き過ぎていると不満を感じ、パリに進撃して王権を回復する陰謀を企てていた。しかしパリへの進撃は怒った兵士たちに拒絶され、オーストリア軍に投降し逃れた。祖国を裏切って以後の彼は、王党派とともにヨーロッパを流浪し、イギリス政府に拾われ、軍事顧問的な仕事をあてがわれ、イギリスで没した。
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