第7話 第2章 革命の勃発-5『憲法の成立』
12 【立憲王政の模索】
議会はパリに移った。ブルトン・クラブもパリに移った。クラブはサン・トノレにあったジャコバン修道院の食堂を借りられることになった。正式名称は「憲法友の会」であったが、人々は「ジャコバン・クラブ*」と呼んだ。発足当初は議員のみの200名で構成されていたが、門戸は開かれすぐに1000名を越し、地方都市にも支部が開設され、90年夏にはその数は150にもなった。
このジャコバン・クラブが革命の指導の主役になっていく。しかし、「ジャコバン派」という1枚岩を形成したわけではない。時期によってメンバーも変わるし、主導権を握ったグループも交替した。91年の夏までは「愛国派」という立憲王政派が、92年の秋の「国民公会」の成立までは「ジロンド派」という穏健な共和派が、94年夏までは「山岳派(モンタニュー派)」という急進的共和派がクラブを牛耳った。
89年から91年にかけて立憲王政の憲法実現に向けて議会が動く。この時期を代表する人物にラファイエットとミラボーがいる。ミラボーについては先に述べた。ラファイエットはアメリカ独立戦争に義勇兵として参戦している。独立軍の将軍に任命されて戦った彼は、帰国してルイ16世を説得してフランスによる軍隊派遣に寄与したのである。ルイ16世のアメリカ独立戦争の参戦は、多大な戦費を費やさせた。ラファイエットはフランスのワシントンになりたいと願っていた。立憲君主制の立場であった。また彼は市民からの人気も高く、国民衛兵の司令官に推された「われらが司令官殿」であった。
クラブ内左派と袂を別って、「1989年クラブ」を作って、保守的な改革派の拠点とした。シェイエスがこれに同調した。ミラボーとラファイエットは立憲王政を支持することでは同じであるが、ミラボーはラファイエットに対抗心を剥きだしにした。90年ミラボーは王家に助言を与える代わりに借金の返済資金を受け取る約束をしていた。宣戦と講和の大権を国王が持つか、議会が持つかの憲法論議のとき、彼は国王に認める方についた。ミラボーは左派に対して激烈な演説で噛みついたが、世間では「ミラボーの裏切り」が取り沙汰された。翌91年憲法の発布を見る前に病気で他界した。
注釈:ジャコバン派
元々は、ジャコバン・クラブというさまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであった。しかし、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(モンターニュ派ともいわれる)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る(下図も参照のこと)。
一方で、急進共和派クラブであるコルドリエ・クラブ系を含めてジャコバン派と呼ぶ場合もある。この場合はクラブの違いを意識して区別されるだけであり、両者に立場的違いがはっきりあるわけではない。
13 【憲法の成立】
国民議会での論議は、91年9月3日、フランス最初の憲法として結実した(91年憲法)。人権宣言がその前文をなした。三権分立、一院制の立憲王政を採用した。人権宣言では国民主権が明言されたが、市民は能動市民と受動市民に別けられ、参政権は能動市民に限るとされた。25歳以上男子で、1年以上同一の地に住み、労賃3日分の直接税を納入しているものが能動市民である。しかし、この能動市民が選べるのは議員ではなく、選挙人であった。この選挙人に選ばれるには労賃10日分の要件とされた。この選挙人が選ぶ議員にはさらに厳しい納税条件がついた。能動市民430万人、選挙人は4万3千人と見積もられている。
身分による差別は否定されたが、とってかわったのは財産による判定であった。当然、排除されたものには不満が残る。貿易特権の廃止、国内関税の廃止による流通と商業の自由化、度量衡の統一がなされた。しかし、土地経営の自由化や私有権の確認は、それまでの共同体による放牧や、森林利用に頼って生きて来た農民には、生活をそのものを脅かすものとなった。アラルド法が宣誓ギルドを廃止し、ルシャブリエ法があらゆる結社を禁止した。人権宣言にある市民の自由と平等の理念の現実化であった。しかし、弱い立場の職人や労働者は団結することも許されず、身分制を打ち砕いた自由主義とは弱肉強食なのか、民衆の疑問は晴れない。
この憲法の最大の弱点は王に拒否権を認めたことであった。
14 【財政と宗教での失政】
国家財政の破綻が改革をめぐる紛争の引き金であった。89年11月には教会財産の国有化が決定された。教会による土地所有は王国の20%を占めるほどであった。この時期になるだけ大区画で競売に付された土地を購入できたのは、すでに裕福な農民や都市ブルジョワであった。
国民議会はこの国有財産の競売を前提にして、アッシニアという債権を4億リーブル発行した。国庫負債の返却用である。しかし90年春には紙幣として流通し始め、秋に再び発行した8億リーブルは事実上の紙幣であった。紙幣として細かな単位まで発行されるようになったアッシニアは乱発されるほど価値を下げ、インフレをひどくして民衆の生活を圧迫した。しかし、これは国庫を豊かにした。
教会財産の没収や、十分の一税の廃止で、教会聖職者の扱いが問題となった。聖職者は公選制にされ、俸給を支給される公務員扱いとなった。そうなるには国民と国王と憲法に従うことを誓約しなければならならなかった。
司祭には誓約するものも少なからずみられたが、司教以上はほとんどが宣誓を拒否した。ローマ法王がこの聖職者市民法を公的に断罪して、いっそうフランスの聖職者はどうすべきか混乱した。問題は聖職者その人に関わるだけでなかった。特に村の司祭たちは、農民の生活に密着した存在であった。司祭と村民が対立することはあり得た。しかし、司祭が村民の一生を見守り、相談役として慕われてきた地域では、司祭を敵にまわすことは、農民を敵にまわすことを意味した。革命派は不必要にカトリック民衆を敵にまわす危険に踏み込んだのである。
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