第9話 第2章 革命の勃発ー7『ジロンド派』


17 【ジロンド派の形成】

91年6月から9月にかけて、「91年憲法」の成立を前提に新議会に向けて選挙が行われた。10月1日新憲法ののもとで立法議会が出発する。再選が禁止されていた(ロベスピエールの提案)ため、議員の顔ぶれはそれまでの国民議会とは一新される。全議員は745名。王党派の保守的な議員は姿を消す。右に位置したのはこの91年憲法で革命を収拾しょうとするフィヤン派260名ほど、左にはジャコバン・クラブに属する130名ほど。地方のジャコバン・クラブで活躍してきたメンバーがパリのジャコバン・クラブ立て直しに寄与した。さらに最左翼に少数ながら急進派のコルドリエ・クラブのメンバー。中央にはクラブの色分けがきかない350名の議員(平原派と呼ばれた)が存在した。


立法議会の弱点は、本当の実力者が院外にとどまったことである。フィヤン派のリーダーであるパルナーヴなど三頭派も、ジャコバン派の実力者となっていたロベスピエールも再選されえないから院外にとどまった。


ジャコバン派は91年憲法(内容が立憲君主制)では不十分であることでは一致していたが、迫りくる外国からの干渉戦争で開戦するか、否かで意見が分かれた。開戦の急先鋒はジロンド派のブリッソで、ジロンド県など南部出身者たち議員が対外戦争やむなしと考えて賛同した。立法議会でジャコバン派として主導権を取ったのが、このジロンド・グループであった。ロベスピエールは開戦に反対していた。旧貴族が抜けた軍隊は統制が取れていず、勝ち目が薄いこと。開戦は国王や、軍部の力を増し、革命の消滅につながりかねないと判断していた。この意見はクラブ内では少数派であった。


国王は戦争には消極的だった。勝っても立憲派の保護化から逃れられない。負けたら人民の怒りの犠牲になる。連合軍の威嚇によって旧体制を受け入れることを願った。


人物:ジャック・ピエール・ブリッソ(1754~93年)

パリに生まれ、革命開始まで文筆家として活動し、イギリスやアメリカにも渡った。また、1784年には奴隷制に反対する過激な論文を発表し、バスチーユの牢獄に投獄されたりもした。国民公会では、ジロンド派を代表する人物となった。開戦に積極的で、オーストラリアに宣戦布告した。山岳派による粛清で、39歳で亡くなった。


18 【ジロンド内閣の成立と開戦】

92年、国王から新たに組閣が命じられる。開戦論が強いジロンド派内閣であった。顔ぶれは首班にブリッソ、内相ロラン、蔵相クラヴィエ、外相デュムーリェらであった。同年4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告する。戦闘意欲のない将軍たち、指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねた。ジロンド派は体制の立て直しをはかった。旧軍以来の将軍たちを動かすために、国王と宮廷に圧力をかける。

そのため、全国から2万の連盟兵をパリに駐屯させる計画を立てた。この計画に反対した国王は、敗戦責任を理由にジロンド派の閣僚たちを解任した。


92年6月「テニスコートの誓い」3周年記念の祝典がチュイルリ庭園で行おうと民衆がつめかける。彼らは王宮の扉を破って国王の部屋まで侵入して「愛国的な大臣たちを復職させろ」と叫び、国王を罵倒し、こずきまわす。国王は仕方なしにつきあうが、要求はのまない。かけつけたジロンド派のパリ市長ペシオンのとりなしで、やっと民衆は解散した。

外国との戦争は緒戦が惨敗であったがゆえに、民衆は革命が危機に瀕していると受け止め、革命を実質的なものにするためにも革命防衛の先頭に立たなければという意識を高めた。

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