第10話 第2章 革命の勃発ー8『民衆パワー』
19 【民衆パワー・8月10日】
92年3月、パリ南方のエタンプ市で食糧暴動が起こった。当時、ふたたび食糧難が起こって、各地で運動が激しくなっていた。民衆はこの食糧難が、買占めという不正のためだと考え、適正な価格統制を求めていた。エンタプでも同様であった。これを拒否した市長が殺害される。立法議会はこの市長を、経済の自由を守った殉教者として祭り上げた。ところが、現地のドリヴィエという司教が「モラル・エコノミー」にもとづく考え方を文書にして訴えたのである。この文書に注目した人物がいた。ロベスピエールである。彼は院外にあって、立法議会の動向に問題を感じ、あらたな革命の方向を模索していたのであった。
民衆運動の自然発生的な性格は、革命期をとおして、底流として流れていた。だが、92年あたりから、政局の中心パリでは組織的な動きとして意識されてくる。その単位となったのが「セクション(区)」であった。このセクションとは三部会議員選挙のために区分された60の地区が48に再編されたものであった。このセクションは市長や市役人、あるいは議員の選出にあたって基本となる単位であった。市の行政も実質的にここで担われた。このセクションの総会で、さまざまな市政上の役職が選ばれたのである。
こうした地区のリーダーは革命が展開するに応じて、上層ブルジョワからだんだん下降して、小商人や親方職人のような小ブルジョワまでが存在するようになっていき、93年ごろになると能動市民でない、ただの職人のような、受動市民といわれる人々も加わりはじめてくる。セクションの中心にいたのは、参政権を持った能動市民だが、多くは受動市民にも参政権を広めるべきだと考えていた。セクションに足場を持った運動は、自然発生的な要素を持ちながらも、組織的な動きへと編成されていった。したがって蜂起への行動も、複数のセクションが互いに連携しながら準備される。92年8月10日のパリ民衆の蜂起も、そのように準備されたものであった。
パリの民衆運動は、しばしばサン・キュロット運動といわれる。貴族など支配階層がはくようなキュロット、つまり膝までのズボンをはかず、職人に代表されるような長ズボン(サン・キュロット)をはいている民衆という意味である。こうしたセクションを基盤に組織された民衆運動の担い手を表現した言葉であった。
オーストリア同盟国プロイセンが態勢を整え、プロイセン軍が国境に接近しているという報が伝わると、議会は「祖国は危機にあり」と非常宣言を発した。一方、7月14日の記念祭典にむけて、国民衛兵たちはパリにのぼりはじめていた。連盟兵と呼ばれた彼らは、祭典のあと義勇兵として前線に出発していく手筈になっていた。しかし中にはまだパリに留まっている兵士もおり、14日以降にも到着する者たちもいた。7月30日に到着したマルセイユからの連盟兵が道々歌ってきたのが、のちに国歌となった「ラ・マルセイエーズ」である。
戦局が危機にあるなか、王党派の新聞は依然として発行され、実力による革命の敗北を喧伝している。ジロンド派は過激な共和思想の台頭を非難する一方で、国王との妥協もさぐって、毅然としない。「革命の虐殺」が準備されている。革命と祖国を防衛しなければならない。共通の心情がパリのセクションをとらえる。セクションを基盤とするサン・キュロットは、王権の停止と議会の刷新を掲げて蜂起の準備に入った。連盟兵たちも、マルセイユからの部隊も同調した。
8月9日夜、47セクションが出撃の準備を整える。王権停止を求めた議会からはなんの返事もない。翌朝、各セクション代表が市庁舎に集結して、既存の市議会にかわって「蜂起コンミューン」を宣言。各地区からサン・キュロットと連盟兵がチュイルリ宮へと進撃。国民衛兵は国王の護衛を放棄し、宮殿はスイス人傭兵が守るのみであった。はげしい銃撃戦となり、傭兵側は600名、蜂起側は400名の死傷者がでた。正午に宮殿は陥落。国民議会逃れようとした国王ルイ16世一家はただちに監禁された。蜂起コミューン議長ユグナンは議会で蜂起の意向を陳述、議会は王権の一時停止、男性普通選挙制によって選出され立法議会にかわる新しい『国民公会』の召集を布告した。国王一家はタンプル塔に監禁される事になった。
この8月10日の出来事を、歴史書はダントンの煽動とか、ロベスピエールの画策、ジャコバン派の指導とするが、彼らの働きかけがあっただろうが、この「第二革命」と例えられるが、真の主役は、主体性を持ったセクションのサンキュロットと連盟兵であったと云わざるをえない。この8月10日の出来事によって、フイヤン派(立憲王政派)は完全に葬り去られ、完全共和政に向けて穏健か急進か、舞台は国民公会でのジロンド派と山岳派(議席が一番高いところを占めていたのでこの名前)の対立、抗争へと移っていく。
20 【山岳派の台頭】
8月10日に、パリ市の実権を握った蜂起コミューンはその成立経緯からして、市政だけで満足するわけではなかった。直接民主政に近い原則に立とうとするコミューンの革命路線は、議会に圧力をかける存在として、二重権力状態になったといえる。
各県に使節を派遣して、8月10日の革命の意義を広めるようにコミューンにすすめたのはロベスピエールであった。
ロベスピエールとコミューンとの関係は微妙である。この時期、議員でなかった彼はコミューンの一員となる。しかしコミューンと一体化して民衆運動にのめり込むのではなかった。革命を進めるのには、民衆運動との提携は不可欠と考えていた。しかしそれはあくまで提携であった。反ロベスピエール側からみれば、彼は裏で糸引く存在と映ったであろう。
地方の受けとめ方は賛否両論あったが、パリからの一方的な情報伝達は、概して冷たくあしらわれた。コミューンの圧力のもとにおかれた議会もそのままでは引き下がれない。王権停止を受けて6人のジロンド派からなる「臨時行政評議会」が設置された。法務大臣には、パリの民衆運動に近いダントンがつき、コミューンとの仲介役という困難な役割を任せられた。8月11日には反革命容疑者の逮捕が全国市町村に求められ、26日には宣誓を拒否した聖職者に国外退去命令が出された。いずれもコミューンの圧力で議会が可決したものであった。
ジロンド派はみずからの責任で始めた戦争をなんとかしたい。そのためには秩序を攪乱しているコミューンをなんとか抑えたい。しかしコミューンではジャコバン・クラブ内で対立しているロベスピエールの影響力が働いている。ジロンド派の議会は二重権力状態にあるコミューンを解散させようと画策するのだが、うまく実現できないまま国民公会の選挙が始まっていた。
21 【9月の虐殺】
国王派の亡命者と外国軍が革命の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命の容疑者を捕えよ。92年8月11日、立法議会がコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、これらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。
8月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行なわれたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇軍の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた。
8月30日パリ市内で家宅捜査がおこなわれて、約3000人の容疑者が逮捕された。機能すべき「特別重罪裁判」はジロンド派が熱心でないため、機能していない。パリ防衛の要、ヴェルダンの要塞が包囲されたという急報がパリに伝わる。9月2日の朝だった。コンミューンは布告を発する。「市民諸君。武器を取れ。敵が市門に迫った。ただちに諸君の旗を掲げて進め。シャン・ド・マルスに集合せよ」コミューンは防衛を固め、警鐘は乱打され、市門は閉じられた。義勇軍の編成が始まる。
牢屋の中で「反革命の陰謀」が企てられている。89年の農村で広がったあの同様のパニックが、パリの民衆をとらえる。そして同じように前方に向かって逃げた。やられる前に、やれだ。
その日の午後から民衆による牢獄の襲撃が始まった。数日間吹き荒れた犠牲者の数は1000人から1400人とみられているが、その4分の3がありふれた通常の犯罪者だったとされる。その中には革命に対する宣誓を拒否した司祭たちもいた。コミューンもジロンド派の議会も荒れ狂う民衆を抑えることは出来なかった。あるいは、あえて抑えようとはしなかった。のちに革命が収拾局面に入ったときに調査がなされたが、ふだんはまっとうに生活している職人や親方、小商人たちであった。尋問された彼らはなぜ尋問されるのか理解できなかった。祖国が危機にあって、陰謀があるのに、裁判が機能していない。人民が裁いて警鐘を鳴らすのは当然ではないか。指揮者がいなかったのかという問いには、だれもがいなかったと答えている。「9月の虐殺」として知られている凄惨な事件であった。
この事件をめぐってジロンド派はダントンやマラー*を主導者と非難した。裏で糸を引いたのはロベスピエールだと嫌疑をかけた。そしてこれを執拗に追った。迫りくる危機の中でダントンは立法議会で激を飛ばした。マラーは「牢獄に行き、人民の敵をこらしめてからでないと出発してはいけない」という檄文を書いた。しかし、それがどうしたというのか。無差別の殺人を教唆したわけではない。外敵と反革命分子から追い詰められたと感じている民衆の本能的な行動であった。制御すべき責任は政府ジロンド派にこそあったのではないか。
9月2日の夜、ロベスピエールはジロンド派が外国と通牒していたとしてジロンド派のリーダーの逮捕を計画した。しかしこの計画はダントンの介入で中止された。この9月の虐殺のあと、パリの民衆は大挙して義勇兵として志願して、各地の義勇兵とあわせ革命軍の兵力は増強された。ヴァルミの丘で初めてフランス軍はプロイセン・オーストリアの連合軍に勝利をした。軽蔑されていたサン・キュロットの軍隊が、ヨーロッパ最強を誇るプロシア軍に勝った。訓練された職業軍隊に対して、人民的な新しい軍隊の勝利であった。
プロシア軍に従軍していたゲーテは、 「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」 と書いた。
人物:ジャン=ポール・マラー(1743~93年)
スイスの中流家庭に生まれる。ヨーロッパ各地を遊学した後、ロンドンで開業医となる。革命勃発後は、新聞『人民の友』を発行しジロンド派攻撃の論客であった。過激な政府攻撃をして下層民から支持された。最初、コルドリエ・クラブに入り、国民公会の議員に選出されて山岳派に所属した。93年、面会に来たジロンド派支持者の25歳のシャルロット・コルデー(女性)に暗殺された。50歳であった。
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