第8話 第2章 革命の勃発ー6『国王の逃亡』


15 【国王の逃亡】

91年6月21日、チュイルリ宮の国王の寝台がもぬけの殻なのが発見された。王妃や王子もいないのである。ただちにラファイエットやバイイが対応に動いた。彼らには国王逃亡の計画があるという情報は事前にながれていたが、国王を信頼していた。国民議会にとっては、立憲王政の憲法がまとまりかけていた時である。国王が逃亡したとなれば、全てが再び混乱するのは目に見えていた。


国王の逃亡はバスチーユ攻略の直後から何回か考えられていた。しかし、ルイ16世はそのたびに踏み切れなかった。それは「国王の夜逃げ」である。だが国王は隣接するスペインやオーストリアに密使を送って、国外からの干渉戦争で革命をつぶす計画を模索していた。そしてついに実行に移したのである。王妃マリ・アントワネットの兄はオーストラリア皇帝レオポルト2世であった。6月20日の夜、王妃の愛人、スウェーデン貴族のフェルセンが手引きし、手引きといっても多額の費用を負担したのである。


変装して馬車に乗りこみながら、馬車は、銀食器やワイン8樽、調理用暖炉2台など必要品をたっぷり載せたものであった。小型の目たない馬車が薦められたが、マリ・アントワネットが譲らなかったのである。マヌル川に沿ってひたすら東に走り、シャロンまでは無事に来た。しかしその先では国王を迎える手筈だった護衛の兵士たちが不審の目を引いていた。見とがめた農民たちは、それが領主の逆襲ではないかと疑い、小競合いが起こり、護衛はそれ以上目立つのをおそれ、撤退した。迎えてくれるべき護衛も見えず不安になった国王たちであったが、午後4時にはシャロンに無事到着した。あと少しだ、安心した国王一行は、ここで優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去っていった。すぐに町中に王室一家が通過したという噂が広まった。


22日に東部国境に近いヴァレンヌで泊まっていた一行が、追跡隊に逮捕され、パリに連れ戻された。宿泊地の町の名前を取ってヴァレンヌ事件といわれている。この逃亡事件は国民の間に衝撃を与えた。われらが国王が逃げた。そして外国と手を結んで自分たちを攻める算段をした。それまで残っていた信望は地に落ちた。

ロベスピエールは裁判を求めた。ダントン*がリーダーとなっていたコルドリエ・クラブ*は共和政を要求する方針を決めた。フランス王国の成立以来800年。王が存在するのが当たり前だった。この共和政の一声を発するのはどれだけの勇気がいったことか。ロベスピエールもダントンもこの日までは共和政を理想と考えていても、現実には口にできなかった。


国民議会の立憲王政派は、これらの動きをなんとかかわして、混乱を収めようとしたのである。そして彼らが考えたのは「国王は誘拐されたのだ」という作り話である。いつの時代もかわらないものである。結局、革命の急進化を恐れて軟着陸を求める派がこれを押し切った。しかし、庶民の間ではこれを信じる者はほとんどいなかった。


注釈:コルドリエ・クラブ

パリの左岸・コルドリエ修道院を会場に設立されたのでこの名前になった。ジャコバン・クラブとの違いは、ジャコバン・クラブは会費が月2リーブルしたが、コルドリエは2スーであった。よって、小商人や、職人、労働者らが入会出来た。そのぶん過激になっていく。

革命時の貨幣単位・価値はある資料によると、単位は1リーブル=20スー、その後リーブルはフランとなったが、両者は等価。現代の円の換算すると、労賃基準(日当)では、おおよそ1フラン(リーブル)=5000円。


人物:ジョルジュ・ダントン(1759~ 94年)

1780年にパリへ出て法律を学び弁護士となり、89年革命が起きるとまずジャコバン・クラブに加入する。独特の存在感を発揮し90年コルドリエ・クラブを創設。急進派で唯一人ジロンド派の内閣に司法大臣として起用される。当初ジャコバン・クラブのロベスピエールと協力関係にあったが、ジロンド派との両派対立を収めようとした寛容的姿勢がロベスピエールの疑うところとなった。94年4月、サン・ジュストの告発で、東インド会社清算にまつわる収賄の容疑でダントン派が逮捕され、粛清された。処刑に向かうとき「ピエール、次はお前だ」と叫んだという。35歳であった。


人物:マクシミリアン・ロベスピエール(1758~94年)

革命後半の主人公は山岳派のロベスピエールである。彼の名前は度々出て来るので略歴のみ簡単に記す。

第三身分であるが、祖父、父と弁護士の家庭に生まれるが、父親が出奔してからは苦学してリセ・ルイ=ル=グラン(パリ大学に並ぶ名門)を優秀な成績で卒業後、弁護士になる。テルミドールの反動によって処刑。36歳であった。

政敵であったジロンド派が私的なスキャンダルからでも倒そうと探索したが、金銭には清廉、女性問題はない。彼の生活は全て革命の中にあった。


『フランス革命史』の著者ミシュレは、「二人は革命の二つの電極、陽極と陰極だった。ふたつ兼ね備わってこそ、均衡は保たれるのだ」と記している。


16 【ジャコバン・クラブの分裂】

コルドリエ・クラブは共和政を要求して、ジャコバン・クラブに共同行動を呼びかけるとともに、90年7月にマルスの練兵場で独自の集会を開く。祭壇の下に二人の男が隠れていて、王党派のスパイとして処刑してしまった。この報を知った、市長バイイと国民衛兵司令官ラファイエットは戒厳令を敷き、群衆を散会させるため、国民衛兵の大部隊を派遣した。小競合いののち、衛兵が発砲、その場に50人ほどの男女が倒れた。さらにコルドリエ・クラブの主要メンバーに逮捕状が出された。1年前には得意の絶頂にあったラファイエットはこれで完全に民衆とは切れた。

コルドリエ・クラブの対応をめぐって、ジャコバン・クラブは紛糾した。これまでジャコバンを主導してきたバルナーブ,デュポール,ラメット兄弟を中心とした。「三頭派」といわれるグループをはじめとして約四分の三が脱会し、「フイヤン・クラブ」を設立した。かれらは、いかに穏健に革命を着地させるかという課題意識だけが共通していた。残った左派は、立て直しを余儀なくされる。

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